知能への影響

今日の西洋社会では、もはや長子相続制は死に絶え、子どもたちがきょうだいと過ごすのは、ほぼ家庭内だけに限られるようになっているようです。家庭の外では、子どもたちは同年代の仲間とともに過ごすのです。家庭では兄の支配下におかれる弟も、仲間集団では優勢な地位に就く場合があります。きょうだい関係で育まれた行動様式は、移民の子どもにとっての親の言語と同様、玄関から出るときには家に置き去られてしまうのです。

おそらく長子相続制の時代には、出生順位による影響も実在していたのだとハリスは思っているようです。サロウェイの本に登場する歴史的データはそのように解釈できるのかもしれないと言います。性格に関する有効な測定値をを対象とした最近の研究では、出生順位による影響は認められていませんし、とるに足りないものであるとの結果が得られているのです。カー・ショーラーは自身の論文を「出生順位による影響―今ここには存在しない!」と題したそうですが、それは正しい判断だったとハリスは言うのです。

では知能への出生順位による影響はあるのでしょうか。IQにおいては第一子が優勢であるという主張が周期的に発表され、その都度注目を浴びてきました。しかしハリスはまだ納得できないと言います。もし第一子が実際により賢いのであれば、学業成績は第二子以降より良いはずですが、実際にはそうではありませんし、大学進学率が高いわけでもないのです。幸いにも、この特定の論争がどう決着しても、ハリスは、自分にとってはなんら得にも損にもならないと言うのです。ハリスの仮説は性格と社会的行動に関するもので、IQについては語っていません。性格が出生順位による影響を受けることはないのです。なぜなら家庭内で身につけた行動パターンは一度家からできると無効になるからです。対照的に、家庭内で身につけた事実情報および認知能力はどこにいっても役に立つのです。

ハリスは再度「性格と出生順位」について述べています。よほどその時にその議論がまことしやかに語られていることに対してハリスは憤り、順にきちんとその反対理論を説明していったのです。これは、その関係性についての是非論だけでなく、多く語られていることに対する再考の必要性と、言い伝えの危うさというものを教えてくれている気がします。育児論については、何度か新しい考えが提示されてきました。そして、それが、流行かのように広まったものもありました。しかも、それは新しい考え方でもあるにもかかわらず、昔からそうだった、ずっとそうだったという言い方で、あたかもそれが真理のような言い方をするものもあります。

そんな時に私に教えてくれたのは、著名な研究者の研究でもなければ、過去の偉大な研究者でもなく、子ども自身の姿でした。私は、ハリスと違って、過去の研究を再考するというよりも、子どもの姿をじっと眺めることにしたのです。そして、職員からの子どもの姿の報告を検討することにしたのです。そこでは、常識と言われているものにも、刷り込まれているものにも惑わされず、子どもの姿を観察することにしたのです。そして、そこで感じたことを、他の現場の園長、職員に話してみたのです。すると、実践をきちんとしていた人たちから共感されたのです。

ハリスも、様々な他人からの批判や否定に屈せず、新しい考え方を発表しました。それは、児童発達に関する仮説を検証したものでした。

知能への影響” への5件のコメント

  1. 出生順位にしても家庭環境にしても、子どもにとって一時期その影響があることは否定しがたいと思うのです。しかし「家庭内で身につけた行動パターンは一度家からでると無効になる」。これは本当です。わが身をもってこのことを実感しました。私たちはどうやら所与の環境になるだけ適応しようと、従来のやり方を割とすっぱりと変えていけるようです。園児の様子をみていてもそれがわかります。親と離れるときは、この世の終わりか、と思えるような泣き声。しかし、少し時間が経つと、あの時のあの泣き様、あれはいったい何?と思えるほど静かになり、自分がやりたいことにいそしんでいます。今回は久々でまとまった藤森語録に接することができました。曰く「子ども自身の姿でした。・・・常識と言われているものにも、刷り込まれているものにも惑わされず、子どもの姿を観察することにしたのです。」保育にはまず子どもの姿から知り得たことをベースにする必要があると思っています。保育に迷ったら、子どもの姿に訊け、ですね。

  2. 「きょうだい関係で育まれた行動様式は、移民の子どもにとっての親の言語と同様、玄関から出るときには家に置き去られてしまう」というように、家を離れれば、逆に家とは別の役割を担おうとする傾向があるかもとも思います。不思議ですね。しかし、自ら様々な役割を経験しているようにも感じます。そして、「そんな時に私に教えてくれたのは、著名な研究者の研究でもなければ、過去の偉大な研究者でもなく、子ども自身の姿でした。」という言葉にはしびれます。様々な研究がその過程において都合の良い方にされてきたという事例から、何を信じれば良いのかと感じていましたが、私たちが観察し、考え、信じていかなくてはならないものがはっきりしました。

  3. 生きてきた時間の中で、多くの刷り込みを得てきました。得るは捨つるなり、と聞いたことがありますが、向上するということは、得てきた刷り込みを無くしていくということなのかと思うと、人生の面白さを感じます。赤ちゃんと高齢の方の相性の良さというのも、こういったところにあるのかもわかりません。
    多くの刷り込みから解かれた脳は、真実や真理ととても近付くことができるのでしょう。学ぶことの楽しさを改めて感じます。

  4. 自分たちはこれまでの人生の中でたくさんのことを教わり、たくさんのことを学んできています。その過程において、合理的であったりする理由はあるのかもしれませんが、「刷り込み」と呼ばれているものも得ています。〝常識と言われているものにも、刷り込まれているものにも惑わされず、子どもの姿を観察することにした〟とありましたが、この言葉だけだと簡単なようですが、これはとても難しいものだと感じています。なぜなら、これまでの学びで刷り込まれているから。
    自分たちは何を信じて何について考えていかなければならないのか、ということを考えました。

  5. 子供は小さいから、未発達だから、そもそも子供だからやってあげようという考えはいったいいつどこからやって来たのでしょうね。現在二歳の担任を持っている私ですが、先日の父親保育でどれだけ保育に携わらない人が二歳の子供というものにたいして、どうせできないだろう、と思っているかを痛感しました。服を着るのも、ご飯を食べるのも、そしてお話をするときもどれだけ小さな子を相手にしているつもりなのだろうと何度思ったかわかりません。しかしそれが今の普通で、私もこの仕事でこのクラスを持っていなければ二歳の子供がどれだけ出来るかを知らなかったかと思うとなにかゾッとします。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です