環境が変える

たまたま2つの集団に分かれただけでたちまち正反対のキャラをつくりあげる例として、アメリカでは白人と黒人による無意識のうちに人種別のグループをつくってしまうことがあります。これが人種差別の原因になるのですが、そこには、より強力な分離圧力か加えられることは容易に想像できます。このことを劇的に示した例で、ハリスが挙げたのは、ニューヨークのなかでも治安の悪いサウスブロンクスに住む16歳の黒人高校生ラリー・アンツのケースです。

ラリーはバスケットボールのチームに入りたかったのですが、成績不振で入部が許されず、高校を中退することになります。友人のうち3人は麻薬がらみの殺人事件に巻き込まれ、生命を失い、典型的な転落コースを歩むところ、幸運なことに、スラム街の子どもを遠く離れた上地に転居させるプログラムにラリーは選ばれます。

そこでラリーは、中流階級の白人家庭の子どもたちしかいない高校でしたが、2年後、その高校のバスケットボールチームのエースになり、成績もAとBばかりで大学進学を目指します。

子どもが友だち集団のなかで自己形成していくのなら、ラリーのように、環境を変えることで性格や行動に劇的な変化が生じても不思議はありません。ではなぜ、こうしたプログラムを大規模に実施しないのでしょうか。その理由は、ラリーが「変わった」のは、その高校でたった一人の黒人だったからです。もしも複数の黒人生徒がスラム街から転校してくれば、彼らはたちまちグループをつくって白人の生徒たちと敵対しようとするでしょう。

橘が、ハリスが挙げた例の中で、最後に取り上げたのが、やはり私がよく講演で使う例と同じ、ウィリアム・ジェイムズ・サディスの一生です。優しい、自分の人生をわが子の教育にかけた両親に育てられ、天才と言われるまでになったウイリアムでしたが、親にも背を向け、一生を独身で、無一文で、完全な不適応状態に陥って孤独死を遂げます。

ハリスは、彼のおかれた状況は、母親には育てられたが仲間とのつきあいがないままに成長したサルの状況と似ている、と述べているのです。仲間が不在のまま育ったサルは、明らかに異常行動が目立ったのです。

同様に英才教育を受けた神童も、幼少期に友だち関係から切り離されたことで自己をうまく形成することができず、大人になると社会に適応できなくなり、せっかくの高い知能を活かすことなく凡庸な人生を終えてしまうのです。

橘は、最後にこう締めくくります。親が子どもに対してしてやれることはなんだろうか?それに対するハリスのこたえはきわめてシンプルだと言います。「親は無力だ」というのは間違だと言います。なぜなら、親が与える環境(友だち関係)が子どもの人生に決定的な影響を及ばすのですから。

環境が変える” への7件のコメント

  1. 私も、子の育ちに対して「親は無力」である、とは思いません。子どもは自分から住居等をはじめとする基本的生活環境を選択することができません。親が決めたところに住みます。そして、その住んだところの環境をまずは受け入れなければならないでしょう。そこにどのような友だち集団が存在しているか。ウィリアム・ジェイムズ・サディスのように母親によって「幼少期に友だち関係から切り離された」場合も含めて、その子を取り巻く生育条件や環境としての他の子どもたちの存在は多かれ少なかれ子の育ちに影響するのでしょう。サウスブロンクスの例にある友だち関係なら破滅の方に向かうでしょう。しかし、その後に訪れたケースでは「環境を変えることで性格や行動に劇的な変化が生じ」ることが証明されています。どんな友だちが存在する環境を子に提供するか、親による住居環境の選択は決して過小評価されてはいけませんね。まぁ、たいていは仕事の都合だったり、家族の都合だったりで、育ちゆく子の環境は異なってくるのでしょう。できれば善い環境を子どもたちに提供できる、そのために親たちが自分たちの生活や仕事を捉えなおす必要が時にあるのかもしれません。

  2. 高校でたった一人の黒人であったラリーの学業や部活の成績などには驚きました。学校に一人ということが裏目にでるのではとも予想していましたが、その学校の教師や白人学生の人柄の良さが伝わってきます。また、ウイリアムの一生は、残された私たちに教訓として肝に命じなくてはいけない重大な内容ですね。天才を生み出すための行いが、孤独で悲痛な人生を歩ませることにつながる可能性があることも理解しなくてはいけません。そして、「親が与える環境(友だち関係)が子どもの人生に決定的な影響を及ぼす」ことについて、子どもが自ら望んだ友だち関係をなくしてまでそれが必要であるということでしょうか。子どもにとって何が良いのか、この価値観は現代で大きく変化していることがわかります。

  3. 最後の文章がやはりと言いますか、強くインパクトを与えてきます。そのように考えると、親は実は絶大な影響を与えることができるのではないかとさえ、思いました。ウィリアムのような例は親の影響の絶大さを物語りますね。子どもが自分から関わっていた友だちとの関係をなくしてまで手に入れなければならない能力であったのか、そんな能力があるなら、どんな能力であるのか…。考えさせられます。その子に何が必要でどんな環境を整えてあげればいいのか考えるのが大人の役割であるように思いました。やはり、原点に立ち返った、そんな印象です。

  4. 所属する集団の重要性を感じられる内容ですが私はそれよりも、高校生という多感な時期に白人だけの集団に放り込まれ、また白人たちはいきなり全く人種も肌の色も違う人間がやって来て、よく集団内に入り込めたなと感じました。もちろんラリーの人柄や努力、才能もそれを助けた要因の一つなのでしょうが、ひとつ間違えればひどいいじめが起きてもおかしくはない状況だと思います。これはある程度学があり経済的にも裕福な集団内に入ったから成し得たことだったのでしょうか。

  5. 一昔前なら誰にも知られなかったようか細やかな悪事でも、今では全て見つけ出されてしまうような時代です。朝テレビをつけると、ニュース番組もSNSで取り上げられたことが取り上げられていて、話題の拡散が凄まじいスピードで行われていることを感じます。そう思うと、朝から晩までSNSに繋がっているような毎日は、ある意味ではいつでも誰かと繋がっているような毎日で、朝から晩まで人間関係の中にいるような気がしてきます。それと遮断して生きることは現代的には少し難しく、天才と呼ばれる人もそこから逃れられないとするならば、人間関係という海原を泳いでいく術を身につけることがウィリアム・ジェイムズ・サディスのような生涯にならずに済むのとなのかもわかりせん。

  6. “ラリーが「変わった」のは、その高校でたった一人の黒人だったからです。もしも複数の黒人生徒がスラム街から転校してくれば、彼らはたちまちグループをつくって白人の生徒たちと敵対しようとするでしょう。”とあるラリーがなぜこのようになったか変わるには、同じカテゴリーになる、つまり、引き付け会う存在がするなかでは、変わることは難しいということがわかりますね。例えば、私たちがケンカばかりする子ども同士を引き離しても、遊びが似ていれば引き合うということになりますね。こうした社会の中で生きることによって生き方というものが変わることもありますが、親という存在だけでは、社会の一員として適応できない、親の子育て観が子育てではなく、子どもに必要な環境化に導くような支援をすることだと思います。
    過剰や放任など、子育てに対する様々なイメージが社会にはありますが、子どもにとっての必要なものはが、親以外との人とのつながりであることを感じます。

  7. 「親は無力だというのは間違いだと言います」とあります。子どもたちが集団を通すことで性格形成や人格形成をしていくというのであれば、その環境を操作できる親の影響というのはあるのだと思います。しかし、これが世間一般の直接的な親の影響というわけではなく、間接的な影響が子どもにはあるということが言えるのですね。そして、その影響というのは保育園や幼稚園、学校環境に携わる保育者や教育者にも同じことが言えるように思います。直接的に子どもたちに関わることに影響以上に、子ども同士の関わりや環境作り、園風土や園文化といったものが子どもたちに自然と伝わるというのがあるのだと思います。最近常々思うのが、人の集団における雰囲気というのは人にとても影響するのではないかと感じるときがあります。それは大人でもそうなのではないかと思います。ましてや、子どもたちはよりそういった雰囲気を察するようにも思います。子どもたちの環境を良いものしていくのを考えるときにどう見ていくことが必要なのかよく考えていかなければいけませんね。

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