赤ちゃんの心

赤ちゃん、子ども研究はいろいろとされています。それは、時代的に新しい研究手法が確立されていくこともあって、日々新しい見解が生まれています。そして、その研究から、さまざまな保育についての考え方が示されます。赤ちゃんが考えていること、できること、そして、各国で様々な保育カリキュラムが提案されています。しかし、その対象とされる赤ちゃん、子ども自身が日々変わっているわけではありません。基本的には、変わっていません。赤ちゃん観、子ども観が変わってきているのは、赤ちゃん、子どもが変わってきているわけではなく、その見方、解釈のしかた、それが、時代によって、人によって変わってきているだけなのです。赤ちゃん、子どもが示す行動は、常に同じはずです。

そんなこともあって、私たち現場にとって、真実は赤ちゃんの姿であり、子どもの姿であり、彼らの行動です。研究者の見解は、必ずしも真の姿を現しているわけではないのです。

また、エビデンスとして使われるデータにしても、その読み取り方は人によって違います。ヒトは、そんなに単純ではありません。一つの切り口からの分析、ある結論を導き出すための読み取り方であることも多いのです。エビデンスといっても、人を説得するに十分なもの、真の姿を証明するものであるとは限らないのです。

その中で、最近の私の関心事は、赤ちゃんからの社会性です。トマセロが人類は超社会的生き物であると言っています。その社会的がいつごろ、どのようにヒトの心の中に育っていくのか、また、それは、社会の中で育まれていくものであり、その心が育まれていく時期には、社会、すなわち、ヒトの集団、子どもの仲間集団という環境が必要であるということを、様々な人が言うようになっています。その考え方が、最近ではどのような見解が示されているのかに私は興味があります。そこで、今年の5月に発行された「赤ちゃんの心はどのように育つのか」(ミネルヴァ書房発行)を読んでみました。この本のサブタイトルには、「社会性とことばの発達を科学する」とあります。著者は30歳を過ぎたばかりの今福理博さんです。彼は、発達科学、発達心理学を専門に、赤ちゃんや子どもの心や行動、脳の仕組みとその発達について研究しているそうです。そして、この本は、赤ちゃんや子どもの社会性やことばの発達について、国内外の最新の知見をまとめてあるので、とても参考になります。

彼は、最初に、「心の発達を理解する」ということについてこう説明しています。

赤ちゃんや子どもには、発達段階と呼ばれるように、発達が質的に変化する時期があります。たとえば、移動運動では、寝返り、ハイハイ、つかまり立ち、二足歩行のように、順序を経て発達します。また、その発達には個人差があります。生後11ヶ月で歩く赤ちゃんもいれば、生後13ヶ月で歩けるようになる赤ちゃんもいます。

発達段階に応した保育、教育のあり方は、今まで保育所保育指針の中で、第2章に「子どもの発達」が書かれてありました。そして、その発達過程をおおむね八つの区分に分けて書かれてありました。しかし、それは到達目標でもなく、保育の目標でもない、一つの目安であるということで、今回の指針からはそれは削除されています。しかし、文部科学省(2009)の資料「子どもの発達段階ごとの特徴と重視すべき課題」として明記されています。今福氏は、赤ちゃんや子どもの心をどう育むのか、それを考えるためには、赤ちゃんや子どもの発達段階や、発達の個人差を理解することから始めなければならないと言っています。

赤ちゃんの心” への5件のコメント

  1. トマセロ氏が言った「人類は超社会的生き物である」という言葉からも“関わり”がもたらす人類への功績を感じさせますね。関わりの中にいることで、人類であることを保てるとも理解できます。また、「真実は赤ちゃんの姿」という表現が私たちを何を見れば良いのかという基本に立ち返らせてくれます。様々な最新研究や参考書は、あくまで目の前の子ども理解のための資料にすぎず、目の前の子どもの姿こそが答えでもあるという考えは、環境を変えていく指標として一番大事なところであることを再確認できました。

  2. 時代が進めば進む程赤ちゃん研究は進むのだと思うと、とても希望が湧いてきます。麹町中学校の工藤校長も、その教育方針の裏付けに脳科学からの知見を必要としました。それは、子どもたちのことを想い、その子どもたちに関わる教育者、保護者の気持ちを想って作り上げようとする上で、その詳細を知ろうとする人たちが納得するものを提示しなければならないからかもわかりません。ただ大きな愛情がそうさせるのではないかと思えてくる程の実践力、その行動しようとする心に理屈はないようなのに、それには理屈が必要とされる、という点、とても興味深く思います。子どもたちが楽しくて、保育者も楽しくて、それを実現する為に見守る保育 Fujimori methodがあるのではないかと思うと同時に、理屈なく良いものを説明する為に理屈が必要で、その為にも進んだ研究に触れ続けることはとても大切なことなのだと改めて感じます。

  3. まことに、赤ちゃんも子どもも変わっていません。変わってきたのは、赤ちゃん観であり子ども観です。大人たちが創り上げたものです。それにしてもその「観」なるものに若い親たちはどれほど振り回されてきたことか。あるいは赤ちゃんや子どもたちに関わる「先生」たちは翻弄されてきたか。一斉画一、育児担当制、子育て神話、・・・。子どもが嫌だと言っていても大人の倫理観なり大人の論理なりでその嫌をまともに受け付けようとしない。嫌と言っているのはわがままだ、と決めつける。やれやれ、もっと和やかに暮らそうよ、と声をかけたくなる親子を時々目にしてはそう思うのです。「最近の私の関心事は、赤ちゃんからの社会性」これは殊の外重要です。赤ちゃんは何もできない、何もしゃべらない、だから何も知らない、社会の形成者ではとてもない、とする大人たちの何と多いことでしょう。それでなくても少子化のゆえに他の子どもとの関りが希薄となっているのに子ども集団が存在する施設でも「子ども一人ひとり」の掛け声で子どもが「一人」「ひとり」に分断されています。子ども一人ひとりを大切にする保育は、子どもの一人ひとりを特定の大人がその大人の思い通りにすることではないはずです。

  4. 長い年月を経て、大人たちが変わりすぎてしまった、ということになるのでしょうか。子どもたちは昔から変わらないことをしていて、大人のその見方が変わってくる。なんだか難しいです。〝私たち現場にとって、真実は赤ちゃんの姿であり、子どもの姿であり、彼らの行動です〟という言葉が考えてばかりではなく、目の前の子どもの行動に目を向かわせてくれます。何を信じるか、やはり子どもの姿になるのですね。参考書や育児書は子ども理解をするものの1つであり、答えは子どもの姿。シンプルで良いですね。

  5. 人には様々な個性があり特徴があります。勤勉な人もいれば不真面目な人もいて、努力家がいればおサボりさんもいるわけですが、なぜ効率的ではないとされる側は淘汰されないのでしょうか。そもそも人間は本能的に嗅覚や聴覚等を駆使して自分とは違う遺伝子を持つものを探してて惹かれるといいますが、より優秀な遺伝子を残すためであれば優秀さが似ているもの同士で、生活リズムが似ているもの同士で惹かれあい会瀬を遂げるほうが効率がいいような気もしますがそうではない理由はなんなのでしょうか。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です