尺度

ジャクソンは、ノースカロライナ州で2005年から2011年のあいだのすべての9年生、総数46万4502人を追跡した詳細なデータベースを見つけました。そのデータは生徒たちの発達を、9年生のあいだだけでなく、高校卒業後まで追ったものでした。ジャクソンは各生徒の全州標準テストの得点にアクセスし、それをおおまかな認知能力の指標としました。次いで、ひとつ新しいことをしました。現存の管理資料から四つの数字を使って、それを生徒の非認知能力を示す代替尺度にしたのです。四つの数字とは出席日数、停学回数、留年の有無、GPAという成績評定平均値です。この新しい指標は、大まかにではありますが、生徒がどれくらい積極的に学校に関与しているかを示しています。きちんと出席しているかどうか。行動に問題があるかどうか。教室でどの程度真面目に勉強しているか。

意外にも、このシンプルな代替尺度がテストの得点よりもよい指標になることがわかったそうです。その生徒が大学へ行けるかどうか、大人になったときの収入はどれくらいか、将来逮捕されるようなことかあるかどうかを、より的確に予測することができたというのです。この代替尺度は、教師の有効性の分析にもつながりました。ジャクソンはノースカロライナ州の9年生の英語と代数の教師全員に、経済学の用語でいう「付加価値」の評価をしてみました。まず、ある教師のクラスの生徒でいることが、その生徒の標準テストの得点にどの程度影響するかを計算したのです。これはごく一般的な「付加価値」評価の方法です。国内の多くの州の教員がこれと似た尺度で評価され、報奨を与えられたり解雇されたりしているそうです。しかしジャクソンは、そこからもう一歩先へ進めたのです。教師が生徒の非認知能力の代替尺度、出席日数、停学回数、留年の有無、GPAに与える影響を割りだしたのです。

生徒の標準テストの得点を、毎年確実に上げることのできる教師がいます。こうした教師は、現行のすべての評価システムにおいて最も高く評価され、最も高い報酬を受けているそうです。しかしジャクソンは、生徒の非認知能力の代替尺度を確実に上げることのできる教師が一定数いることを発見しました。こうした教師が担任になると、出席率も、停学処分を避けられる可能性も、すんなり進級できる可能性も高くなるのです。GPAも上がります。その特定の教師か担任をしているあいだだけでなく、クラスが変わってからもでした。

ジャクソンの発見によれば、この二つのタイプの教師は必ずしも重なりません。どの学校にも、生徒の認知スキルを伸ばすことが得意な教師がいて、それとはべつに、非認知能力を伸ばすことに長けた教師がいるようだったのです。しかし後者は、生徒を伸ばしたことに対する報奨を与えられていませんでした。それどころか、後者の教師たちが成功を収めていることにキラボ・ジャクソン以外の誰一人気がついてさえいないようでした。しかし、後者の教師たちは、ジャクソンの計算によれば、生徒のテストの得点を上げることで名高い前者の教師たちよりも高い確率で生徒を大学へ送りこみ、生徒の将来の収入額を引き上げていたのです。

ジャクソンの研究からはっきりわかるのは、生徒の成功に大きく貢献していながら、現行の成績責任の尺度では評価されない教師がいるということです。このような尺度は、教師の行動を歪めてしまうかもしれません。

尺度” への8件のコメント

  1. 今回の内容は本当に衝撃でした。非認知能力を高める「教師が担任になると、出席率も、停学処分を避けられる可能性も、すんなり進級できる可能性も高くなる」たけでなく、「GPAも上がり」、それだけでは終わらず、「その特定の教師か担任をしているあいだだけでなく、クラスが変わってからも」効力が続くという、まるで今の時代にふさわしい教師のスーパーマンのような存在が、世の中には正しい評価を受けることなく、ただ黙々と生徒のために働いていることを考えただけで、この良い情報を一刻も早く撒き散らしたいと思うようになりました。そして、ジャクソンが定めた「出席日数、停学回数、留年の有無、GPA」という4つの尺度は、テストの成績だけでなく、総合的な視点からその生徒をみようとする姿勢が伝わってきます。どれかが劣っていても、別の部分でカバーできるというスタンスは、就職した社会においても持ち合わせたい必要な思考ですね。

  2. どの学校にも、認知スキルを伸ばすことが得意な教師がいる一方で、非認知能力を伸ばすことに長けた教師がいる。しかし、その反面、後者の教師は生徒を伸ばしたことに対して報奨を与えられないどころか、誰一人として気づかれないというのは残念なことです。しかし、それは目に見えてすぐに結果が出ず、一見するとそれは成績には直接関係ないように見えるからなのでしょうね。とはいえ、その因果関係を見ているとそこに何らかの関係性が見えてくるというのはなかなか面白い結果です。やはり、非認知能力は認知スキルにもつながっているということが見えてきます。これは保育においても、言えるのかもしれません。子どものほうに向いて動いている先生ほど「甘やかしている」とか言われています。しかし、結果として見ると、その先生の見ている子どもたちは自分で考えて動くようになっています。一見、遠回りのように見えて、近道であるということが見えてくるのですが、それは視点が教師視点か子どもからの視点かで大きく変わってくるのではないかと思います。「生徒の成功に大きく貢献していながら、現行の成績責任の尺度では評価されない教師がいるということです。このような尺度は、教師の行動を歪めてしまうかもしれません。」このことは重く受け止め、変える必要がありますね。

  3. なるほど非認知能力は測定できる。その事例を今回のブログによって確認できました。私はブログを読みながら学校推薦制度というものを考えてみました。ある高校からある大学への推薦を取り付けるために、学校側は生徒の何を測るか。いわゆる平均内申点がどれだけかということがまず測定されます。次に出席日数とか遅刻早退数、そして生徒会活動や部活動の成績などなどが測定の対象となり、大学への高校推薦が可能かどうか判断されるでしょう。推薦で大学等に進学する生徒はほぼ「真面目」な子たちです。もちろん一般受験する子たちが不真面目であるということではありません。真面目さは非認知能力の高さとも言えるでしょう。SQの高い人は真面目な人ですし、他者との協調性も高い。集団における自分の役割や他者の貢献度も素直に認識できる。こんなことを書きながら、脳裏には塾や予備校の教師と学校の教師の共通点や相違点についてあれこれと浮かんできました。長くなるので今回はここでやめときます。

  4. 学生時代、成績はどうでもいい、ただ学校に毎日行きなさい、と父親に言われました。それが学生時代の父親からの唯一の教えで、明日久しぶりに酒を交わしますが、きっとその話になるだろうと想像します。先見の明というわけではなかったでしょうが、結果的にこの仕事に就けたのも父と母の教育、と大それだものでもない毎日があったからこそで、むしろ子どもの学業において、それくらいの干渉度くらいが丁度いいのだろうと思います。好きな道を好きなように歩くときに、どれだけ学校の成績が役に立ったかわかりませんが、指定校推薦などを受けたい時には必要で、教育は中々変わらないかもしれませんが、子どもたちがそれに合わせて柔軟に対応できるように成長してもらえたら、とも思います。

  5. 高校時代に自分の体験談として、学校にはあまりいくことなく、夏休みや冬休み前に強化担当の先生に頭を下げて、単位をもらう課題を与えてもらう、というのが常でした。そうなるのは自分のせいだと思っていますが、もし、もしもが寄り添ってくれるような先生、心配してくれる先生ならどうであったのか。自分はなんとか卒業した形でしたが担任の先生により、違いがでるものがあり、それが非認知能力だということなんですね。しかも〝その特定の教師か担任をしているあいだだけでなく、クラスが変わってからも〟という長期に影響がある。読んでいて「恩師」という存在の有無のような気がしました。自分も小学生の時代にそんな先生がいました。今の自分はその先生の影響が大きかあるのかもしれません。先生の影響、人的環境、計り知れないものですね。

  6. 評価というのはとても難しいですよね。その基準、尺度により様々な捉え方ができてしまいますから評価する側は細心の注意を払わねばなりません。ただ逆に評価をあげるだけの仕事になってしまえばそれはそれで我々の仕事ならなおさら目的が違ってきてしまいますから本来目指すところに行き着くことはできなくなってしまうでしょう。評価される側としては高い評価は嬉しいですが、評価というのは表裏一体であることを忘れてはいけませんね。

  7. 「生徒の認知スキルを伸ばすことが得意な教師がいて、それとはべつに、非認知能力を伸ばすことに長けた教師がいるようだったのです」ということは、藤森先生の考えるチームのあり方と繋がってくるように思います。人はそれぞれに得意なことがあるからこそ、その特性を活かし、チームで補い合っていくということです。誰が偉いという訳ではなく、まさに役割の問題ですね。しかし「後者は、生徒を伸ばしたことに対する報奨を与えられていませんでした」というのは問題ですね。確かに、非認知能力を伸ばす教師というのは評価しにくいのかもしれません。だからこそ、評価しやすいことばかりを教師は求めてしまうこともあるのかもしれません。このあたり、評価というのは保育の中においてもかなり慎重にならなければいけませんね。

  8. 生徒の成功に大きく貢献していながら、現行の成績責任の尺度では評価されない教師がいるということ。最後の文章から、いかに世界的には認知的な数値によって生徒も教師も評価されていることです。確かに保護者からしてもテストの点数が急激に上がった先生を評価してしまうのは理解できます。私たち「見守る保育」を実践していますが、同様なことが言えるかもしれません。どうしても乳幼児期に認知的なことを伝えると簡単に覚えて、できるようになり、親も評価するでしょうが、子ども同士の関わりから学ぶこと、相手に共感、コミュニケーション能力・・・それこそ非認知的なことを感じるのは難しいかもしれません。子どものみならず人を評価するときは1つの尺度として見るのでなく、違う尺度からも人を評価して初めて人を評価できるのだと思いました。

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