黒板とチョーク

工藤氏は、教員と同様に、校長や副校長などにも自律は求められると言います。数々の法令があることが前提としても、管理職が自律的に学校マネジメントすれば、公立学校は大きく変わりうる可能性を持っていると主張します。彼は、変革を阻んでいるのは。「法律」「制度」よりも「人」だと考えていると言います。不条理・非効率的な状況があるにもかかわらず、何ら疑問を持たずに前例を踏襲するような教育関係者は少なくないのではないかと言います。まずは、「学校の当たり前」を疑うことから、始めるべきだと主張します。

例えば、学校の教室には、黒板とチョークがあり、教卓と児童生徒の机と椅子があります。こうした環境も、「当たり前」で誰も疑問を持たないのですが、現代社会において果たして最適なのかどうかと問います。子どもたちに必要な力を養っていく上で、もっと最適な環境があるのではないか、そんな疑問を常に持ち続けるべきだと彼は言うのです。

とはいえ、黒板にチョークを使って授業する現状のスタイルを変えるのは、容易ではないと言います。コストの問題以上に、多くの教員がそのスタイルに慣れており、その形に固執しているからだと言います。ある教育関係者が、「これは100年以上続いてきたスタイル。この先、100経っても変わらないだろう」と話しているのを聞いたことがあるそうです。しかし、やり方次第で、そうした「当たり前」も覆すことはできると彼は言うのです。実際に、彼が教育委員会の指導課長の時、全区内の小中学校の全教室の黒板を撤去し、ホワイトボードとICT環境を導入したそうです。導入に際しては、内部で十分な意見統一が出来ていなかったため、当初は当然、反対もあったそうです。しかし、魅力的で分かりやすい授業を実現するためには、新しい教室環境を整えるべきだとの確信が彼にはあったそうです。そのため、各方面と対話を重ね、その必要性を訴えていったそうです。

日本では、2020年度から小学校でプログラミング教育が必修化されます。そのために、新しく使われる教科書にはプログラミングの項目が盛り込まれているそうですが、日本の場合、子どものパソコン保有率が極めて低いという記事が、今年の4月に掲載されていました。OECD(経済協力開発機構)の国際成人力調査によると、16歳から24歳までの若者が職場や家庭などでパソコンを利用する頻度は、OECD加盟国中最低水準だったそうです。また、OECDの学習到達度調査においても、学校や家庭でコンピュータを使える状況になっていると回答した生徒の割合は、ほとんどの質問項目において47カ国で40位以下にとどまっていたそうです。まだまだ偏見を持った大人が多いのも理由の1つのような気がします。

工藤氏が、ICT環境の導入に当たって、すべての教職員組合の代表者が、年度当初の教育委員会との話し合いにやって来たそうです。組合は、様々な要求と共に導入によって教員の負担が増えるのではないかという懸念があると言って批判的に話したそうです。そこで、彼は、ICT導入の意義と期待される成果を丁寧に説明したそうですが、理解は得られずに終わったそうです。通常はこれで終了となり、担当としての義務は果たしたことになるのですが、彼は彼らを引き止めてこう言ったそうです。「ここで帰らないでください。もっと話をしましょう。どうしたら、子どもたちのためになるのか、ICT環境の導入を成功させるためにも、一緒にやりませんか。組合と区教委が同じ目標を目指して協力し合う、そんな取組みをしませんか」

黒板とチョーク” への6件のコメント

  1. より良い方向性のために不屈の精神をもって行動する人、工藤校長の実践にそんな感慨を抱きます。「彼は、変革を阻んでいるのは。「法律」「制度」よりも「人」だと考えていると言います。」まことにその通りだと思うのです。法律も制度もそして「当たり前」もすべては人が創り上げて来たことです。だから、変革を推し進めるのも阻むのも人ということになりますね。「子どもたちに必要な力を養っていく上で、もっと最適な環境があるのではないか、そんな疑問を常に持ち続ける」子どもに携わる人そうでない人共に持ち続けていきたい視点ですね。「最適な環境」とは何か。このことを考え始めると「学校の当たり前」に限らず様々な分野において従来の「当たり前」の壁にぶち当たりますね。たいがいはぶち当たった段階で諦めてしまいます。しかし「子どもたちに必要な力を養っていく」ことを本気で考えるならば単純に諦めるわけにはいきませんね。「ここで帰らないでください。もっと話をしましょう。どうしたら、子どもたちのためになるのか、・・・一緒にやりませんか。・・・同じ目標を目指して協力し合う、そんな取組みをしませんか」この声かけが必要となってきますね。

  2. 学生時代は、先生は毎回同じ板書をして大変だなぁと思ったことがあります。それは、自分のクラスの次の授業で、同じ板書を隣のクラスで書いているのをみた時です。当時は、それが普通であるのだなぁとしか思いませんでしたが、そこに疑問を抱いたり異を唱える見方が、改善への道しるべであることを感じました。現代では、ICTの活動によって板書の必要性がなくなり、その時間を生徒自ら何かを考える時間にも活用できますね。そして、工藤氏の「もっと話をしましょう。どうしたら、子どもたちのためになるのか、ICT環境の導入を成功させるためにも、一緒にやりませんか。」という熱意ある言葉には、板書のような先生たちの無駄な負担を減らしたいという思いだけでなく、本気の未来を見据える必死な大人としての責任とか使命といったものが感じられました。

  3. 見守る保育 Fujimori methodと黒板とチョークの関係を考えると、例えば子どもが落書きをするもの、といった感じがします。この保育の流れが主流となった時、現学校の授業形態、教師が子どもたちの前に立って板書をしながら授業を進めていくということにはやはりならないように思えてきます。子どもが遊ぶ分には環境として悪いものでは無いと思うのですが、それが教育の主軸となっていることは、本当に見直されなくてはならないことのように感じます。情報が容易く手に入るこの時代で、もしかしたら知識量だけで言えば未就学の子どもたちも就学した子どもたちと変わらない程のものがあるかもわかりません。暗記を求める授業から、持っている知識を子どもたち同士で分かち合う内容へと、互いに持ち寄って新しいものへと変換していくような試みへと、変わっていかなくてはならないのではと改めて思います。

  4. 当たり前を疑う、これは口でいうほど簡単なことではないでしょう。逆にいうなら当たり前を疑うということはすべての可能性を考慮するとも言えるからです。変化するということは恐ろしく大変なことですが、それは当たり前でいることが楽だからなのでしょう。成果が出るかもわからない、もし出たところで評価されるともわからないならばあるもので最善を尽くせばいい、となる気持ちもわからないではありません。ただ、組織の人間がみな当たり前を疑うことを当たり前にできたならば革新的な子とが起こりそうな気がしますね。

  5. 〝変革を阻んでいるのは。「法律」「制度」よりも「人」だと考えている〟とありました。その先を読んでいて「なるほど」という納得させられました。大人たちのこれまでの人生で凝り固まってしまったもの、慣れてしまっているものが変革を阻んでいるんですね。その例えが「黒板とチョーク」。学生の頃は先生が書いたものをノートに写したり、授業終わりにそのままになっている黒板を消したり、その黒板消しを煙たいのにパンパンしたり…あんまり良い印象のないものでした。それが変わるとなると、期待してしまいそうですが、そう上手くはいかないんですね。「子どもたちの後に必要な力はなんなのか?」というものを考えた時、「当たり前」は「当たり前」ではなく、時に障害となり得ることを知ることができ、自分も物事を考えていかなければならない時の思考が広がるのではないかと思いました。

  6. 「変革を阻んでいるのは。「法律」「制度」よりも「人」だと考えていると言います。」まさにその通りですね。よくそのことはこのことはブログの中で似たようなことが触れられていますね。教育基本法にしても、学校教育法に関しても、どこまで、意識されているのかと思うことがあります。以前、市の保育の話し合いにおいても「私たち6領域で学んだもんね」という先生もいるくらいです。どこでもそういった話はあります。ただ、その反面、変化させることや新しいことを始めることの難しさがあるのも事実です。それは「どう動けばいいのか分からない。でも、変だとは思う」という考えです。麴町中学校の工藤先生や藤森先生といった先駆者と言われるかたの変化での悩みはいくばかりかと感じます。自分自身が先駆者にはなれない中、そういった前例をありがたくいただき、変化をさせていくことは可能です。こういった変化は勇気をもらえます。変化の原動力になるなか、一つ一つの本質を見ていき、大切なことの実現に向かっていければ、それも一つの変革かなと思います。

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