ポジティブな行動

生徒の成功に大きく貢献していながら、現行の成績責任の尺度では評価されない教師がいます。しかし、このような尺度は、教師の行動を歪めてしまうかもしれません。そしてそれは生徒の利益になりません。タフ氏はこんな例を出しています。もしあなたが生徒の非認知能力をのばすことを得意とする教師だった場合、テストの得点を伸ばすことを得意とする別の教師がボーナスをすべてさらっていくのを見たら、自分の教え方を変えようとするかもしれません。いまのあなたのやり方が生徒に大きな利益を与えているかもしれないのにです。

ジャクソンの研究のなかには、こうした教育行政へのヒントのさらに奥に、非認知能力を評価するという目的ともっと関係の深い第二のヒントがかすかに見えるとタフ氏は言います。つまり、非認知能力を測定するために現在多くの研究者たちが注目しているやり方よりさらに創造的で、さらに役立つはずの方法があるということだというのです。グリットや自制心や自己効力感などを、非認知能力か働いた結果と評価する新しい完璧な「ものさし」を苦労して探さなくても、非認知能力が働いた結果として現れるポジティプな行動を測定すればいいのです。

この結論はより深いヒントへとつながるとタフ氏は考えています。グリットや自制心や粘り強さなどの気質にどんなラベルをつけるかは、じつはたいした問題ではないし、それをいうならこれらを「性格の強み」と定義するか、「非認知能力」と定義するか、あるいはほかの何かであると定義するかも、やはり大きな問題ではないというのです。とりあえず、生徒たちが毎週数時間をあるタイプの教師のそばで過ごすことで自分たちの行動の何かを変えた、これがわかるだけで充分だというのです。そういう教師が教室でつくりだす環境が、生徒たちのよりよい決断を助け、その決断が生徒たちの人生に大きな意味を持つプラスの変化を与えたのです。

学業について語るとき、スキルという言葉はよく使われますが、よくよく考えてみると、私たちはたいていこの言葉を発達の一つのステップとして捉えています。教師が新しい非認知スキルを教える。生徒が新しい非認知スキルを学ぶ。こうして習得された新たなスキルが、異なる行動へとつながるのです。もしこれが前提なら、ここでいうスキルとは具体的にはなんなのでしょうか。どう定義されるのでしょうか。どうしたら正確に測定できるのでしょうか。どうやって教えたらいいのでしょうか。ジャクソンの研究を見るに、生徒たちは少なくとも従来どおりの意味合いでスキルを身につけているわけではないようです。

そこで、タフ氏は、いままでとは異なる前提で考えてみています。いくらか曖昧であることは認めざるをえないと言いながらも、効果的な教室で何が起こっているかを少し詳しく書いてみています。教師がある雰囲気をつくりだします。生徒たちはその雰囲気に反応して、それまでとは異なる行動をします。その新しい行動が成功につながるというのです。この場合、生徒たちは新しいスキルを身につけたのでしょうか?だからちがう行動が取れるようになったのでしょうか?そうかもしれないとタフ氏は言います。あるいは、私たちが「スキル」と呼んでいるものは、ほんとうは新しいものの見方なのかもしれないというのです。新しい、強力な行動を取るための体力だったり、信念だったり、心のありようだったりするのかもしれないのです。

ポジティブな行動” への8件のコメント

  1. 見守る保育という道を、職員にどう伝えていこうかと悩んだ時期がありました。(今もその途中ですが…。)最近のスタンスとして定着しそうなものが、職員が環境を変え行動したことによって子どもの姿が、以前より見守れるような姿へと向かっている時に、それを伝えるということです。本文にもあった「非認知能力が働いた結果として現れるポジティプな行動を測定すればいいのです」というように、普段は見逃しがちな小さなポジティブ行動やポジティブ環境に焦点を当て、それをただただ「いいね〜!」と承認することが、今できるスタンスかなと思っています。今日、職員同士が揉めて一人の方が途中で退勤してしまうというトラブルがありました。まだまだ道のりは遠いですが、私たちは何のためにどこに向かっているのかなど、その都度振り返りながら、理念や信念、そして心のありようを磨き上げていきたいですね。

  2. 前回のブログから今回のブログを読み続けながら、あぁ、流石、アメリカだな、と思いました。「成績責任の尺度」というものがあり、教師が評価されて、挙句「テストの得点を伸ばすことを得意とする別の教師がボーナスをすべてさらっていく」。つまり、教師がしっかりと給与だか賞与だか査定される仕組みがある、ということですね。塾や予備校ならそうしたシステムが日本にもあるような気がしますが、日本の学校においてはどうなのでしょうか。それはともかく、非認知能力測定「ものさし」として生徒たちの「ポジティプな行動」を評価するというのは確かにその通りだなと思いました。学習への意欲のみならず、協同的な学びやその他集団活動もプラスの雰囲気の中で実施されるような気がします。「教師が教室でつくりだす環境が、生徒たちのよりよい決断を助け、その決断が生徒たちの人生に大きな意味を持つプラスの変化を与えた」となるわけですね。さて、このものさしを日本の学校の教室に当てはめたら一体どんな結果が出てくるのでしょうか。

  3. 保育をしていく中で、「組織」というものを考えることが多くなりました。というのも、保育に変化させていくために、改めて「理念」や「信念」を改めて考えていかなければいけない。そして、それを組織全体に共有していくことの重要性を感じたからです。そして、そのためにどういったリーダーであるべきなのか、どう伝えていけばいいのかは常について回る悩みでもありました。非認知能力というのは「少なくとも従来どおりの意味合いでスキルを身につけているわけではない」というのは新しい感覚です。しかし、今の園の組織関係を見ていると。なんとなくわかる気がします。スキルを得るという環境も同時に必要になってくるのですね。そのための雰囲気をどうつくっていくのか。それは大人でも子どもでも、その環境のあり方は人に影響を与えていくように思います。そのため、リーダーのあり方はよく考えていかなければいけないですね。

  4. 学歴社会の終わりがどこから始まるのか、と思った時に、少しずつその終わりの先端は見えてきていて、というのも日本有数の大学が世界標準で見た時にかなり低い位置にいるということを、日本人の学歴を望む人以外は気付き始めていて、それでは世界標準で見た時に必要な教育とは何なのか、ということで僕たちの保育に焦点が集まるだろう、というまるで逆輸入のパターンですが、明日から始まる来年からはその加速は増す一方と考えます。その加速の中で、テストの得点を伸ばすような教育が淘汰されていくのでは、と、少し時間はかかってしまいそうですが、息子たちがその年頃になるまでに、どれだけの変化がそこにあるのか、この年末に最大のワクワクを残して、今年を締め括ろうかと考えています。

  5. 見守る保育というのはこのようなことのような気がしました。ただ見守るのではなく、行動した後にどうなるのか注意深くみていくことで〝生徒たちのよりよい決断を助け、その決断が生徒たちの人生に大きな意味を持つプラスの変化を与えた〟ということになるのだと思います。何もしないということではない、という部分を改めて強調していかないと、今回の内容の冒頭部分のように間違った評価をされてしまう、結果、間違った方へと行ってしまいかねない。こちらからの発信はそのように自分たちを守り、これからも進んでいくために必要なものだということを感じました。

  6. 非認知能力の可能性が広がるような内容ですね。大人の態度、姿勢、言葉かけ一つが子供たちの非認知能力をどのように変遷させていくのか非常に気になるところです。病は気からとはよくいったものですが、人というのは心の持ちようで天才にも凡才にもなれますからそこに影響を与えうる存在である私たちは気が引き締まるとともに私たちの非認知能力も影響してそうな気がしますから私たちの気の持ち方も考え直さなければならないのかもしれません。

  7. 「テストの得点を伸ばすことを得意とする別の教師がボーナスをすべてさらっていくのを見たら、自分の教え方を変えようとするかもしれません」確かにこれはそうかもしれません。しかし、評価ということよりも内面の行動を重視するような傾向が日本人にはあるのかなと感じました。ですが、これはいい方向に働くこともありますが、そうでない方向に働くこともあったりと難しいですね。「生徒たちが毎週数時間をあるタイプの教師のそばで過ごすことで自分たちの行動の何かを変えた、これがわかるだけで充分だというのです」とありました。なるほど、このような視点はとても参考になりますね。そういう意味では子どもたちのことをよく見ていくということも大切になるのかもしれませんね。

  8. 進学塾と学校の役割を読みながら考えました。塾というのはテストの点数を上げてくれる、志望校に合格できるようにしてくれる場所というイメージがありますが、それを学校にもあてはめ過ぎている気がします。だからテストの点数を伸ばした教師が評価され、本当は生徒の成功に大きく貢献している教師が評価されにくいかもしれません。学校という場所は勉強する場所なのは間違いありませんが、学びというのをテストの点数だけでなく、もっと大きく捉える必要があると思います。

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