行動と性格

行動と性格は数百もの遺伝子が複雑に絡み合うことで生まれるもので、その解明はまだまだ先の話のことのようです。現在の技術では一度にわずかな遺伝子がもたらす影響を調べるのがやっとだそうです。たしかに興味深い結果が得られるかもしれませんが、ある行動に影響するであろう遺伝子、そしてその組み合わせをすべて統制することにはならないのです。

第二に、研究者は常日頃から人間とは状況に非常に敏感であることを認識しておかなければならないと言います。子どもの学校での行動が特定の環境変数や介入による影響を受ける、という仮説を検証する場合、その研究は子どもの学校での行動を偏りのないように測定する構成になっていなければなりません。子どもの母親に聞き取り調査を行なうのは好ましくないと言います。もし聞き取りが子どもの家で行なわれるのであれば、そこで子ども自身に聞くのもあまりよくないとハリスは言います。仮に実験室で行なわれたとしても、もし母親が実験室まで同行し、そのままその場を離れなければ、家庭内外の行動、もしくは感情や態度の区別がつきにくくなると言うのです。実験室であっても親が近くにいて、他に子どもがいなければ、そこは学校というよりも家庭に近くなると言うのです。

いずれにしても実験室のような非日常な環境は、集団社会化説に基づく予測を検証するには好ましい設定ではないとハリスは言います。ハリスは次のように述べていました。「子どもたちは過去の社会的状況で学んだ事柄を引きずりながら新しい状況に向かうわけではない。現状に即した新しい行動パターンを身につける準備はしっかりできているのだ」と言うのです。とはいえ、新しい行動を習得するには時間がかかります。突然慣れない実験室に座らされた子どもはその設定のもとでどのように振る舞うべきなのか。それを考える暇もなく、過去に身につけた中でもっとも適切と思われる行動をとるしかなくなるのです。母親が同じ場所にいれば、その言動は家庭内で身につけたものになる可能性が高いとハリスは指摘します。母親がいなければ、学校での言動となるでしょう。新しく、不確かな状況は、研究者が気づかないほどの徴妙な変化でも何らかの形で結果を左右することを意味します。ハリスの主張は日常的な状況下での言動を対象としていると言います。

さらにハリスはもう一つ注意事項を加えています。それは、子どもの行動についての情報提供者はほかの情報を提供したり、他の目的で研究に参加したりするべきではないと言うのです。子どもの攻撃性を評価する教師と攻撃性の高い生徒への対処法を学んだ教師は別々でなければならないと言うのです。毎週訪問看護師によるカウンセリングを受けた母親は、このカウンセリングが子どもにとって有益となったかどうかを判断する立場にはありません。非行や麻薬への強い関心について聞かれたティーンエイジャーに両親にどのように扱われてきたのかを聞くべきではないと言うのです。さらにハリスはいうまでもなく、この種の研究は遺伝子の影響を統制する必要もあると言います。両者が共有する遺伝子は親とティーンエイジャー、両者の行動を左右するからです。

行動と性格” への6件のコメント

  1. 家庭は家庭、学校は学校でしょう。そして親と一緒にいる時と親がいない時では子どもの振る舞いが異なる、これも道理です。そもそも子どもは社会の一員であります。そしていわゆるTPOを弁えている存在だと思うのです。子ども侮るべからず。いずれにせよ、親と一緒いると子どもは家庭モード。親と一緒でなければ、社会モード。親と一緒にいる幼児は挨拶を恥ずかしくてしないことがあります。我が子もそうでした。ところが、およそに行く、あるいは親と一緒でなければ、一人の社会人です。立派だなと思うことさえあります。人間が社会的存在であるのは、乳幼児の頃からであることがわかります。遺伝子の影響。「現在の技術では一度にわずかな遺伝子がもたらす影響を調べるのがやっとだそうです。遺伝子研究は今後ますます注目されていくことでしょう。楽しみな研究分野ですね。

  2. ある子どもが知らない場所に連れてこられ、いつもとは異なる状況であっても、物事に対処する行程では「考える暇もなく、過去に身につけた中でもっとも適切と思われる行動をとるしかなくなる」とありました。その人の本質は、不測の事態にどんな対応をするかにあると感じていますが、それを図るための研究室であるということでしょうか。しかし、ハリス氏の主張する「実験室のような非日常な環境は、集団社会化説に基づく予測を検証するには好ましい設定ではない」という見方もあり、日常的に行っている姿の中にこそ本質があるようにも感じましたが、どうなのでしょうか。

  3. 研究やデータについて懐疑的になってみる、ある説について目の前の子どもたちの姿と照らし合わせてみる、そういった現場を中心とした中で生まれる子ども推敲、保育推敲による子ども観、保育観がこれから先、より尊ばれていくのだろうと想像します。見守る保育 Fujimori methodもハリス氏の主張も、実際の子どもたちの姿を実際の場所で見続けた中に生まれた子ども観、保育観であり、それが机上の空論になってしまわない実質を伴った保育理論たる理由であることを改めて思います。

  4. 少し違う話かもしれませんが、人間の中には自分もそうだと思いますが、練習ではできるが、本番となると極度の緊張から実力が出せないタイプがいますよね。なので、結果が伴わず過小評価されてしまう。そんなタイプの人間からすれば〝実験室のような非日常な環境は、集団社会化説に基づく予測を検証するには好ましい設定ではない〟というのには大いに賛成です。
    ですが、震災時や危機的状況などの非日常でのとっさの判断はその人なりが出てくるということも分かります。〝考える暇もなく、過去に身につけた中でもっとも適切と思われる行動をとるしかなくなる〟とあります。どちらもその人の本質になるのでしょうか。

  5. 人間、特にこどもというのは本当に環境の変化に敏感ですよね。親がいるか、馴れ親しんだ大人がいるか、いつも過ごしている場所か、などにより行動や性格が180度変わってしまいます。人見知りや場所見知り、ひどい子だと物見知りをする子もいますね。人見知りは身を守るためにすると言いますが逆にそういったものがほとんどない子というのはなぜなのでしょうか。これも遺伝子とやらが働いているからなのでしょうか。興味はつきません。

  6. 行動と性格と遺伝子要因と環境要因の関係、未だ難しく、まだ消化しきれないところが多々あるのですが、一つ一つ理解していこうと思います。しかし、家庭と学校という外と内とでは子どもの様子は大きく違いますし、人によって性格や関わり方も使い分けているという部分は理解できるところです。そのため、「子どもたちは過去の社会的状況で学んだ事柄を引きずりながら新しい状況に向かうわけではない。現状に即した新しい行動パターンを身につける準備はしっかりできているのだ」というのはとても分かりやすいですね。つねに新しい行動パターンを身につける準備のために過去の状況パターンにおける事柄を使うのですね。最近では小1プロブレムや中学生ショックというように状況変化によって子どもたちがショックを受けることに問題が起きています。それは子どもたちがその新しいパターンを身につける経験値がないからなのかもしれません。だからこそ、今できる保育や教育環境の中でどうすればいいのか考えさせられます。

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