子どもの心の中

現在、千代田区立麹町中学校長である工藤勇一氏は、「学校の『当たり前』をやめた」という著書の最後に、新しい時代の学校教育のカタチを模索しています。学校が変わるために、今何が必要なのかを考えています。それは、教育の本質を取り戻すことだと言います。あるいは、昔の学校を思い出すことだというのです。何のために学校があるのか、作られた制度の中で考えるのではなく、生徒、保護者、教員が最上位の目的を忘れず、ぶれずに、ゼロベースで積み上げていくことだと言うのです。

それは、計りしれないことではなく、身近な課題を解決するに当たって、対話を重視し、合意形成する経験によって達成し、その後の人生で、何度も繰り返し経験することだというのです。そして、小さな改善が積み重なり、大きな変化となると言うのです。草の根的活動が、自律に始まり、いつか大きなうねりとなって、教育の本質的な改革が進むことを彼は期待しているのです。そして、オセロの駒が一気にひっくり返される日が必ず来ると信じていると本の最後に締めくくっているのです。

この本を読み進めてきて、その要約を紹介するのは、決して彼の改革を素晴らしいとか、彼は素晴らしい校長だということではなく、この改革が、他の場にも、例えば保育の世界にも共通することがたくさんあり、私たちも改革をする勇気をもらうためです。現状に不満や疑問を持ちながら、いつも何かの、誰かのせいにして、変えようとしないことに対して、やろうと思えばできるのだということを学んで欲しいと思っています。

そういう意味もあって、ライターである多田慎介氏がウェブのニュースメディア「WEDGE Infinity」で麹町中学校の改革を取材して、記事を掲載したので、この改革が全国で話題になったのです。多田氏は、特に教育の専門家ではありませんが、だからこそ、工藤氏の改革が、大人たちの社会課題につながることを感じたのでしょう。

最後に、工藤氏が保護者対象の「授業」を多田氏が紹介しているので、ちょうど幼児のことでしたので、私もここに紹介したいと思います。

公園の砂場で、幼稚園児の女の子と男の子が遊んでいるとします。近くのベンチには、それぞれのお母さんが座って様子を見守っています。女の子は、自宅から持ってきたおもちゃのシャベルとバケツを使っています。男の子が女の子に向かって「シャベルとバケツを貸して」と言いました。しかし女の子は「嫌だ」と拒否します。その様子を見て、女の子のお母さんは「そんなことを言わずに貸してあげなさいよ」とたしなめました。女の子は渋々ながら、シャベルとバケツを男の子に貸します。男の子は無言でそれを受け取り、遊び始めました。すると男の子のお母さんは「『ありがとう』をちゃんと言いなさい」と諭します。どこにでもある、ほのぼのとした一場面ではないでしょうか。「自分が親の立場なら同じように言うだろうな」と感じる人も多いでしょう。しかし、実はこの場面の前段には、親が思いもしないストーリーがあるのです。

子どもの心の中” への5件のコメント

  1. 「現状に不満や疑問を持ちながら、いつも何かの、誰かのせいにして、変えようとしないことに対して、やろうと思えばできるのだということを学んで欲しい」という言葉が印象に残ります。先日、幼稚園免許更新講習に参加した際、「狂気とは、同じことを繰り返し行いながらも違う結果を期待することである」という言葉を紹介されました。誰でも、現状に疑問をもつ時期があります。しかし、そこから前に進もうとする人が少ないのは、前例がないから勇気がでない・疲れる・めんどくさい・一度軽いアクションを起こしてみたがコテンパにされたなどがあるからでしょう。正義のみが世の中をわましているのではないと知ってしまったからかもしれません。しかし、何もしないこの瞬間にも、子どもたちが犠牲になったり、もったいない時間を過ごしてしまっている、もっと社会の魅力を伝えたいなどと思うことができたなら、そういった自分の思いを人に話すことで、熱意を持続させることもできるように思います。工藤氏も、初めは孤独であったのかもしれません。しかし、そう思っているのは1人ではないと思いながら行動していた姿を思い浮かべてみました。

  2. 改革や変化というものに柔軟である為にどういう心掛けであればいいものなのでしょうか。それは改革の受け手側の想像だなと思いながら、しかしながら多くの場合は変化のない毎日を望むものではないでしょうか。日本に限ったことではないのかもわかりませんが、変化を求められた場合に、自身が積み上げてきたものを否定されたような感覚が先行するように思えます。しかしそうではない。子どもの頃からディスカッションをすることに慣れずに育ってきたその部分を、大人になって克服する必要はあると思います。
    そして、一人一人が大人同士として会話のできる土台を整えた上で話せる、共通の目標、最終目的の共有、だからこそ理念が必要なのであると改めて思いますし、それを可能にする為の日々の意思疎通、コミニュケーションであると思います。改革者、とその受け手側の意識、どちらもが噛み合ってこそ成り立つものであることを改めて思います。

  3. 子ども中心とかチルドレン・ファーストとか皆さん口々に言います。「子どもの最善の利益」このことを否定する人は誰もいないと思います。しかし、就学前施設でも初等教育学校以降の施設でも本当に子どものことを考えて授業なり行事なり諸活動なりが果たして行われているのか?と疑問に思ってしまうことがあります。ある中学校の新任校長と話をしたことがあります。赴任した中学の生徒は弱い生徒が多い、今一度鍛えなおさなければいけない、と言いました。「弱い」とされる生徒たちはどんな物差しを当てられて弱いと評価されたのでしょうか。「今一度鍛えなおす」とは果たして何をやろうとしているのでしょうか。子どもたちは一人ひとりの人格者です。みんな違います。しかし、一人ひとりの人格者であることには違いがありません。子どもを云々する前に今の教育制度や教育の質についてまずは疑ってかかるべきでしょう。子どもがおかしくなっているとするならば、それは子どもを取り巻く環境がおかしいということです。簡単に家庭のせいにできない事情があるはずです。「小さな改善が積み重なり、大きな変化となる」まずは自分たちの周りの「当たり前」を見直すことから始めなければなりません。

  4. 〝生徒、保護者、教員が最上位の目的を忘れず、ぶれずに、ゼロベースで積み上げていくことだ〟とあり、それは教育の本質を見つめ直すことにつながり、さらには社会全体の課題にもつながるものだということが書かれてありました。ゼロベース、そもそものところから考えていくことで生まれるアイデアというのは、今の時代、シンプルかつ斬新なように感じることが多いように思います。原点に立ち返りみえてくるもの、赤ちゃんを見守ること、子どもを見守ること、自分たち保育者は本質の一番近いところにいるのではないかと思いました。となれば、それを発信していくのもまた、自分たちが担っていかなければならないのではないかと感じました。

  5. 思い込みにとらわれず物事の本質を見るとはいいますが、なかなか難しいですよね。日本人は特に察する、察しようとする力が強いと思いますがこれが邪魔するのではないのでしょうか。本人にとっては悪意などなく相手のためを思っていても場合によっては本質は相手のためになっていないという場面がたくさんあると思います。私の担当の二歳児のクラスでも、ある女の子が大好きな男の子のために身の回りのことを何でもやってあげるという姿が見られました。たしかに女の子のお世話をしたいという気持ちも尊重してあげたいのですが、その男の子が全くなにもしなくなってしまっていて仕方なく女の子を止めた、ということがありました。これににた姿を大人と子供の間でもたくさん見られる気がしました。

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