親の目、教師の目

ディーター‐デッカードとプロミンの研究同様、アヴシャロム・カスピとテリー・モフィットが中心となって実施した二つの研究も母親と教師がデータを提供しています。父親の在不在、反社会的活動についても、子どもが虐待されているか否かも、すべて母親が回答しています。母親はまた子どもの日ごろの素行に関する問題や反社会的活動を評価するアンケート用紙も記入しました。教師も同様のアンケート用紙を記入しました。しかしここで研究者たちが二つのアンケートをどのように処理したのかに注目してもらいたいとハリスは言います。母親と教師による子どもたちの反社会的活動に関する報告は合算され、まとめて一つの反社会的活動スコアとして扱ったのです。

研究者たちは母親と教師による報告を別々に表示するのではなく、一つにまとめてしまったそうです。そのため、発表された報告書からは、不適切な活動に従事する父親の存在もしくは家庭内での身体的虐待が家庭内での子どもの行動に影響を及ぼしたのか、それとも学校での行動にも影響したのか、知る由もありません。それどころか、子どもの家庭内での行動についても疑わしいのです。というのも、その情報は、父親の反社会的な活動に関する情報と、子どもの過去の虐待に関する情報の提供者と同じ人物から得られたものだからです。二つの異なる質問に同一人物が回答した場合、ほとんどの場合、二つの回答の間に相関関係が見られます。この反応の偏向について以前ハリスは論じています。教師の回答に加えてもなんら解決にはならないと言います。もし教師による回答が学校での行動になんら悪影響を与えていないことを示していても、母親の回答と合算されていては、その結果を見出すことはできるなくなるからです。研究者たちはこの重大な欠陥を弁明するつもりで、一つの研究では教師と母親の評価の間に相関関係が認められたと発表したそうです。その相関関係は、五歳児で0.29、七歳児で0.38だったそうです。しかし、こうしたささやかな相関関係は、単に評価対象となった行動に及ぼした遺伝子の影響かもしれません。子ともが持つ素因遺伝子によるもので、それらは家庭から学校へ、またその逆へと継承されるものだとハリスは考えています。ディーター‐デッカードとプロミンの研究ではこの点は問題になりませんでした。なぜならきょうだい間では素因遺伝子が異なるとは考えられないからだそうです。

2000年に出版されたとても重要な本があるそうです。12年を費やした研究をまとめた一冊です。その研究を行なったのが、家族療法を専門とする精神科医であるディヴィッド・レイスと、行動遺伝学者であるジャネイ・ナイダーヒーサーと、発達心理学者であるE・メイビス・ヘザーリントン、そして行動遣伝学者であるロバート・プロミンだそうです。対象となったのは、10歳から18歳までのきょうだい720組です。彼らはみな両親の揃った安定した家庭で育てられたきょうだいですが、中には親が再婚した継きょうだいもいたそうです。さらには一卵性、二卵性双生児も含まれていました。すなわち被験者同士で共有する遺伝子の割合は一卵性双生児の場合の100パーセントから継きょうだいの場合のゼロまでということになります。

親の目、教師の目” への5件のコメント

  1. 研究手法の問題が今回のブログでは取り上げられていますね。「研究者たちは母親と教師による報告を別々に表示するのではなく、一つにまとめてしまったそうです。」とハリス女史は指摘します。私たち臥竜塾ブログによってハリス女史の課題認識と従来研究への批判を読んできた者にとっては指摘の意味がよくわかります。統計データの命は相関関係の指数であり、有意性でしょう。しかし、そこには如何なる手法にもとづいたものであったか、ということは殊の外重要です。「その相関関係は、五歳児で0.29、七歳児で0.38だったそうです。しかし、こうしたささやかな相関関係は、単に評価対象となった行動に及ぼした遺伝子の影響かもしれません。」ということになりますね。家庭と学校は環境としてまずは別である、という認識を持つ必要があるでしょう。よく学校での姿を「家庭環境」のせいにすることがあります。遺伝的なものを考えるということなら当てはまるところもあるのでしょうが、わが子の姿を見ても家と学校とでは言動や振る舞いも違うだろうに、と思ってしまいます。

  2. 親と教師の意見を分けずにひとまとめにした結果からは、得られる情報が減ってしまう印象がありますが、そこも研究の予算などの制約があるのでしょうか。何を知りたいかにもよりますが、どこにお金をかけてどのような対象者を被験者にするのかは当然のように大切であることがわかります。そして、家庭内での聞き取りに関して、なぜ母親のみに行ったのかも疑問です。当時は父親の育児参加率は低いという現状があったのでしょうか。子どもを取り巻く環境は広いということが、研究を難しいものにしていることが想像できました。

  3. 家での姿と外での姿が異なるという話題に触れ続けてきたからでしょうか、いつの間にかその姿こそが当たり前で、とても自然な子どもの姿だと思うようになっていることにある時ふと気付かされます。そんな風に子どもの仲間集団を気にかけながら、家と外と、両方で子どもについて考えさせられる毎日は、実体験と実践が一度に詰まっているようで、振り返れば掛け替えのない毎日なのだろうと思えてきます。今日も朝、長男を小学校へ向かう通学路まで送り出し、すぐに友だちと合流し、するとさっきまでの長男は姿を消し、どこか強気な態度で学校へ向かっていくのでした。臥竜塾ブログに触れ続けてきたからこそ、その姿をとても自然に受け入れられるのだろうと思いました。

  4. 子どもの姿として、家の中と外では違うことが自分の中では常識として認識されているので、今回の研究の失敗が安易であったことを自分は認識できました。その研究によって何が知りたいのか、ということにもよるところですが、家庭と家庭外とでは姿が違うことを理解していることで、得られる結果は違うものになるということなんでしょう。そこから導き出される結論としては、やはり「連携」ということになるのでしょうか。
    自分が父親だからということもあるのでしょうが、家庭内での子どもの姿を母親だけに求めたということにも疑問がわきます。母親からみた子どもの姿と父親からみた子どもの姿でも、また違う結果が得られるのではないかと、自分の夫婦間での息子たちについての話しから思うところです。

  5. これまでのブログの内容を見ていても、家庭での姿と外での姿は違うということがありました。そのため、ハリス氏が言う「研究者たちは母親と教師による報告を別々に表示するのではなく、一つにまとめてしまったそうです。」というようなことが起きてしまうと正確な影響のデータというのは見いだすことは難しくなってくるでしょうね。子どもたちの問題行動を考えていく中で、つい現場においても家庭環境の影響を考えてしまうことがあります。家庭環境が保育現場での子どもの姿に影響が出ているかというと、そうではないのでしょうし、やはり家庭での様子と園での様子は違っていることは多いです。しかし、実際は「それはそれ、これはこれ」というように家庭環境と園環境を混同して考えてしまいがちです。ある意味で、家庭に責任転嫁してしまっている部分もあるのでしょうね。そして、その反面、保護者も園での様子について「家では違う」という言葉を聞きます。なかなかこういった考えはお互いになくなるのは難しいのでしょう。しかし、だからこそ、こういった研究をもとに考える視点を変えていくことが必要なのでしょうが、研究においても、保育現場や教育現場においても、必要なのは一人一人の子どもにどう焦点を当てて、本質を見ていくかという洞察力が求められますね。

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