一般論

ミラー氏らは、この本で提示するアイデアは、彼らが提唱するものであれ、他の研究者によるものであれ、それらの多くは、非道徳的で醜悪な、人々の理想に反する、男性もしくは女性にとって受け入れがたい含みをもっていると言います。しかし、彼らはそれを提示しています。それは、科学的判断から、真実であると確信しているからだと言います。提示したからといって、彼らの観察なり確信から導きだせる帰結なり結論が、よいとか正しいとか、望ましいとか正当であると考えているわけではないと言います。
真実こそ、科学研究を導く指針であり、科学者にとって最も重要なものでなのです。さらに、社会問題を解決するには、いかなる場合もまず問題そのもの、そして考えうるその原因を正確に把握しなければならないと考えているようです。根本的な原因を知らなければ、正しい解決策を導きだすことは不可能だからです。事実の正確な観察は、基礎科学にとってだけでなく、社会政策を立案する上でも、重要な土台となると考えているのです。
ミラーらが想定した質間の多くは、たとえば、「だめな父親は多いのに、だめな母親が少ないのはなぜか」とか「なぜ暴力的な犯罪者はほぼ例外なしに男なのか」といったものは、ただのステレオタイプとして片付けられてしまうようなものかもしれないと言います。しかし、この本で取り上げた事柄の多くは、たしかにステレオタイプ的なものかもしれませんが、ステレオタイプというだけで、それが事実ではなくなる、もしくは議論する価値がなくなるかのように言うのはいかがなものだろうかと言います。
多くの「ステレオタイプ」は、統計をもとに、観察から導きだした一般論であり、それゆえ事実であることが多いようです。ステレオタイプと一般論の問題点はただ一つ、個別のケースには必ずしもあてはまらないことだというのです。ステレオタイプには、常にそれにあてはまらない例外があります。世の中には子どもの世話をよくみる父親も女性の犯罪者も大勢います。だからといって一般論がまちがっているわけではないと言います。危険なのは、統計にもとづく一般論を個のケースにそのままあてはめることだと言うのです。「ステレオタイプ」というとよくないものという印象がありますが、多くは経験にもとづく一般論にすぎないかもしれないのです。それが誰かにとって気に食わないか、ある集団に対して批判的であったり侮辱的であったりすれば、ステレオタイプというレッテルを貼られます。ある観察が真実であれば、経験的な一般論となります。誰かがそれに異議を唱えたとたん、それがステレオタイプになると言うのです。
たとえば、「男性は女性より背が高い」というのは、経験的な一般論です。一般論としてはまちがっていません。ちなみに、この現象についても進化、心理学の説明があるそうですが、この一般論にも個別的な例外はあります。平均的な女性より背が低い男性は大勢いますし、平均的な男性よりも長身の女性も珍しくありません。しかし、例外があっても、一般論が否定されるわけではないのです。人間社会ではどこでも、男性は平均して女性より背が高いのです。誰もがこの事実を知っていますが、誰もそれをステレオタイプとは呼びません。誰もこの見方に異を唱えないからです。さらに言えば、一般的に男性は女性よりも長身でありたいと思い、女性は男性より小柄でありたいと思っているからだとも言うのです。

誤った論理

自然主義的な誤謬はショージ・エドワード・ムーアが20世紀に使いはじめた言葉だそうですが、それよりかなり早くスコットランドの晢学者ディヴィッド・ヒュームがこの論理的な誤りに気づいていたそうです。自然主義的誤謬とは、「~である」から「~であるべきだ」への論理的な飛躍であると言うのです。言い換えれば、「自然なものは善である」と思い込むこと、「こうなのだから、こうあるべきだ」という論法です。この例をミラー氏は挙げています。「人には遺伝的な差異があり、生まれつきの能力や才能はそれぞれ違う。だから、差別があるのは当然である」という主張も、自然主義的な誤謬によるものだと言うのです。
道徳主義的な誤謬は、ハーバード大学の微生物学者バーナード・デイビスが1970年代に提唱しました。自然主義的な誤謬とは逆に、「~であるべきだ」から「~である」に飛躍すること、「こうあるべきだから、こうなのだ」と言い張ることだと言います。「善であるものは自然なものである」と信じてしまう傾向と言ってもいいと言います。たとえば、「誰もが平等であるべきだから、生まれつきの遺伝的な差異があるはずがない」と主張することだと言います。サイエンスライターのマット・リドレーはこれを「逆の自然主義的な誤謬」と呼んでいるそうです。
どちらも誤った論理であり、このような主張は科学全般、なかんずく進化心理学の進歩を妨げると言います。しかし、リドレーが的確に指摘しているように、政治的な保守派は自然主義的な誤謬に陥りやすいと言います。たとえば、「自然の摂理では、男は闘い、女は育むようにつくられている。だから女は家にいて子育てに専念し、政治は男に任せるべきである」というように考えるのです。
また、リベラル派は道徳主義的な誤謬に陥りやすいと言います。たとえば、「欧米のリベラルな民主主義は男女平等を掲げています。その立場からすれば、男と女は生物学的に同一であり、それを否定するような研究は出発点からしてまちがっている」と考えるのです。学者、とりわけ社会科学者にはリべラルな左派が多く、進化心理学の学問的な議論では自然主義的な誤謬よりも、道徳主義的な誤謬のほうがはるかに大きな問題となると言います。大半の学者は自然主義的な誤謬を犯すことはまずありませんが、道徳主義的な誤謬にはしばしば足をすくわれると言います。
ミラーらは、この本で、「~であるべき」という議論をいっさいせず、「~である」に徹することで、この一一つの誤謬を避けようとしています「あるべき姿」について語らなければ、どちらの誤謬にも陥ることはないからだと言います。彼らは経験的な事実から道徳的な結論を引きだそうとはしないし、道徳律に導かれて観察を行うこともしないと言う態度をとります。
科学のアイデアなり理論を評価する正当な基準は二つしかないと言います。論理と証拠だと言うのです。この本で提示するものも含めて、進化心理学の理論に論理的な矛盾があったり、その理論に反する信頼に足るデータがあれば、その理論を批判するのは正当な行為だと言うのです。科学に携わる者として、彼らはそのような批判を真摯に受け止めると言います。しかし、ある理論が非道徳的な事実、私たちの理想に反するような醜悪な事実、一部の人々にとって受け入れがたい事実を示唆するからといって、その理論を批判するのはおよそ正当な行為とは言えないとも言うのです。

新しい分野

例外はあるにしても、100%遺伝子で決まるような人間の特徴なり行動があるとは、まともな科学者であれば言わないとミラー氏は言います。しかし、社会科学者やジャーナリスト、その他の人たちの中には、人間の性質や行動がほぼ100%環境によって形づくられると信じている人たちが大勢いると言います。社会科学者の多くは環境決定論者であり、人間の行動は100%個人の体験と社会的環境によって形づくられ、遺伝・生物学的要因が関与する余地はないと信じていると言うのです。ミラー氏らが生物学的な要因を強調するのは、それが環境要因よりも重要だからではなく、強調する必要があるからだと言うのです。

人間の行動には100%遺伝子で決まるものなどないように、100%環境で決まるものもないと言います。前者は誰もが認めるところですが、後者は十分認識されておらず、論争の的になっています。ですからミラー氏とカナザワ氏は、この本で生物学的要因に重点を置いているのだと言うのです。進化心理学は人間の本性を扱う新しいサイエンスであり、その視点は、人間の趣向や価値観、感、誌知、行動に対する生物学的、進化的影響を理解する上で、今のところ行動遺伝学の視点と並んで、最も有効であると思われています。また、進化心理学は社会科学と行動科学に取って代わりつつある分野だというのに、一般向けの進化心理学の人門書で、最近刊行されたものはあまりないそうです。

この分野では毎年興味深い研究が数多く発表されており、一般向けの入門書も逐次、内容を新たにする必要があるとミラー氏は言うのです。この書では質間と答えの形式をとり、日常生活でよく体験する事柄や社会現象、社会問題を取り上げ、進化心理学の立場から説明を試みています。進化心理学の視点を持ち込むことで、古くからある問題に新しい光をあてるのが、彼らのねらいだそうです。人間生活のあらゆる領域にみられる一筋縄では行かないさまざまな問題。進化心理学の視点がそれらを解く糸口になることを、実例をあげて示しています。

私は、保育という営みは、人類が生きてきた道を知り、そして、人類の今後の生き方を考えることだと思っています。そのためには、単に保育学からだけのアプロ―チでは、答えが見つからないと思っています。その点、進化心理学の視点は、何かしらのヒントを与えてくれるかもしれません。ただ、この本の内容は、配偶者選び、結婚、家族、犯罪、社会、宗教と紛争を項目ごとに取り上げていますので、ブログでは、内容の一部を紹介するだけになります。興味のある方は、本を読んでみてください。

まず、ミラー氏らは、進化心理学の議論で避けることが重要な二つの誤謬を挙げています。「誤謬」という言葉はあまり使いませんが、読みは「ごびゅう」で、意味は簡単に言えば「まちがい」という意味で、「真理」の反対語として使われます。よく心理学などに使われることが多いようですが、その時は、現象にのみかかわり,その現象が認知させるものにかかわらずに結論を急ぐことをいうようです。

進化心理学において、重大な二つの誤謬とは、1つ目が「自然主義的な誤謬」で、もう一つが「道徳主義的な誤謬」だと言います。

別の視点

私たち人類は、誕生以来ずいぶんと進化してきました。その進化は、文明を築き、社会を変化させてきました。以前のブログでも書きましたが、では、これから先、例えば100年後の世界はどうなっているのでしょうか?そう考えた時、100年後は、随分と先のように思えますが、逆に人類の歴史の中で考えると、ほんのわずかな先のようにも思えます。そこでは、何が変わって、何が変わらないのか、その分野によって、100年という時間の経過は、長くもあり、短くにもなるのでしょう。では、子育てという行為は、どうなのでしょうか。

かつて、子育てとか、親の愛とかは本能であるかのように言われてきました。それは、あらゆる動物にとってと同じように、人類にとっても、「母性本能」という言葉に代表されるように生まれつき、母性は備わっているものだと言われてきました。それが、最近では、本能ではなく、育てられていくものだと言われています。しかし、私たちは、もともと持っている「人間の本性」というものはあるようです。

では、人間の本性とは何なのでしょうか?いざ定義しようとすると厄介です。「人間の本性とは何か。その答えは複雑でもあり、驚くほど単純でもある。」と「進化心理学から考えるホモサピエンス」(パンローリング社)の中に書かれてあります。

この本は、人間の本性を扱うサイエンスです。本書では、二人の進化心理学者が、最新の研究の成果を用いてヒトの心理メカニズムを紐解いていきます。二人とは、アラン・S・ミラーとサトシ・カナザワです。彼らは、本書の中で、「私たちは(部分的には)進化によって形成された独自の性質をもつヒトという動物として行動している。この独自の性質が人間の本性である。」と定義しているのです。そして、これは二つのことを意味すると言います。一つは、私たちの考え、感情、行動は、生まれてからの経験や環境だけでなく、気の遠くなるような長い年月の間に私たちの祖先が遭遇した出来事によって形づくられているということ。人間の本性は、私たちの祖先の過去の体験の集積であり、それが現在の私たちの考えや感情、行動に影響を与えていると言うのです。二つ目は、人間の本性は普遍的なものであり、人類全体に共通するものもあれば、男または女に共通のものもありますが、私たちの考えや感情や行動はかなりの部分、すべての人間、あるいは、すべての男かすべての女に共通するということだと言うのです。

地球上にはさまざまな文化があっても、人々の悲喜こもごもは本質的には同じだと言うのです。人間の行動を決定するのは、生まれもった本性、それに各人の個人的な体験と育ってきた環境だと言うのです。いずれも、私たちの考え、感情、行動を大きく左右します。この本では体験と環境の影響はほとんど無視して、人間の本性を重点的に扱っています。これには理由があると言うのです。

体験と環境が人間の行動に大きな影響を及ぼすことは、誰もが認めていることです。少なくとも、生物学的・遺伝的要因のみで人間の行動が決定されると本気で主張する科学者はいません。100 %遺伝子に左右される遺伝病もわずかながらあるそうですし、目の色と血液型も100%遺伝子で決まります。このように完全に遺伝子で決まる特徴がごくわずかあるにしても、それらを例外として、100%遺伝子で決まるような人間の特徴なり行動はありませんし、まともな科学者であれば、あるとは言わないだろうとミラー氏らは言うのです。

預けること

母親が専念してわが子を育てなかったらどうなるのでしょうか?そんな悩みを保育所に子どもを早い時期から入園させる親から聞くことがあります。多くの人が気になるのは、子どもが小さい頃に母親が働いていたら、母親が育児に専念していた場合に比べ悪影響があるのか?ということです。実は悪影響がある、という決定的事実はありません。保育所に子どもを預けることの影響は、日本でも海外でも調査されていますが、発達、認知、社会性、行動上の問題や学業成績といった面では、母親の就労の有無で違いはないといわれています。アメリ力の縦断研究では、たしかに保育所に長時間預けられている子で攻撃性が高くなるという報告もありますが、保育所に預けられていることよりも、子どもの気質や家庭の経済・学歴レベルのほうが、影響力が大きいと言われているのです。

逆に保育所に預けることのポジティブな効果も報告されているようです。母親が就労している家庭の子どものほうが身体的、社会的な発達が進んでいるという報告や、保育を受けていることで、先の報告とは逆に、後の攻撃行動が低減するなどの報告もあるそうです。もちろんどのような保育環境かということが大切ですし、その影響も保育の内容によってさまざまです。また、思春期以降の長期的な影響については、まだ十分わかっていません。しかし、質の高い保育を受けることで、子どもの認知能力や社会性の発達に、少なくとも短期的にはよい効果があることがわかってきているのです。

斎藤氏は、最後に、極端ではあると言いながらも、母親がいても仲間がいなければ育たない、母はなくとも子は育つ、という例を紹介しています。もちろん、それはハリスの集団社会化理論のことだとわかります。斎藤氏は、まず、愛着理論の背景ともなったサルの実験をしたハーロウについて、彼らは、同年代のサルと遊ぶ機会なく母親に育てられたサルと、母親はいないが同年代のサルと一緒に育ったサルの社会行動を比較した研究を紹介しています。その結果、母親がいても仲間がいなかったサルは、性的な行動や遊び行動をうまく取れなかったというのです。

さらに、こんな逸話も紹介しています。ナチスの捕虜となったユダヤ人の子どもの中には、親を亡くし、また特定の大人とも継続した関係を持つことができなかったけれども、救出まで子ども同士で一緒に過ごすことができた人たちがいました。その人たちの成人後の発達には問題がなかったと言う研究もあります。つまり、仲間は時に養育者の代わりにもなるということかもしれないと言うのです。安定した主たる養育者がいないという状況がよいことだとは思えませんが、一人の主たる養育者だけが大切だと考える必要はない、ということではないかと斎藤氏は言うのです。

以上のように、母親の愛情は子に最適で、母親は育児の適性を備えているというのは、必ずしも正しいわけではないと斎藤氏は言うのです。産みの母親が育児に専念することによって、弊害が生じることもあります。母親が育児に専念しないと、将来子どもの発達に悪影響を及ばすことを示す証拠もありません。親が子育てを放棄してよいということでは全くありませんが、母親ひとりががんばるべきだ、母親であれば育児に専念すべきだ、という「べき論」は捨ててしまってかまわないのではないかと彼女は言うのです。

特定な人

ボウルビィの共同研究者であるメアリー・エインズワースは、愛着が個人によって異なることを発見し、そのタイプの違いを測定する方法を開発しました。ストレンジ・シチュエーション法と言われるこのテストでは、12~18カ月の子どもを対象に、養育者との分離・再会場面を実験的に設けて行動を観察することで、愛着タイプを分類していきます。

子どもと養育者の間に形成される愛着のタイプを、以下の四つに分類しました。①養育者と分離してもあまり泣かず、再会時にも自ら近接を求めず、養育者を回避する回避型、②養育者がいる時は養育者を安全基地として積極的に遊び、分離時には泣くが、再会すると自ら身体接触を求め、しばらくすると安心して遊びを再開する、最も挈ましいとされる安定型、③養育者がいても探索行動をあまり示さず、分離時に激しく泣き、再会時に身体接触を求めるが、容易に泣き止まないアンビバレント型、④再開時に顔を背けながら養育者に近づくなど、回避行動と接近行動が同時に見られたり、どっちつかずの状態が続いたりする無秩序・無方向型です。

子ども、特に赤ちゃんにとって養育者の存在は必須ですが、養育者を選ぶことはできないため、養育者のかかわり方に応じて自身の接近の仕方を調整し、自らの安全であるという感覚を維持すると言われています。安定型では、養育者は子どもの出すシグナルに応答性が高いので、子どもは養育者を安全基地として活用し、世界を広げることができます。回避型では、養育者の応答性が低いため、子どもは効果のない愛着行動システムを使わない方略をとるとされています。アンビバレント型では、子どもは応答に一貫性がない養育者に対して、高めに愛着行動システムを活性化させるように行動するとされます。無秩序・無方向型では、抑うつ傾向が見られたり、不安定であったり、虐待をしている場合もあり、子どもにとって愛着の対象かつ恐怖の対象となっているとされます。

つまり、子どもはとても柔軟であることがわかっているのです。実際、双生児研究によれば、おしなべて行動・心理的特徴の個人差には遺云の影響が大きいのですが、乳児期の愛着のタイプの個人差に関しては遺伝の影響が例外的に小さく、家庭環境の影響が大きいとされているそうです。養育者という環境に応じて、自身もふるまいを変えていると言えるのではないかというのです。

斎藤氏は、ここまであえて愛着の対象を「母親」と書かすに「養育者」としてきました。それは、愛着の対象は「母親」に限定されるものではないからです。ボウルピィ自身も、子どもの精神的健康に「母性的」愛情が不可欠だとしつつも、母性的養育者は必ずしも一人でなくてはならないとは言っていないのです。すでに、この辺から誤解があるようです。特定の人というのも、一人の特定の人と思い込んでいる人を多く見かけます。子どもは母親以外の人物に対しても愛着を形成し、母親、父親、保育者、それぞれに異なるタイプの愛着を形成するという報告もあるそうです。

幼少期に形成された愛着が、成長後もその人の社会性に影響を与えているかも定かではないそうです。仲間との社会的関係は母親との愛着のタイプでは決まらないという報告もあるそうですし、愛着のタイプも、成人後も不変な人もいれば、そうでない人もいると言うのです。共同保育をするというヒトの子育ての特微や、子どもの柔軟性を考えると、初期の養育者のみとの関係性がその後の人生をすべて決めてしまう、と考えるほうがおかしいかもしれません。ただし、虐待については、その後の子どもの発達に重大な影響を及ぼす恐れがあることは言うまでもありませんが。

子どもを愛すべき?

斎藤氏は、そもそも、母親は自らの子どもを愛すべきである、という主張も、人類の歴史の中で普遍的なものではないと言います。狩猟採集民族の伝統的社会の中には、環境の厳しさによるのかもしれませんが、子どもが生まれたらまず育てるか否か、つまり育てないという判断もあり、その場合は子どもが遺棄されるのですが、それをまず決めるという文化もあるそうです。また、中世フランスでは、ある階級以上の家では、子どもは自分で育てないで里子に出すのが当たり前だったようです。20世紀前半のイギリス貴族も、子どもを嫌いだと公言し、日常的には子どもをそばに置かずに乳母や家庭教師に育てさせたといいます。

日本でも江戸時代には乳母の文化がありました。さらに、育児書は、今では母親向けのものが多いですが、ヨーロッパでも日本でも昔は父親向けに書かれていたといいます。誰がどのように子どもを育てるのかは、時代や文化によって大きく変わりうると言うのです。

ここで、斎藤氏は愛着理論に触れています。愛着理論とは、精神科医ジョン・ボウルビィが提唱した理論で、子どもの精神的健康には、乳児が特定の人物に対して形成する特別な情緒的結びつきである「愛着(アタッチメント)」が重要だとするものです。愛着の対象人物と自分との関係についてのイメージが三歳頃に確立し、それがその子どもの他者との社会的関係のもととなり、成長後も社会性に影響を及ぼす、と考えます。三歳児神話の理論的背景の一つといえるでしよう。子どもの発達には養育者との愛着の形成が重要だという事実は、疑う余地もないと思うかもしれませんが、それだけを絶対視すべきかどうかは、再検討されつつあるようです。

愛着理論は、20世紀後半から広く知られるようになりますが、ボウルビィが理論を提唱するに至った背景の一つは、動物行動学者のコンラート・ローレンツが刷り込みというインプリンティングという現象を報告したことがあります。アヒルなどのヒナが、孵化後一定時間内に見た動くものに接近欲求を持ち、追従するという現象です。未熟な状態で生まれるヒトにも、自分を保護してくれる対象を生後すみやかに認識、記億し、近接を求めるという生得的な傾向があるとボウルビィは考えました。

二つ目の背景は、ルネ・スピッツによるホスピタリズムの発見です。ホスピタリズムとは、劣悪な施設環境で育った子どもたちが、気力・覚醒レベルの低さ、社会的反応および感情表出の欠落などを示すことです。第二次世界大戦により、孤児が増加しましたが、孤児院では、栄養状態、衛生状態には問題がないにもかかわらず、心身の発達が遅れ、二歳になる前に亡くなる子が多数いました。こうした心身の問題は、養育者とのコミュニケーション不足によるものだと考えられました。

三つ目の背景は、ハリー・ハーロウが行ったアカゲザルの代理母実験です。ハーロウは、出生直後の子ザルを母親から引き離し、布製と針金製の代理母を与えて育てました。ミルクが出る出ないにかかわらす、子ザルは布製の代理母にくっついていることが多く、また恐怖を感じた時には、布製の代理母にしがみついて安心感を得ようとしました。この研究結果は、それまでの、養育者との関係は空腹を満たすという生理的な充足がもととなって形成されるという考え方を再考させるものでした。

これらの背景と、幼少期に親と別れるなどして十分な愛情を受けられなかった子どもたちが窃盗などの社会的問題を起こしているのを目撃した自身の経験から、ボウルビィは、幼少期における養育者との接触を含むかかわりが、子どものその後の発達に大きな影響を与えると考えるに至ったのです。

生理的・心理的変化

もし、「母は強し」、母性というものの根拠を、妊娠出産にともなう生理的・心理的変化に求めるとすれば、母性同様、父性もあってもおかしくないと斎藤氏は言います。というのも、父親でも配偶者の妊娠・出産にともないホルモンの値が変化することが知られていますし、原初的没頭も、母親に比べ弱いながらも見られるそうです。父親は授乳できませんが、子どもとかかわることでオキシトシンの濃度が上昇するそうです。

また、子どもの主な世話役を担うと、父親にも母親と類似した、対乳児発話と呼ばれる高い声での話しかけや、ほほえみなどの行動が見られます。母親の存在・かかわりが子どもの発達に重要であるとされますが、父親の存在やかかわりも子どもの学業成績や情緒的発達に影響を与えるということがわかっています。このように見てみると、母親だけではなく、父親にも子育て能力の存在を認めたほうがよいのではないかと斎藤氏は言うのです。もちろん子育ての能力に個人差があるのは、母親も父親も同様だと言うのです。

母性神話が本当であれば、そうはならないだろう、という事実もあるそうです。実母による虐待は、その最たる例と言えるかもしれないと言うのです。虐待とは行かないまでも、「子どもをかわいいと思えない」といった母親の子どもに対するネガティブな感情が問題視されがちですが、それは、共同保育で子育てするように進化してきているにもかかわらず、周囲からのサポートを十分得られない状態で子育てをしている人たちの反応と考えることも可能だというのです。また、育児不安という現象も、1980年代頃から注目されるようになりました。実際に、専業主婦として育児に専念している人のほうが、仕事を持ちながら育児をしている人よりも、育児ストレスや、夫や子どもへのネガティブな感情が大きい傾向があるというデータもあるそうです。この事実は、母性神話が「神話」であることを如実に表していると言います。

1980年代頃に子育てを始めた世代は、核家族化した中で育った人たちです。自身が年下のきょうだいや近隣の子どもとかかわる経験が少なかったために、育児不安という現象が見られるようになったのではないかと言います。また、20世紀前半頃までの日本の女性の一生は、早くに結婚し、子どもを産み続け、最後の子を育て終わる頃に死ぬか、孫の子育てをして死ぬ、というものだったと斎藤氏は言います。しかし産業化以降は、少子化が進んでいます。医療の発展のおかげもあり、乳児の死亡率は格段に下がりました。子どもは「授かる」ものから「つくる」ものになり、親は少ない子どもを大切に育てる、少産少死社会となりました。長子出産から末子出産までの出産期間は、10年以上だったものが2~3年と短くなり、長子出産から末子就学までの期間のいわゆる子育て期間も20年近くだったものが10年未満へ短縮されました。かたや寿命は延び、子育て終了後の期間が非常に長くなりました。母親業を勤め上げるだけでは、人生は終わらなくなったのです。

日本では、女性の就労率は年齢を横軸に取るとM字型となっており、谷のカープが浅くなってはきたものの、結婚や出産でいったん離職する人が多いのが現状です。経験や知識、身近で支えてくれる人が少ない中、ひとりで子どもの相手だけをしていると、社会から隔絶された感覚に襲われ、子育て後の長い人生を思うと、育児ストレスを感じたり、現状・将来に不安を抱いたりするのは不思議ではないと斎藤氏は考えています。

産業化の結果

三歳児神話の根底には、定義にもあるように、女性には生まれつき子どもを産み育てる「母親」としての性質が備わっているという考えがあると斎藤氏は言います。これが母性神話です。しかし、母性神話自体、およそ40年も前から否定されているのです。産業化により、母親が家庭を支え子育てもひとりで担うようになりました。産業化以前の社会では、父親だけでなく多くの母親も農業や漁業などの仕事に従事していました。当然母親は手が離せないこともあり、そんな時は、赤ちゃんはエジコやツグラといったワラ製のカゴに入れておかれたり、ハイハイしたりして動き回るようになると、兵児帯を使って柱に結ばれたりしたそうです。このことは、柳田氏による民俗学にも書かれおり、私の「保育の起源」でも紹介しています。そして、2,3歳になれば近所の年上の子どもたちと遊び、その中で社会のルールを学んだと言われています。

現代では、親が子どものイヤイヤに悩まされる時期ですが、そもそも親が一対一で子どもに対応する状況ではなかったということを、川田氏が書いているそうです。昔は祖父母や親戚だけでなく、近隣の人たちとも密な関係があり、子どもはいろいろな人に面倒を見てもらっていました。つまり、母親ひとりで四六時中、乳幼児を見るような状況は、ヒトの長い歴史の中でごく最近になって現れたものなのだというのです。それ以前の何百年、何千年の長きにわたる歴史の中では、「男も女も仕事、子育てはみんなで」が伝統だったと斎藤氏は言うのです。

では、「母は強し」は本当?でしょうか。ヒトの母親は、ほかのほ乳類と同様、子どもをお腹の中で育て、産み、乳を与えて育てますが、当然、そのようないとなみを支えるための生理的な変化が体の中で起こります。代表的なものとしては、ホルモンの変化だと言います。特にここ数十年、注目を集めているのが、何度かブログでも取り上げたオキシトシンというホルモンです。もともとほ乳類では、出産の際、子宮を収縮させたり、母乳を絞り出すように胸の筋肉を収縮させたりする機能が知られています。脳内でも働き、母親の子育て行動をはじめ、社会的な行動や認知にも影響があることが知られるようになり、母子の心理的絆における役割も重視されるようになりました。母親ではこういった生理的変化が生じますので、心理的にも行動的にも、赤ちゃんに対して反応性が高まるなどの変化が起きることは想像に難くないと言います。

実際、母親は妊娠中に始まって、出産後数週から数カ月後まで、子どものことをたくさん考えるようになると言われます。精神分析家のドナルド・ウィニコットはこの現象を「原初的没頭」と呼びました。未熟な状態で生まれ、生存に他者の積極的かかわりが必須であるヒトの新生児の生存率を高めるためには、最も世話をする確率が高い存在である母親がそのような心理的状態になることは適応的なのだと考えられています。ほかにも、授乳により不安やうつ、ストレス反応といったネガテイプな感情が軽減されるという報告もありますので、「母は強し」には、科学的にも裏づけがあると言えそうだと斎藤氏は言います。

ヒトの子育ての本の紹介

蔦谷氏が紹介する2冊目の本は、ハーディー・S・Bの「マザーネイチャー」という本です。ハーディー・S・Bは、サラ・ブラファー・ハーディーという名前です。彼女の本は、まだ私はブログでは紹介していませんが、とても興味深いことを研究しています。それは、もともと彼女は、アメリカ合衆国の人類学者ですが、同時に、霊長類学者でもあるのです。日本でも山際氏をはじめ最近注目されている明和氏も同様の霊長類研究で知られています。そして、もう一つ、彼女は進化心理学と社会生物学へのいくつかの重要な貢献で知られています。そして、様々な研究を経て、1999年に「マザーネイチャー」を出版しました。この副題の「母性本能と彼女たちがヒトを形作った方法」の日本語訳は、『「母親」はいかにヒトを進化させたか』です。ハーディーの視点では、子育ては様々な変数に依存しており、生まれつき固定された「母性本能」は無いということです。さらに、ヒトは共同保育者として進化し、基本的に他者の援助無しでは子育てすることができないと主張しています。そして、これをアロマザリングの概念で説明しています。アロマザリングとは母親以外の誰か(例えば父、祖父母、母親の兄や姉)、あるいは遺伝的に無関係な人(例えば乳母や看護婦、育児グループなど)による子育てのことです。

3冊目として紹介しているのが、山際寿一氏の「家族進化論」です。現在京都大学の総長ですが、彼のことも、何度か取り上げていますが、彼はゴリラの研究で有名なのですが、ひたすら密林に入って、直接ゴリラを観察し、その行動から人類を考えているのです。これらの紹介する本を見ても、蔦谷氏が最近の研究のどのようなことを参考にしているかがわかります。

では、元に戻って、次の章に行きます。そのタイトルは、「母親をめぐる大きな誤解」というもので、この章を受け持って執筆しているのが、代表執筆者として「はじめに」を書いた斎藤慈子氏です。斎藤氏は、まず、「三歳児神話」について、それがいかに「神話」であるかを説明しています。

まず、三歳児神話の定義は、「子供の成長・発達には、三歳までという幼少期の時期が非常に大切である。この時期は、母親の愛情が子に最適であり、母親は育児の適性を備えているので、産みの母親が育児に専念すべきである。母親が育児に専念しないと、将来子供の発達に悪影響を及ばす」というものだとしています。この子育て観は、すでに1998年の『厚生白書』で合理的根拠のない「神話」であるとされていますが、未だこのような考え方に意識的・無意識的にとらわれ、小さい子どもと離れて働くことに罪悪感を抱く母親は少なくないようだと言います。そこで、斎藤氏は、母性神話、愛着理論といった三歳児神話の背景やその反例から、三歳児神話かいかに「神話」であるかを説明しています。

三歳児神話がまことしやかにささやかれるようになった理由には、経済的・政治的背景があると言われています。大正期以降、産業化にともない、サラリーマン家庭が出現しました。それまでの農業など一次産業が主流であった社会では、職住が近接していましたが、仕事と生活の場が分離し、主に男性が外に働きに出ることになり、結果「男は仕事、女は家事・育児」という性別役割分業が生まれました。高度経済成長期には、産業社会を維持発展させるため、この分業が合理的で効率がよかったのでしょう。その後、1970年代の経済低成長期になると、保育所等の福祉予算削減の目的から家庭内保育の重要性が強調され、母親が育児に専念する生活が一般化したと言われています。