データの読み取り

いろいろなことを研究するにあたって、理系の場合は、実験を積み重ねていく場合が多いです。何度も失敗を繰り返しています。先日ノーベル化学賞を受賞した吉野彰さんも、当然そのような苦難の道をたどったことでしょう。AERAdot.の記事にも「スマホなどで欠かせないこの電池の開発は、死屍累々の歴史でもあった。」とあります。そして、「開発の芽が出た70年代から四十数年後、リチウムイオン電池はIT機器だけでなく電気自動車にも使われるようになり、21世紀の生活を底で支えている。ウィッティンガム、グッドイナフの業績を生かしてコードレス/ワイヤレスの機器を支える「底力」としての電池を製品としてまとめた吉野の研究開発力は語り伝えられるものだろう。」何十年にもわたってのコシノさんの研究は、様々な困難があったでしょうが、このように脚光を浴びない中にも、何十年も研究している人たちも大勢いるでしょう。

また、植物学者とか昆虫学者の研究は、実際に自ら植物を育てたり、昆虫を育てたりする中で、ひたすら観察します。様々な条件の中ではどうであろうかなど試行錯誤が繰り返されるでしょう。

それに対して、いわゆる文系の研究はどうでしょうか?たとえば、保育の研究はどうでしょうか?人そのものの研究のため、なかなか実態がつかめないなか、ピアジェが心理学を応用して、保育を語るようになりました。それは、大いなる進歩です。また、様々なデータからいろいろなことを判断します。実際に、データがものを言うことがあります。しかし、私は、データ自体は正しくても、その読み取り方に様々な見解が生まれてしまうことを理解する必要があると思っています。以前、ブログで紹介いたのですが、その点に関して、ハリスは疑問を持ったのです。こんなことを以前紹介しました。

子育て神話は人為的な神話であるとハリスが述べたときに、多くの人たちがすんなりとそれを信じることができなかったのは、信じることができないだけの根拠があまりに多かったからです。私たちは、親が子どもに影響を及ぼすのを自分の目で見て知っています。しかも社会化研究者はそれを証明するデータを山ほどもっています。それに対して、ハリスは確かにそうだと言います。しかし、こんなことを問いかけています。「自分の目で見たというのは一体どこで見たのか。研究者はそのデータをどこで集めたのか。確かに親は子どもに影響を及ぼします。しかし親が一緒でないときにもそれらの影響が引きつづき残っているという証拠はあるのだろうか。親の前では気むずかしい子も、もしかしたら同級生や先生の前ではすっかりとりすましているかもしれない。」

そして、こんなことを指摘しています。「社会化研究者たちが信じる子育て神話を裏づける証拠の多くは、親の前での子どもの行動観察、もしくは母親が記人した子どもの行動に関するアンケートなどに基づいている」というのです。確かに、子どもたちの多くは親の前と外での姿が違います。ですから、研究者は家庭環境の影響、たとえば離婚による影響などを実証しようとするので、家の中での子どもの様子を観察しますが、その場所は最近子どもにとって不愉快な出来事が多発した場所でもあります。さらにひどいことに、研究者たちは、とりわけ離婚の混乱後で決して中立的な観察者とはいえない親に、子どもの行動について質問しているのです。

そして、こんな指摘をしています。「このようなある意味で片手落ちの研究結果によって、子どもを判断し、決めつけてしまうことが多いようです。状況の作用は発達心理学がかかえる大きな問題のようです。状況の作用によって、研究者が考えるもの、もしくはそうあってほしいと願っているものとは違った意味をもつ相関関係が生み出されてしまうようです。」

データの読み取り” への6件のコメント

  1. 理系の研究・文系の研究、両方の異なる難しさが存在しているのですね。ノーベル化学賞を受賞した吉野彰さんもまた、想像もつかないほどの時間を研究に費やし、リチウムイオン電池への情熱がその苦難を乗り越える糧となったことが伝わってきます。ノーベル賞といえば、ノーベルと同郷のグレタさんの平和賞受賞があるのではと騒がれていましたね。彼女はアスペルガーを公表しており、「アスペルガーは私の誇り」と語っていたのが印象に残っています。他の人よりも特出した才能を生かし、開花させるための「賞」でもあるのかもしれないとも感じました。そして、ハリス氏が「子育て神話は人為的な神話である」と説いた言葉が、社会に受け入れられていない現代であり、それはいつかまた時代が呼び起こして「ハリスは正しかった」と理解する日がきっとくるのだろうなとも思います。私たちは、データの取り扱いを慎重に行う必要があることを再認識しました。

  2. 私も以前は、子の育ちには親の影響がとても大きいと思っていました。だから、親は子のためにもしっかりとしなければならない、と思っていました。しかし親がしっかりとしていても子どもがぐれる時はぐれるようですし、親が多少ハチャメチャでも子は立派に育つという事例もそこここにあります。自分自身の生い立ちを振り返ってみても、親の影響で今のようになったとは、私自身思えない。もしかすると、私や私の親たちを知っている人々は「蛙の子は蛙」と言ったりもするのでしょう。しかし、親と私を外見は別にしても、似ているという人に出くわしたことはこれまで一度もありません。私は自分の弟や妹を見ても親に似ているとは思いません。そうそう、食べ物の好き嫌いで類似しているところを弟妹に見出すことはできます。それは親の影響というより、食事環境のせいでしょう。親と子ども、先生と園児との関係が・・・というものの見方考え方は、私は違うのではないかと思っています。

  3. 情緒的な見解に終わってしまい兼ねない保育の研究に、数量と客観性を、とアドバイスをいただいたのは数年前に福岡で行われた赤ちゃん学会の時でした。教授の方々の研究発表やポスター展示を見聞して、なるほどこういうことかと思いながら、それでは現場で取り組める研究とは、と思いながら生臥竜塾に報告をあげたりして、あの頃からどれだけの進歩があったか、とふと省みたくなります。目に見えないものを目に見えるように、その為にやれるようにならなくてはならないことが沢山あることを改めて感じます。

  4. データの読みとり

    時には、自分で見たものでさえもその背景や行動の裏を考えながら、考察しながらといいますか、考えながら子どもたちをみつめることが求められているんですね。そして、これまで研究者の方たちが導き出してきたデータについても、そのまま鵜呑みにしてしまうことがどれだけのことになるのか、というのは「子育て神話」のことで理解ができるんだと思います。
    どんなことにもそのまま鵜呑みにしてしまうことは危険を伴うものなんですね。

  5. あるドラマの「医は仁術ではなく科学だ、今の医療は数えきれない死屍累々の上になりたち成長してきた狂気の世界だ」という台詞がとても心に残っています。医療過誤をでっち上げた弁護士に向かっていう台詞なのですが、医の世界が狂気なら保育の世界はどんな世界なのでしょうか。思い込みや偏見で溢れ日々変わっていく社会情勢を無視して昔の正解を今の正解と思い込む、そういった意味では医の世界とは別の意味の狂気の世界かもしれませんね。

  6. データの読み取りというのは確かに気を付けなければいけないことですね。それは自分自身にも言える事であり、先入観を持って見てしまうことはよくあります。一つの尺度を自分なりに持つことも当然必要なことだとは思うのですが、柔軟に物事を見て、察する力というものも必要とされていくのだと思います。臥龍塾のブログを見ていても、日進月歩で子どもの研究は進んでいたり、変化していたりとそのスピード感はすさまじいように思います。研究を鵜呑みにするのではなく、参考にするために自分自身にも物事を見る力というものが必要ですね。しかし、こういった子ども研究が紆余曲折が起きるのはそれだけ「ヒトの研究」というのは難しいからなのだということを改めて感じます。今後もブログを通して、自分の見識を深めていこうと思います。

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