マイノリティ

自閉症では共感の特異性もみられるようです。情動的共感にかかわる表情伝染については、自閉症者で表情の反応が小さい、または大きすぎるなどの報告がされてきているそうです。認知的共感にかかわる心の理論については、50%の子どもが誤信念課題を通過する年齢が定型発達児ではおよそ4、5歳であるのに対して、自閉症児ではおよそ9歳だそうです。もちろん個人差はありますが、総じて、自閉症児では心の理論の発達が遅れると考えられています。

感情の理解や表出についてはどうでしょうか。たとえば、先述の感情の気づきや伝達が困難であるアレキシサイミアについては、自閉症者のおよそ半数近くの人が合併しているそうです。つまり、自閉症者では、自分の感情を理解したり、伝達することが苦手であると感じている人が多いようです。また、自閉症者において、アレキシサイミアの傾向が強いほど、内受容感覚に鈍感であるということも報告されているそうです。

ここで、今福氏は、自閉症の当事者である綾屋紗月の経験を、その著書から紹介しています。「私自身は身体の空腹感や体温変化をまとめあげるのに時間がかかる」「視覚にせよ、聴覚にせよ、情報ははじめ、何を表しているのかわからない単なる強い刺激として入ってくる」。これは、身体感覚を含む諸感覚の問題が、社会的コミュニケーションのうまくいかなさの根底にある可能性を暗示していると今福氏は考えています。

アメリカの精神医学会が作成した『精神障害の診断と統計の手引き第五版』における自閉症の診断基準には、視覚、聴覚、触覚などの感覚刺激への過敏や鈍麻が記されているそうです。感覚刺激に対して特異に反応してしまうことは、他人とのコミュニケーションの困難さにつながる可能性があると考えられます。たとえば、カフェで目の前にいる人とうまく会話ができないのは、周囲の声が気になりすぎて、目の前の人の話に集中できないからかもしれません。このような見方をすると、社会的コミュニケーションの問題は自閉症の第1の原因ではなく、二次的に起こっていると考えることもできるのではないかと彼は言うのです。まずは個々人が感じている感覚の特性を理解することが大切だと提案しています。

次に、定型発達症候群について説明をしています。定型発達症候群は、社会の問題に対する没頭や周囲との適合への固執を特徴としてもっている人たちのことを指します。たとえば、一人でいることが困難であったり、集団になると周囲の人と行動を合わせたり、率直なコミュニケーションが苦手で自閉症者と比べて嘘をつく頻度が多いと言われています。今福氏は、このようなことは、みなさんにもあてはまるのではないかと言います。実は、この定型発達症候群は、自閉症者から見た定型発達者の特徴をまとめたものだそうです。

社会的多数派であるマジョリティの集団に属している人は、自分たちの基準が正しく、自分たちと異なる社会的少数派であるマイノリティの人の行動は正しくないと判断しがちだと今福氏は言います。一方で、定型発達症候群の例からわかるように、マイノリティの視点からみると、マジョリティの行動は理解がむずかしいものになります。つまり、マジョリティとマイノリティのどちらが正しいという問題ではないのです。今福氏のこの指摘は、重要ですね。どうしても、私たちの健常という見方には一方的な見方が含まれていますね。

マイノリティ” への6件のコメント

  1. 私は、どちらかと言うと、「定型発達症候群」に属すると思います。まぁ、自閉気味ではありますし、躁鬱傾向にもあり、時に分裂気質が前面に出ることも。「みなさんにもあてはまるのではないか」。まぁ、皆さんにあてはまるかどうかは別として、自分は決してマジョリティではないな、と若い頃から思ってきました。そして、いまだに、大政翼賛的にはならない。保育団体は、現政権擁護で一辺倒。批判勢力は排除。排除されないために言動に気を付けて立ち居振る舞うのです。「長い物には巻かれろ」でいいのですね。「寄らば大樹の陰」でいいでしょう。本音と建て前。生きる力。全体主義やファシズムが20世紀に席捲しました。現今はポピュリズム全盛?それでも自分の信念とやらはある。だから、みんな違ってみんないい、社会を創り上げたいと本気で思うのです。そんなの理想だよ、そうです、その理想を追い続けて、やっとノーマルな社会を実現できるのです。

  2. 欅坂46の「サイレントマジョリティ」を思い出しました。普段、あまり歌を聞きませんが、その歌詞や雰囲気には独特さを感じたのを覚えています。秋元康氏の先見の明や時代への疑問点が、色濃く表現されている作品だと思いました。若者と大人、男と女、障害者と定型発達者、マイノリティとマジョリティ…。「どちらが正しいという問題ではない」という言葉のように、一方的な見方では理解できない本質を見つめる力が「共生」には必要だと感じます。「たとえば、カフェで目の前にいる人とうまく会話ができないのは、周囲の声が気になりすぎて、目の前の人の話に集中できないからかもしれません」という一次的問題が見過ごされている危険性を把握しとくことは大切ですね。

  3. どちらが正しいという見方というのは、一方を敵とみなす、ということになりかねない考えであることに気づきます。自閉症の人から見た「定型発達症候群」の文章を読み、なんか悪い人のことが書いてあるように見えるのは、敵だと思っている人たちのことを書いてあるからだと感じました。そのような見方は新たな敵も増やしていくのではないかと思います。捉え方によって、こうも違うものに写ってしまうことは覚えておく必要がありますね。

  4. 自分と違う考え方、また周囲とは違う考え方を持った人を見つけたときに危険だ、排除しようという考え方が生まれてしまうのは、社会性が高く集団で行動するヒトという動物ならでわのことなのでしょうが、その本能的な部分を抑えられないのは健常者と呼ばれるもののなかにも何かしらの障害を抱えたものがいるからなのでしょうか。

  5. 「自閉症者では、自分の感情を理解したり、伝達することが苦手であると感じている人が多いようです」それを感じている、というか点に何か切なさのようなものを感じます。感じているが、どうしようもできない、というような葛藤の中にいるということではないかと、「私自身は身体の空腹感や体温変化をまとめあげるのに時間がかかる」「視覚にせよ、聴覚にせよ、情報ははじめ、何を表しているのかわからない単なる強い刺激として入ってくる」これらの文章からも感じることができます。「身体感覚を含む諸感覚の問題が、社会的コミュニケーションのうまくいかなさの根底にある可能性を暗示している」今福氏の考えている通り、そういう一つ一つが積み重ねられてその人の生活があるということを、接する人間は理解する必要があるようです。

  6. 「マイノリティの視点からみると、マジョリティの行動は理解がむずかしいものになります。」この感覚は確かに持っておかなければいけないですね。特に「インクルージョン」や「コーヒージョン」といったそれぞれの人との関わりを尊重するような社会においては必要な感覚であるように思います。以前の工藤氏の話でも、大勢の中には少数もおり、そのどちらもが納得できるようにするのが民主主義であるというように言っていましたが、そのためには一方的な見方ではそうはなりません。どちらの気持ちも尊重するためには高度な「共感力」であったり、「社会性」が求められます。それは健常やしょうがいといったくくりのものだけでもなく、様々な人間関係に言えることなのでしょう。より人を知るためにはより多様な人との関りを持たなければいけないでしょうし、相手を理解しようとする意欲もなければいけないのだと思います。かなり難しい話のようにも感じますが、そこに保育として、どうアプローチしていく必要があるのか、よく考えねばいけませんね。

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