説明のしかた

ジャーナリストはある特定の教育プログラムを説明するときには、それは、たとえばある学校だったり、1つの学習指導法だったり、課外学習だったり、地域活動だったりするわけですが、明示的にせよ暗示的にせよ、そのプログラムをほかの人々が真似できるモデルに仕立てようとします。貧しい人々の暮らしを改善すべく活動している慈善家や財団も似たようなことをするそうです。みな、うまくいっているプログラムを探し、それを真似して、できるかぎり広めようとするのだと言うのです。こうした模倣戦酳の裏には確固とした理由があるそうです。模倣は技術を進歩させる戦略の基本です。新しい方法をいくつも試して、最も成功をおさめた一例を見きわめ、その方法を広く用いようとします。成功例に焦点を合わせるのは、言葉を扱うジャーナリストにとっても魅力的なアプローチだといいます。なぜなら、読者は無味乾燥な調査や統計の数字を地道に検討するよりも、価値あるゴールに向かって個人が突き進むような、心に響く物語を読む方を好むからだというのです。

しかし、この種のジャーナリズムには限界がありますし、慈善事業も同様だと言います。模倣して広める手法は、社会福祉や教育の分野では、技術分野とおなじようにうまくいくわけではないというのです。社会科学の研究資料を調べてみると、質の高い小規模のプログラムであふれていますが、真似をしたり規模を大きくしたりすれば効果が極端に下がってしまいそうなものばかりだとタフ氏は指摘します。また、個々の事例に焦点を合わせるのも、物語を伝えることに満足感はあるかもしれませんが、読者の眼を重要な間いから逸らしてしまうことにもなりかねないと言います。その問いとは、「この学校、もしくは幼稚園、あるいは指導プログラムがうまくいっているとすれば、それはなぜなのか?どういう原理と実践のもとで成功しているのか?」というものだというのです。

そこで、彼は、この本の中ではさまざまな事例を、模像すべき見本としてでなくなく、根底にあるアイデアや戦略の具体例として検討していっています。どのプログラムもどの学校も完璧ではありませんが、例にはそれぞれ、どのようにして成功したのか、なぜ成功したのかという部分にヒントが含まれており、それは役立つ情報となるはずだと彼は言うのです。成功例それぞれの核となる原理を抽出して解説し、共通点を見つけることが彼の目的だというのです。

貧しい子どもたちの問題に取り組む方法を探そうとするとき、誰もが直面する難題はもう一つあると彼は言います。アメリカ国内では、子ども時代が年代に応じて、服のサイズや図書館の本棚のように、小分けにされてしまうのだと言います。乳幼児はこちら、これは研究者にも、支援グループにも、慈善事業にも、役所にも当てはまると言います。社会政策を例に取ってみると、アメリカ全体では、いちばん幼い時期の子どもたちの教育は保健福祉省の管轄であり、児童家庭局を通して「ヘッドスタート」などの育児支援プログラムを運営しているのもここだそうです。しかし、幼稚園に入ったとたんに、子どもの教育に関する責任の所在は魔法のようにすばやく教育省へ移動し、こんどはこちらが小・中学校の教育までを監督します。同様のお役所仕事的な区分が州レベル、郡レベルでも存在し、ごく少数の例外を除いて、幼児期の育児支援をする部署と学校システムの管理をする部署が共同で何かに取り組むことはないし、連絡すらほとんど取らない状況だと指摘しています。

説明のしかた” への8件のコメント

  1. 人が「成功例に焦点を合わせる」のは理解できます。誰でも、成功する最短の道を選びたいと思いますし、その改善による変化が目の前の子どもたちのためになると思っているからだと思います。また、言葉を扱うメディアやジャーナリズムのように、それを伝えることで多くの共感や視線が集まるものであればあるほど効果を発します。昨今の情報媒体は多様化しているため、その情報を選ぶ能力とか、状況によって使い分ける力が必要である印象さえあります。そして、乳児期から幼児期に上がる段差があるというアメリカの例からみても、藤森先生がおっしゃる「発達の連続性」を保障するため、垣根を越える制度と勇気が必要であることを再確認できます。

  2. そうです。子どもは「ひとつの連続体」です。やれ家庭教育だ、保育園保育だ、小学校教育だ、と大人たちは子どもたちの育ちの連続性を制度という名のもとに平気で分断していきます。小学校は保育園とは違います!と入学したての子どもたちに何だか権威を振りかざそうとする小学校教員さん、もしかするといるかもしれません。子どもの今に寄り添うならば、「やれ家庭教育だ、保育園保育だ、小学校教育だ」ということにはならいのと思うのですが。今回は最後のほうに米国の例が紹介されていましたね。我が国も彼の国も事情の類似性はあるのだなと妙に納得してしまいました。まぁ、制度は異なっても、適応力がある子どもは、その制度を新たなる獲得物として捉え、めげることなくしょ気ることなく、新しい道を歩んでいくのでしょう。これまで通りいかない現実、これもまた彼らにとっては格好の学習材料なのでしょう。何はともあれ、逆境にめげず絶えず立ち直る力を子どもたちには獲得していってほしいと思うのです。

  3. 真似するということはどういうことなんだろうと考えた時に、かたちを真似することからはじまり、その考えや意図を考えることにあるのだと、さらにはそこから独自に発展していくための過程だという認識でいました。〝どういう原理と実践〟ということになるのだと思いますが、共通のものを見つけだし、そこを大切にしていくことが大事なことのように思います。
    子どもの発達の連続性はアメリカの例を読んで、段階で対応するのではなく、その段階を滑らかに進んでいける工夫が必要であることを感じました。

  4. 形だけ真似しても意味ないということでしょうか。もちろん真似することに意味がないとは言いませんが、例えば新宿せいがのやり方をまるっきり真似しても新宿せいがとは人数も環境もそもそも子供も違うのですからまるっきり同じような子供が育つわけではありません。具体的な成功例が多いので錯覚してしまいがちですが、このやり方は新宿せいがの子達だからこそであり他の園には他の最善があるはずということですね。

  5. 初めて、自分が藤森先生に出会って新宿せいが保育園に勉強させてもらい、家に帰って父と話をしたときのことを思い出しました。父は「単にこの保育をやりたいというのなら止めた。でも、子どものことを理解して保育に生かそうとするのならいいと思う」ということでした。確かにプログラムとして、「真似」や「模倣」から入るのは入り口としてはとても分かりやすいと思います。しかし、それが発達の連続性や原理原則も理解してなのかということが理解してなのかということが問題のように思います。様々な本や勉強をしていくとやはり理念や意図、志といったものが根底になければいけないということはどの本にも書かれています。しかし、形だけを追うとそれに伴わないことも多々あります。まずは本質から入ることが求められますし、そういった発信の仕方も重要になってくると思います。

  6. 教育がそんなに断続的なものだと、考えてみればそのような環境下でよくここまで成長できたものだと多くの大人は自分で自分のことを褒めていいのかもわかりません。子どもたちが社会へ出るまで、ただ教育が継続的に行われるよう仕組みを整えればいいだけなのに、子どもたちの目から見たらこんなに簡単なことと思われるかもわからないことなのに、大人になったからわかる複雑さがそこにあるようで、でも本当は複雑にしているだけで、本当はとても簡単なことなのかもわかりません。何の為に仕組みがあり、そしてそれは何の為の仕組みなのか、問いかけに答えを出していく子ども仕事の一つなのかもわかりません。

  7. 「模倣は技術を進歩させる戦略の基本です」ということ、「そこで、彼は、この本の中ではさまざまな事例を、模像すべき見本としてでなくなく、根底にあるアイデアや戦略の具体例として検討していっています」ということ、とても参考になる考え方です。人の特性上、真似るということはとても自然なことで、そこから学ぶものはたくさんあります。頭よりも身体感覚を重視する感じでしょうか。なので、とにかく真似るというのはとても合理的だと思います。しかし、そのなかでも、ただただ真似するだけではなく、それはなんのためにやっているのかということを意識することで、よりその真似を発展させることができるように思います。そのようなバランス、柔軟性は意識したいことですね。

  8. 保育の世界もそうですが、色々な分野で模倣というのは重要なことであり、それこそ技術を進歩させてくれる大切な行いだと思います。新しい商品や人気が出た商品が出ると、すぐに似たような商品が後からどんどん出てきます。その中で互いに良い所を真似て、より良い商品を作り上げていますが、そこには「真似をする」という行為にプライドがなく、あくまで会社のためや、それこそお客のためと思いがある気がします。なぜ保育の世界になると急に個人のプライドが邪魔をして良い保育でもなかなか真似ようとしなかったり、批判したり・・・。そもそも教育とは何のためにあるのか?それを考えると自ずと道が見えてくると思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です