固定担任制

現在の学校の状況を工藤氏はこう分析しています。担任が、学習面から生活面に至るまで、手取り足取り手厚く面倒を見ることがよいものとされ、昨今では、「丁寧な指導」「面倒見の良さ」をセールスポイントにする学校や教育委員会も少なくありません。しかし、大人が先回りをして、手をかけすぎて育てられた子どもの多くは、自立できなくなっていると言います。そして、自分では解決できない問題やトラブルに直面すると、うまくいかない原因を自分以外の周りに求め、安易に他人のせいにしてしまう傾向があるように思っていると言います。

固定担任は、自分の学級の生徒の人生すべてを背負っているかのような気負いがあり、「クラスの子どもに好かれたい」という気持ちが強くなります。その結果指導は必要以上に手厚くなると言うのです。彼は、それは中学校だけでなく、小学校においても学校規模と専科教員の配置次第で、「全員担任制」を実施できるのではないかと考えているそうです。

また、固定担任制を廃止すれば、「学級王国」と言われるような問題もなくなるに違いないと言います。一部の勘違いをした教員が強圧的な指導で子どもたちを支配することもなくなり、教育活動の透明性は高まります。不適切な指導や体罰も減るでしょう。加えて学級崩壊が起きるリスクも減ります。学級崩壊は、まとまりのあるクラスとないクラスとの格差が大きいときに起きやすいからだそうです。

この時に、一クラス一人担任における人数が決められています。公立学校の教員は「公立学校義務教育諸学校の学級編成及び教職員定数の標準に関する法律」によって、児童生徒40人(小学1年生のみ35人)につき教員一人が割り当てられています。一方、こうして割り当てられた教員を、どのように配置するかは、学校裁量にゆだねられています。麹町中学校では、1,2年生には各6人の教員が配置されており、その全員が、4つあるクラス担任という立場で、クラス運営に携わっています。加えて2人の非常勤講師が、授業を担当するだけでなく、クラス運営にかかわることができるようにしているそうです。

ここで「全員担任制」を進めるうえで大切なのは教員間の連携だと言います。どの学年も週に1回会議を行い、日常においてもコミュニケーションを取り合いながら、情報共有を図っているそうです。

次に起きたのは、運動会の「クラス対抗」を、誰もが楽しむために生徒自身が廃止をしたそうです。生徒たちが自ら考え、判断し、生徒会の中で話し合って廃止を決定したそうです。それも、「目的」を達成する「手段」として、適切ではないと生徒たち自身が判断したからだそうです。この時に、工藤氏は、生徒たちに体育祭について一つのミッションを示したそうです。それは「生徒全員を楽しませること」だったそうです。運動が必ずしも得意ではない生徒もいます。彼らも楽しめる体育祭とは何かを考えてもらったのです。

もし、運動会や体育祭の目的が「競争心を養う」ことや「運動能力の優劣をつける」ことにあるのなら、「クラス対抗」は適切な手段かもしれません。しかし、工藤氏は、そうした目的のもとで行うべきではないと思っています。「生徒全員を楽しませること」を最上位目的としているのです。これまでの学校教育では「規律」や「団結」が尊ばれ、チームが一丸となって何かを達成するといったストーリーに感動してきました。リスクの大きい組体操が、いまだに多くの学校で行われるのも、そうしたことの表れではないかと工藤氏は考えています。彼は、学校における体育の目的については、技能を高めることや競争心を養うことよりも、運動の楽しさを求めることの方が大切だと考え、スポーツは自分の人生を楽しませる、友達のようなものであってほしいと願っているのです。

評価のために

麹町中学校長工藤氏が取り組んだ改革の一つが、学校では当たり前だと思っていた宿題を全廃したことです。それによって、最も喜んだのは受験を控えた3年生の生徒だったそうです。それは「負担が減って楽になったから」ではなく、自分にとって重要ではない非効率な作業から解放されたからでした。自分の時間を、自分の考えで使えることの大切さについて、生徒たちは、敏感に感じ取っていたのだと振り返っています。

彼は、何より重要なのは、学校の中で学習すべき内容を理解できるようにすることだと言います。「やらされる学習」ではなく、生徒たちが主体的に学ぼうとする仕組みを整えることだと言うのです。宿題が子どもたちから自律的に学ぶ姿勢を奪わないようにしなければならないと考えているのです。

次の改革は、中間・期末テストなどの定期考査の全廃です。それは、彼は宿題と同様、目的を達成するための手段として適切ではないと感じたからでした。多くの学校が「中間考査」「期末考査」を法律や教育委員会規則等で定められているものではないのに行っているかというと、「通知表をつけるため」であることが多いのではないかと言います。しかし、本来は、「学力の定着を図る」ためのものでなくてはならないと考えます。そこで、定期考査をなくした代わりに。単元テストも行うことにしたのです。また、出題範囲が事前に示されない実力テストの回数を増やしたのです。生徒たちは、授業で学んだことを単元テストで確認し、理解しきれていない部分は、そこですぐに復習するようにしたのです。そして、単元テストに再チャレンジすることができるのです。

このようなシステムにすると、問題が起きます。それは評価です。仮に全員が満点をとったら、全員に5段階評価の「5」を与えることになります。しかし、工藤氏は、そうなっても問題はないと言います。そもそも現在の評価は、「相対評価」から「絶対評価」に切り替え、点数の序列ではなく、一人一人の到達度に応じて評価する方向に舵が切られているのです。

最近、中学校に限らず、日本の学校には「ある時点で評価する」仕組みが浸透しているそうです。専門性を高める場であるはずの大学ですら、前期・後期のテストを実施し、学生を評価しています。理由はやはり「評価」のためだそうです。工藤氏は、こんなことを続けているようでは、学生が社会で役立つ本物の専門性を高められないのではないかと考えています。日々の授業の中で、プレゼンテーションやディスカッションする様子を適切に評価するなどの仕組みを整え、学生の本質的な学びを促すべきだと考えているのです。

次の改革は、「固定担任制の廃止」です。「チーム医療」型の学年経営に変えていこうとするものです。麹町中学校では、2018年度から学級担任を固定せず、学年の全職員で学生の全生徒を見る「全員担任制」を採用しているそうです。生徒のサインを読み取るのが得意な教員、保護者対応が得意な教員、ICTの活用に長けた教員、様々な個性を生かし合うことができる学年運営に変えるということです。

この体制を参考にしたのが「チーム医療」だそうです。それは、患者にとって、最も適切な医療を行うために、心のケア、専門性の高い処置を行う病院の取り組みなのです。

最適な手段

なぜ、学校は、人が「社会の中でよりよく生きていけるようにする」という本来の目的を見失い、そこで行われている教育活動と実社会との間に乖離が起きているのかというと、「手段が目的化」してしまっているからだと工藤氏は言います。つまり、子どもたちに必要な力をつけるための「手段」であるはずの学習指導要領や教科書が「目的」となり、消化してこなす対象となってしまっているのだと言うのです。その勘違いは、よく見られる服装指導などにも見られると言います。そもそも、こうした「規則」は教師がそれほど一生懸命になって守らせる必要があるものでしょうか、教育の優先順位から考えて、上位に位置付けられるものなのでしょうか?と疑問を持ちます。

では、最適な「手段」をどう構築していけばいいのでしょうか?彼は、固定概念にとらわれず、上位の「目的」を見据えながら、最適な「手段」を見つけ出すことだと言います。工藤氏がこのようなことを言うと、よく麹町中学校だからできるのだとか、子どもの質、保護者の質がいいからできるのだと言う人がいます。しかし、彼は、全国、どこの学校でも取り組めること、取り組むべきことがたくさんあり、それは、あなたの学校でも必ずできることだと言うのです。

かつての学校は、時代の最先端にあり、教員もまた、社会の変化に最も敏感な人たちでした。また、教員の多くは教えるプロとして人材育成に長けて、子どもたちと共に、「組織」について考え、人を動かすことの難しさもよく知っている存在でした。今でもそうでなければならないと工藤氏は言います。

彼は、まず、目的と手段の観点から見直しを提案しています。そこで、ただ「こなす」だけになっている「宿題」についてです。その目的は、「子どもの学力を高めること」「学習習慣をつけること」と答える人が学校関係者、保護者に多く見られます。しかし、本当にその目的は達成されているのかと彼は問うています。

自ら学習に向かう力をつけて、学力を高めていくには、自分が「分からない」問題を「分かる」ようにするプロセスが必要ですが、多くの宿題においては、そのことが欠けているというのです。すでに分かっている生徒にとっては、宿題は無駄な作業で、わからない生徒にとっては重荷になっていると言います。

彼は、「分からない」ことが「分かる」ようになるためには、二つの作業が必要であると言います。一つは、分からないことを聞いたり、調べたりすることです。二つ目は、繰り返すことで定着させることだと言います。そして、定着させる方法は、自分の特性に合った方法を見つけることだと言うのです。そして、その適した繰り返しの方法こそが、その人の生涯を支えるスキルとなっていくと言うのです。

かねてから宿題の存在意義に疑問を持っていた工藤氏は、赴任2年目に、夏休みの宿題をゼロにし、その後、段階的に宿題をなくしていき、4年目には、全廃に踏み切るのです。そして、疑問や抵抗感を示す教員にはこう説明をします。「批判や誤解を恐れずに言えば、教員が宿題を出すのは子どもたちの『関心・意欲・態度』を測り、評価の資料とするためではないですか。もっと私たちは専門性を発揮しないといけない」と。

当たり前

最近、2014年から千代田区立麹町中学校の校長になった工藤勇一さんが話題になっています。彼は、現在は売れっ子で、各地で講演をして歩いていますが、初の著作である『学校の「当たり前」をやめた。』も話題になっています。この本のサブテーマには、「生徒も教師も変わる!公立名門中学校長の改革」とあります。この改革が話題になっているのは、その発想の転換だけでなく、公立校でもこんな思い切ったことができるのだということにアドロ来ます。たまたま私も千代田区の公立中学校、千代田区にある都立高校を卒業したこともあって、その改革に私の出身校を思い出すとともに、私の今の幼児教育への取り組みに似たものを感じます。また、ドイツので幼児施設での取り組みにも共通した考え方があるような気がしますその主なキーワードを取り出してみたいと思います。

彼は、それまで、山形県公立中学校教員、東京都公立中学校教員、東京都教育委員会、目黒区教育委員会、新宿区教育委員会教育指導課長を経験してきた中でこのような考え方を考え続けてきたと言います。いわば、現場の実践から、子どもの姿から考えてきたものなのです。その中で、大切にしてきた基本的な考え方を三つ本の「はじめに」に書かれてあります。

「目的と手段を取り違えない」「上位目標を忘れない」「自律のための教育を大切にする」です。そして、多くの学校で「当たり前」とされてきたことについて、見直しを続けてきたと言います。

まず、「目的と手段」の見直しの中で最初の問いかけです。「学校な何のためにあるのか」です。そもそもから考えようと言うものです。日々の教育活動の中で、「本来の目的」を見失っているように感じているのです。この答えとして彼は、『学校の子どもたちが、「社会の中でよりよく生きていけるようにする」ためにある』と考えています。そのためには、子どもたちは、「自ら考え、自ら判断し、自ら決定し、自ら行動する資質」を身につけていくことであり、それこそだ「自律」であるとしています。

これに対して今の日本の学校は真逆のことをしてしまっているように感じているそうです。手取り足取り丁寧に教え、壁にぶつかればすぐに手を差しのべる。けんかや対立が起きれば、担任が仲裁に入り、仲直りまで仲介する。このような状況は、私がよく講演の初めで例に出すシンガポールにおける親子の会話に見られるのと同じです。子「ねえ、お母さん、僕学校に友達がいないんだけど」、母「どうしてなの?」、子「うん、僕にもよくわからないんだ。」、母「そう。じゃあ、お母さんが明日学校に行って、担任の先生に話してあげるわね。」この会話は、どこかおかしくなりませんか?という問いかけです。お母さんは、子どものためだと思っているでしょう。しかし、それが本当に子どものためなのでしょうか?

工藤氏は、将来に夢や希望を持てない子どもが多いという調査結果や、理想と現実のギャップに嘆き、自暴自棄になっている若者の存在に対して、その一因に学校教育の根本的な問題があると考えているのです。それは、学校は、人が「社会の中でよりよく生きていけるようにする」という本来の目的を見失い、そこで行われている教育活動と実社会との間に乖離が起きているからだと言うのです。

シンガポールにおける参画

今年のドイツ研修では、ここ数年ドイツでの取り組みについて、どのような背景があるのか、また、どのような研究があるのかを考えてみました。その一つの特徴は、「オープン保育」です。それは、何をするのか、誰とするのか、どの部屋でするのかを大人が誘導するのではなく、どんな決まりも、どんな制約もなく、子どもが自由に選べる保育です。そこには、最近特に見直されている「自由遊び」の大切さが意図されているようようです。

次の取り組みは、「小さな科学者たち」という取り組みです。そのゾーンでは、子どもたちは簡単な科学実験を行います。それは、ゴプニックが提案しているように、子どもは乳児から科学実験を行おうとする存在であることが背景になるのでしょう。試行錯誤したり、工夫したり、失敗したり、さながら大人における科学者そのものであることを見出したのです。

最後は、「参画」です。参画は、大人が計画したものへの参加と違って、計画自体にも加わったり、企画から参加することです。その一つが子ども「選択」があるように思えます。ドイツでは、たとえば、遠足にどこに行きたいのかということで、まず代表が集まって候補地を出します。それを掲示して、すべての園児が、その中から自分が行きたい場所へ投票します。そして、どれが多かったということだけでなく、その結果について再度子どもたち同士で話し合いをしてけていしていくそうです。この参画という取り組みは、ドイツでは子どもの権利条約を批准することになって、その内容をどのように具体的に取り組むのかということから始まったそうです。

今週初めに訪れてシンガポールでの取り組みで、参画を取り入れたのが子どもたちの「選択」です。今までは、先生主導で、何で遊ぶのかを決めていたのを、子ども自ら何をして遊ぶのかを選択させることにしたと言っていました。そうすることで、子どもたちが好きなことを自由にできることで、生き生きとし、また、フラフラすること減ったと言います。

また、昼食も、子どもたちに量を選択させるようにしたそうです。その取り組みについて、保護者に説明するボードは貼ってありました。まず、選択を取り入れる前は、残菜が多いだけではなく、姿勢が悪く、マナーができておらず、楽しそうでなかったと言います。それは、子どもたちは食を与えられているという意識が強いのではないかということで、そこで、昨年は、まず、その日の昼食のメニューを当番の子が発表することにしたそうです。そして、すぐにミニバイキングには取り組めないだろうということで、まず、おやつの時に、子どもたちは空のコップだけをとりに行きます。そして、当番の子がピッチャーに入れて、量を聞きながらコップに注いでいくようにしました。すると、子どもたちはそれだけでも自ら食べようとする姿勢に変わっていったそうです。そして、その変わっていった子どもの姿を写真で保護者に掲示したのです。

今年訪れた際には、昼食を子どもの当番の子が量を聞きながら配膳をしていました。また、席も自由に子どもたちが決め、食べ終わった子たちは、自分が使った食器を片付けていました。このように子どもたちが一連の動作をスムーズに行えるように動線を考えているという説明がありました。

その取り組みは、他の子どもたちの姿にも影響を与え、いろいろな場面で自主的に取り組む子たちが増えたそうです。参画とは、そのような意味なのでしょう。

統計学者・実験家・哲学者

「赤ちゃんは統計学の達人」であることがわかりました。「赤ん坊は統計分析が得意だ」というのです。8カ月の赤ちゃんに主に白い玉が入った箱の中から数少ない赤い玉を取り出して見せると、赤ちゃんは確率的に起こりにくい結果に驚くことがわかったのです。赤と白の玉の割合を逆にするなど、設定を変えたさまざまな実験から、赤ちゃんは赤い玉に興味を持つなどというような別の理由は否定されているそうです。20カ月の子どもに緑と黄色のおもちゃを使って実験した場合、ある人が少ない色のおもちゃをたくさん取ると、子どもはその人がその色のおもちやを欲しがっていると考えるというのです。このようにして、赤ちゃんや幼児は科学者のように統計バターンを見つけ出し、そこから結論を引き出すことによって、周囲の世界について学んでいるのです。

さらにこんなことも付け加えています。「根っからの実験家」だということです。

4歳児は得られた手がかりから因果関係を理解するのがうまいようです。例えば、装置についた2つの歯車のうち一方が別の歯車を回しているかどうかを上手に探り当てることができるというのです。おもちゃで自由に“遊び”つつ、正しい実験と正しい理論の組み立てを行う子どももいます。積み木をある組み合わせで置くと高い確率で光る「ブリケット探知機」という装置を使った研究で、 4歳児が統計に基づいて装置の働き方を理解していることがわかったそうです。装置がそれまでにない予想外の反応をしても、きちんと考えることができたのです。それどころか、装置が積み木に対して変わった反応を示した場合には、子どもは大人よりも自由な発想で対応したのです。

もともとこの記事を書いたアリソン ゴプニックは、「哲学する赤ちゃん」(亜紀書房)を2010年10月に発行しています。この本は、当時随分と話題になり、私もこのブログで取り上げました。この本では、「哲学する」という言い方ですが、彼女は、実は、科学とは、統計や実験によって現象の因果関係の理解を修正しながら体系化してゆく作業であるのに対して、これと同じ意味で「子供(赤ちゃんや幼児)は科学者と同じやり方で学習する」という「理論理論」を2003年に提唱しているのです。

つまり、ヒトが科学する能力は、ひとりで生きられない長い幼児期間を生き抜くすべとして実装されたプログラムの延長であり、それにより人間の生活様式に画期的な変革がもたらされ未来を生き抜く科学知識が進化的にヒトに備わった、というのです。この内容が、サイエンスの中で要約されているのです。

赤ちゃんと幼児に関する発達心理学の研究は、この30年間に大きな進展がありました。ゴプニックは、これを「科学革命」と呼んでいます。これまで何も考えていない未熟な状態と考えられていた赤ちゃんや幼児が、実は統計や実験を理解し論理的に考える能力を持っていることが明らかになったのです。

ゴプニックは、著書「哲学の赤ちゃん」のサブタイトルとして、「子供たちの心が真実、愛、そして人生の意味について教えてくれるもの」ということで、幼児や幼児が自分たちの環境での実験を含め、科学者と同じプロセスを使ってどのように認知的に発達するかを探っているのです。

未完の大人?

幼い子どもは前頭前皮質の制御が不十分で、それが大きなマイナス面にも見えますが、実際のところ学習にはとても役立っているようだと言います。前頭前皮質は無意味な考えや行動を抑制するそうです。しかし、赤ちゃんや幼児は前頭前皮質による抑制がないため、自由に探索ができるのだろうとゴプニックは言います。子どものように創造的に探求し柔軟に学ぶ能力は、大人のように計画的かつ効率的に行動する能力と引き換えに失われていくと思われています。迅速な自動処理能力と余分な接続が取りはらわれた脳のネットワークなど、効率的な行動に必要な資質は、柔軟性など学習に役立つ資質とは根本的に相反するものなのかもしれないと言うのです。

過去の10年聞の研究で、幼年期と人間性についての新たな概念が生まれました。赤ちゃんや幼児は単なる未完の大人ではないということです。これは、いわゆる白紙論に対する否定的な見方です。それは、観察からだけでなく、脳のシナプスの数の過形成と刈り込みによっても明らかになってきているのです。このことをもう少し認識することが必要です。すなわち、赤ちゃんや幼児は、変化し、創造し、学び、探求するために、進化によって極めてみごとに設計されているというのです。このような能力こそが人間の本質で、人生の最初の数年間に純粋な形で表れるようです。私たちが人間として価値ある成果を成し遂げられるのは、かつて大人に依存する無力な子ども時代があったからだと言うのです。幼年期や子育ては、私たちの人間性にとって不可欠であるとゴプニックはまとめています。

この記事が掲載されている別冊日経サイエンスで、ゴプニックは「子どもの意外な“脳力”」について、キーコンセプトとしてこのようにまとめています。

赤ちゃんは、「実験し、分析しながら学んでいく」存在であるということです。その能力として、「赤ちゃんや幼い子どもは、心理学者の予想をはるかに超えた認知能力を持っている」ことがわかりました。例えば、他者の経験を想像することや、原因と結果の関係を理解することもできるのです。次に、「子どもは、科学者のようなやり方で世界について学ぶ」ようです。また、「実験したり、統計的な分析をしたり、観察した結果を説明するための理論を作り上げることもできる」ということもわかりました。そして、「人間は無力な幼児として過ごす期間が他の種に比べて非常に長い」のです。それは、「学習や創造に必要な脳の神経回路を築くために必要な期間として、進化の過程で設けられたのだろう」ということが明らかになっています。

また、この記事の中で、特に強調したいことを挙げています。

無知に見える赤ちゃんや幼児でも、科学者の予想を上回る学習能力を持っていることが明らかになってきました。また、赤ちゃんは奇抜で予想外の出来事を長く見つめます。そうした行動を観察すれば、予想していたことがわかります。

進化によって設計

別の子どもたちには「おもちゃの動かし方を教えるね。どういうときに音楽が鳴って、どういうときに鳴らないか見ていてね」と言って、先ほどとまったく同じ長い操作をやって見せました。それからおもちゃを鳴らしてと頼むと、子どもたちは“近道”をせずに、長い操作の全部を真似たのです。自分で見たことについての統計を無視したのでしょうか?おそらくそうではないとゴプニックは考えています。この行動はベイズモデルできちんと説明できると言います。彼らは「先生」が最も役に立つ操作を行うと予想したそうです。平たく言えば、もし先生がもっと短い操作を知っているのであれば、不要な操作を見せたりしないだろうという考えです。

脳が進化によって設計されたコンピューターだとすれば、非常に幼い子どもに見られる並外れた学習能力が進化した意味はどこにあり、どのような神経回路によって支えられているのでしょうか?この能力に関する最近の生物学的知見は、心理学的な研究結果とよく一致していると言います。

進化的に見て人間の最大の特徴の一つは、成熟するまでに非常に長い時間がかかることです。私たちの幼年期は他のどんな種よりも長いのです。なぜ赤ちゃんはこれほど長いあいだ無力で、大人の助けを必要としなければならないのでしょうか?

動物界全体を見ると、成体の知能と柔軟性は赤ちゃんの未熟さと相関しているそうです。ニワトリなどの「早成」種は特定の環境に適応する特殊な能力を生まれながらに持っていて、この能力に頼って生きているため成熟が速いのです。

一方、子が親の世話を必要とし、親から餌をもらわなければならない「晩成」種は、学習に基づいて生きています。例えば、カラスは1本の針金など初めて目にした物体を道具として使う方法を考え出すことができますが、カラスのヒナが親を頼る期間はニワトリよりもはるかに長いそうです。

学習には多くの利点がありますが、学習を成し遂げるまでは無力です。進化はこの問題を赤ちゃんと大人の間で分業することによって解決したようです。赤ちゃんは保護されているあいだ、他には何もせずただ周囲の環境について学ぶのです。成長してからは、学んだことを利用して生き延び、繁殖し、次世代を育てます。基本的に、赤ちゃんは学ぶようにできているというのです。

神経科学的にも、この学習を可能にする脳の仕組みの一部が明らかになってきたそうです。赤ちゃんの脳は大人の脳よりも柔軟だと言われています。ニューロン間の接続は赤ちゃんの方がはるかに多いのですが、きちんと機能しているものはありません。しかし、時間とともに使われない接続が除かれ、役立つ配線が強化されていきます。これが、過形成と刈り込みです。また、赤ちゃんの脳には接続変更を容易にする化合物が豊富にあるそうです。

人間には前頭前皮質と呼ばれる特有の脳領域があり、成熟にはとりわけ長い時間がかかります。この脳領域がつかさどる集中、計画、効率的な作業といった大人の能力は、幼年期の長期にわたる学習に基づいて育まれます。この領域の配線は20代半ばまで完成しないこともあるそうです。

確率論的モデル

子どもが本当の科学者のように意図して実験や統計分析を行っているわけではないことは明らかですが、子どもの脳は科学的発見をするのと同様の方法を無意識に使って情報を処理しているに違いないとゴプニックは考えています。認知科学では、脳は進化によって設計され、経験によってプログラムされるコンピュークーのようなものだという考え方が基本としてあるそうです。

情報工学や哲学の分野では、科学者や子どもの強力な学習能力の解明に向けて、数学の確率的な概念を取り入れ始めたそうです。機械学習用のコンピュータープログラム開発のためのまったく新しいアプローチとして、「確率論的モデル」が使われているそうです。このモデルは、「べイズモデル」とか「べイズネット」とも呼ばれているそうですが、あまり聞きなれない言葉ですね。しかし、このプログラムは複雑な遺伝子発現の間題を解くこともできるし、気候変動の理解に役立っこともあるようです。この手法によって、子どもの脳内コンピューターがどう働くのかについて新たな概念が生まれたと言われています。

確率論的モデルでは2つの基礎的な考え方を組み合わせます。まず、子どもが物事や人、言葉に関して持ちうる仮説を数学的に表します。例えば、因果関係についての知識を事象と事象とを結んだ図で表すことがてきます。「青いレバーを押す」から「アヒルが飛び出す」に矢印をひけば、仮説を表現できます。

次に、仮説と各事象が起こる確率とを体系的に関連づけます。事象が起こるパターンは科学では実験や統計分析から導かれます。データによく合う仮説がより高い可能性を持つのです。ゴプニックは、子どもの脳はこれと同じような方法で、周りの世界についての仮説を確率パターンと関連づけていると考えてきたそうです。子どもの推論の仕方は複雑かつ鋭くて、単純な関係や規則では説明できないと言うのです。

さらに、子どもが意図せずにこうしたベイズ統計解析をしているとき、異常な事例を考慮に入れるという点では大人よりもむしろ上手なようだと考えているようです。ゴプニックたちは、これから学会で発表予定の研究で、4歳児と大人にプリケット探知機を見せました。この装置の動かし方は少し変わっていて、 2個の積み木をいっしょに置く必要があります。その方法を探り当てるのは、大人より4歳児の方がうまかったそうです。大人はそれまでの知識に頼りすぎて、目の前の装置はそれに当てはまらないことを示しているのに、普通そんな動き方はしないと考えてしまうからのようです。確かに、このような刷り込みは真実を曲げ、本質を見つけるのにも邪魔なものになる可能性があります。それは、さまざまな点で思い当たりますね。

ゴプニックのチームが最近行った別の研究では、子どもは教えられているいると思うと自分の統計分析を変えてしまい、その結果として創造性が低下する場もあることがわかったそうです。実験者は4歳児に正しい一連の操作をすれば音楽が鳴るおもちゃを見せました。例えば、ハンドルを引いてから球状部を握るといった操作をすればよいのです。

何人かの子どもに「私はおもちゃをどうすれば音楽が鳴るのかわからない。みんなで調べてみよう」と言って、少し長い一連の操作をいくつか試して見せました。長い操作の最後に行う短い操作によって、音楽が鳴る場合と鳴らない場合があるようにします。さあ、おもちゃを鳴らしてみせてと言うと、多くの子どもが必要とされる短い操作だけを試し、自分で見た統計に基づいて不要だと思われる部分をちゃんと省いていたのです。

世界の仕組みを知る

別の実験で、ゴプニックは、現作はマサチュ一セッツ工科大学にいるシュルツとともに、スイッチが一つと上部に2つの歯車(青と赤)がついたおもちゃを4歳児に見せました。スイッチを入れると歯車が2つとも回るという簡単なおもちゃなのですが、どのようにして歯車が回るのか、さまざまな可能性が考えられます。例えば、スイッチが入ると両方の歯車が回転するのかもしれませんし、スイッチで青い歯車が回転し、それによって赤い歯車が回るのかもしれません。

ゴプニックたちは子どもたちに、こうした動き方を描いたイラストをいくつも見せました。例えば赤の歯車が青の歯車を押している図です。次に、そのうちのある方法で動くおもちゃを見せ、それがどう動いているかを示すやや複雑な手がかりを与えました。例えばこの因果連鎖おもちゃの昔の歯車を取り除いてからスイッチを入れても赤の歯車は回りますが、赤の歯車を取り除いてからスイッチを入れると何も動きません。

次に、子どもたちにそのおもちゃに合った動き方のイラストを選んでもらいました。4歳児は、ゴプニックたちが見せた手がかりに基づいて、驚くほど上手におもちゃの動き方を当てることができたそうです。さらに、何の説明もなくおもちやを渡された子どもは、歯車が動く仕組みを探るように遊んでいたそうです。その様子はまるで実験をしているみたいだったそうです。

シュルツは別の実験で、アヒルか人形が飛び出す2つのレバーがついたおもちやを使いました。未就学児のグループに、一方のレバーを押すとアヒルが出て、もう一方を押すと人形が出るところを実演して見せました。別のグループには、両方のレバーを同時に押すと両方のおもちゃが飛び出すのを見せましたが、レバーを別々に押すとどうなるかは見せませんでした。それから子どもたちをおもちゃで遊ばせました。

最初のグループの子どもたちは2番目のグループの子どもたちに比べ、おもちゃで遊ぼうとしなかったそうです。おもちゃがどう動くかをすでに知っていて、仕組みを探ることにあまり興味がなかったからだと考えています。ところが2番目のグループは謎に直面したため、自発的におもちやで遊び、どのレバーが何をするのかをやがて探り当てたそうです。

これらの研究結果から、子どもたちが自発的に、“ものすごく熱中して”遊んでいるときは、因果関係を調べたり、実験を行ったりしていると考えられると言うのです。実験は世界の仕組みを知るための最良の方法だとゴプニックは言います。

子どもたちのこうした特性を知って、科学ゾーンに取り組むべきでしょう。単に、早期教育だとか、また、何かを教えるような科学では意味のないことを知ります。ただ、子どもたちのこうした試行錯誤は、一人で黙々と集中して取り組むときと、皆でわいわいと言いながら取り組むときとでは、身につくものが少し違う気が私はしています。それは、個人差があるのでどちらがいいかということは言えませんが、今までの研究や、取り組みに、子ども同士が知恵を出し合うことの意味が少ないようです。しかし、“助っ人理論”ではありませんが、社会に出てそれは大切なことだと思うのです。特に、私たちの先祖であるホモ・サピエンスは集団の中で、知恵を出し合って道具を進化させていったのです。