友だち関係

子どもはみんな、友だちグループのなかで目立てるように、自分が得意なことをやろうとします。それはスポーツだったり、歌や踊りだったり、勉強だったりするかもしれませんが、そうした才能は遺伝の影響を強く受けていると言います。

しかしハリスは、こうしたことを言うからといってから遺伝決定論ではないと言います。子どもの成長には「友だち」が決定的な影響を与えると繰り返し強調しているのですから。

複雑系では、わずかな初期値のちがいが結果に大きく影響します。「プラジルで蝶が羽ばたくとテキサスで竜巻が起こる」のがバタフライ効果だそうですが、人格形成期の遺伝と環境の関係もそのひとつだというのです。

スポーツが得意でも、友だちグループのなかに自分よりずっと野球の上手い子がいれは、別の竸技(サッカーやテニス)が好きになるでしょう。たいして歌が上手くなくても、友だちにいつもほめられていれば、歌手を目指すようになるかもしれません。最初はわずかな遺伝的適性の差しかないとしても、友だち関係のなかでそのちがいが増幅され、ちょっとした偶然で子どもの人生の経路は大きく分かれていくというのです。

小さな子どものいる親は、「子育ては子どもの人格形成にほとんど影響を与えない」というハリスの集団社会化論を受け入れ難いかもしれないと橘は言います。しかし自分の子ども時代を振り返れば、親の説教より友だちとの約東のほうがずっと大事だったことを思い出すのではないだろうかと言います。

このことをわかりやすく示すために、ハリスは乳児期に離れ離れになった一卵性双生児の姉妹を例に挙げているのを橘は紹介しています。私は、この例もある意味で衝撃だったために、記憶に残っています。

2人の遺伝子はまったく同じですが、成年になったとき、1人はプロのピアニストになり、もう1人は音符すら読めなかったというものです。養母の1人は家でピアノ教室を開いている音楽教師で、もう一方の親は音楽とはまったく縁がなかったと聞くと、それは当たり前の話だと思うでしょうが、実は、子どもをピアニストに育てたのは音楽のことなどなにも知らない親で、音符すら読めないのはピアノ教師の娘だったのです。

2人は一卵性双生児で、1人がプロのピアニストになったのですら、どちらもきわめて高い音楽的才能を親から受け継いでいたことは間違いありません。家庭環境や子育てが子どもの将来を決めるのなら、なぜこんな奇妙なことが起きるのでしょうか。

ハリスによれば、子どもは自分のキャラ(役割)を子ども集団のなかで選択するというのです。音楽とはまったく縁のない環境で育った子どもは、なにかのきっかけ(幼稚園にあったオルガンをたまたま弾いたとか)で自分に他人とちがう才能があることに気づきます。彼女が子ども集団のなかで自分を目立たせようと思えば、無意識のうちにその利点を最大限に活かそうとするでしょう。音楽によって彼女はみんなから注目され、その報酬によってますます音楽が好きになります。

それに対して音楽教師の娘は、まわりにいるのは音楽関係者の子どもたちばかりだから、すこしくらいピアノがうまくても誰も驚いてくれません。メイクやファッションのほうがずっと目立てるのなら、音楽に興味をもつ理由などどこにもないというのです。

友だちの世界

親よりも「友だちの世界」のルールを優先することが子どもの本性だとすれば、「子どもはなぜ親のいうことをきかないのか」という疑問にはなんの意味もないと言います。逆に不思議なのは、宗教や味覚のように「親のいうことをきく」ものが残っていることだというのです。

ハリスは、「親が影響力を行使できる分野は、友たち関係のなかで興味の対象外になっているものだけだ」と考えました。特殊な場合を除いて、子どもたちは友だちの親の宗教に関心を持ちません。同様に、豚肉やニンジンを食べないとしても、それだけで仲間はずれにされることもありません。グループの「掟」は、食べ物の好き嫌いとは無関係なのです。

どのような友だちグループにも、内(俺たち)と外(奴ら)の境界があります。女の子ならおしゃれやファッション、男の子ならゲームやスポーツ、あるいは喧嘩や非行についての暗黙の掟によって、仲間か仲間でないかが決められていくのです。

子どもは友だち集団のなかで、グループの掟に従いつつ、役割(キャラクター)を決めて自分を目立たせるという複雑なゲームをしているのです。子どものパーソナリティ(人格)は、遺伝的な要素を上台として、友だち関係のなかでつくられていくのだというのです。

このように考えてはじめて、別々に育てられた一卵性双生児がなぜよく似ているのか、その理由がわかるのです。

子どもは、自分と似た子どもに引き寄せられます。一卵性双生児は同一の遺伝子を持っているのですから、別々の家庭で育ったとしても、同じような友だち関係をつくり、同じような役割を選択する可能性が高いでしょう。遺伝と友だち関係が同じなら、その相互作用によって瓜二つのパーソナリティができあがったとしてもなんの不思議もありません。

ハリスの集団社会化論は発達心理学に大きな衝撃をあたえましたが、”主流派”のなかにはいまだに子育ての重要さを説くひとたちも多いようです。

それはすべての親が、自分の努力は報われるという「子育て神話」を求めているからでもあると言います。ハリスが発見した“子どもの本性”だけが、「別々の家庭で育った一卵性双生児は、なぜ同じ家庭で育ったのと同様によく似ているのか」という疑間に明快にこたえることができるのです。

1998年、ハリスは満を持して「子育ての大誤解」を上梓しました。この本を書くようにハリスを後押ししたのは著名な進化心理学者・言語学者のスティーブン・ピンカーで、彼の推薦もあって同書は書評などで大きく取り上げられ、高い評価を得ました。

その後ハリスはアメリカ心理学会賞を授与され、研究者としての「名誉」を回復することになるのです。その賞は、かつてハリスを“研究者失格”と見なしたハーヴァード大学心理学部長ジョージ・ミラーの名を冠したものだったのです。

橘氏は、彼の著書「言ってはいけない―残酷すぎる真実」の中で、最後の2章にわたってアメリカの在野の心理学者ジュディス・リッチ・ハリスを紹介しています。12作用は、彼女の集団社会化論を取り上げていますが、13章では、子どものパーソナリティ(人格)は遺伝的な適性と友だち関係との相互作用のなかでつくられるという主張を取り上げています。

グループのルール

年齢や性別、人種などの異なる幼児をひとつの部屋に集めると、彼らはすぐに仲良くなって遊びはじめます。しかし子どもの人数を増やしていくと、そこに自然とグループができていきます。それはおおよそ、次のルールに則っていると言います

①年齢:幼児は自分よりすこし年上の子どもになつき、年の離れた子どもには近づきません。年長の子どもも、自分たちより少し年下の子どもは仲間に加えますが、それより下の子どもは無視します。これは年齢によって遊び方が異なるため、年が離れていると面白くないからです。

②性別:思舂期になれば恋愛感情や性の欲望が芽生え、男女の関係は複雑化しますが、それ以前は男の子と女の子のグループに分かれ、お互いのことには興味を持たないのがふつうです。これは性別で好き嫌いや興味が異なるためで、男女で同じ遊びをしてもつまらないのです。

③人種:アメリカのような多民族社会では、子どもの数が増えると、人種別にグループができます。そのためどの保育園・幼稚園でも、大人が介入して人種混交のグループをつくらなければならないのです。これは人種差別のイデオロギーによるものではなく、子どもが「自分と似た子どもに引き寄せられる」からです。このような性向が埋め込まれた理由は、自分に似ている子どもが兄や姉、血縁の近いいとこである可能性が高いことを考えれば明らかだろうと言うのです。子どもたちは、自分に似た子どもを優先的に世話しようとするのです。

進化適応環境では、子どもたちは男女に分かれて年齢のちかいグループをつくり、年上の子どもが年下の子どもの面倒をみることで親の肩代わりをします。思春期を迎えるまでは、この「友だちの世界」が子どもにとってのすべてなのです。

このように考えれば、子どもの成長にあたって家庭による子育ての影響がほとんど見られない理由がわかります。「友だちの世界」で生きるために親の言葉すら忘れてしまうなら、それ以外の家庭での習慣をすべて捨て去ってもなんの不思議もありません。

こうしてハリスは、「子どもが親に似ているのは遺伝によるもので、子育てによって子どもに影響を及ばすことはできない」と主張したのです。「子育てに意味はないのか」と全米で大論争を巻き起こしたのも当然だと橘氏は言います。

ヒトは社会的な生き物で、群れから排除されてしまえば生きていく術がありません。古今東西、どんな社会でも「村八分」は死罪や流刑に次ぐ重罪とされました。これは子どもも同じで、「友だちの世界」から追放されることを極端に恐れるのです。

勉強たけでなく、遊びでもファッションでも、子ども集団のルールが家庭でのしつけと衝突した場合、子どもが親のいうことをきくことはぜったいにありません。どんな親もこのことは知っているでしょうが、ハリスによってはじめてその理由か明らかになりました。子どもが親に反抗するのは、そうしなければ仲間はずれにされ、「死んで」しまうからだというのです。

親の代わり

進化適応環境では、母親は新しく生まれた赤ちゃんに手がかかりますから、授乳を終えた子どもを以前と同じように世話をすることができません。旧石器時代の生活環境がどの程度厳しいものだったかは諸説あるそうですが、集落の近辺で木の実などの採集をするのも女性の仕事でしたから、子育てに割ける時間は限られていたでしょう。こうした条件を考慮すれば、授乳期を終えた子どもは、親の世話がなくても生きていけるようあらかじめプログラムされているはずだと、ハリスは考えたのです。

もちろん、2歳や3歳の子どもが自分一人で生きていけるはずはありません。親が新しく生まれた弟妹の世話をしなければならないのなら、誰かがそれを補わなければなりません。旧石器時代のひとびとは部族(拡大家族)の集落で暮らしており、それができるのは兄姉か、年上のいとこたちしかいないのです。私は、それは、異年齢で構成された子ども集団であると考えたのです。

女の子が人形遊びを好むのは世界のどこでも同じです。これはフェミニズムの文脈で、男性中心主義的な文化の強制によるものと説明されてきましたが、ハリスは、人形は赤ちゃんの代替で、女の子は幼い弟妹の世話を楽しいと感じるのだと考えたのです。男の子も、人形遊びはしませんが、弟や妹をかわいがるのは同じだというのです。

これに対応するプログラムは、世話をされる側にも組み込まれているはずです。

幼い子どもは親以外の大人を怖がるものの、年上の子どもにはすぐになつきます。彼らが親に代わって自分の世話をしてくれることを知っているのです。それは、そのようなプログラムを持っているのです。このことを根拠に、私の園で新年度新入してきた幼い子どもに、園に慣れてもらうために、年長さんに相手をしてもらうのです。

進化適応環境においては、授乳期を終えた子どもは集落の一角で、兄姉やいとこたちといっしょに長い時間を過ごしていたはずだと言います。こうした状況を現代の移民の子どもたちに置き換えてみれば、なぜ彼らが母語を忘れてしまうかを明快に説明できるというのです。

両親は、母語を話そうが話すまいが、食事や寝る場所など最低限の生活環境を提供してくれます。子どもにとって死活的に重要なのは、親との会話ではなく、自分の面倒を見てくれるはずの年上の子どもたちとのコミュニケーションなのです。

ほとんどの場合、両親の言葉と子どもたちの言葉は同一ですから問題は起きませんが、移民のような特殊な環境では家庭の内と外で言葉が異なるという事態が生じます。そのとき移民の子どもは、なんの躊躇もなく、生き延びるために、親の言葉を捨てて子ども集団の言葉を選択するのです。

ハリスは、「子どもはなぜ親のいうことをきかないのか」という慰問を、発達心理学の膨大な文献を読み込むとともに、養子を含む自らの子育て経験も合わせ、子どもにとって「世界」とは友だち関係のことだと考えたのです。

受け継ぐ味覚

言語とともにハリスが注目したのは宗教です。

アメリカはキリスト教の国で、ピューリタン(プロテスタント)の移民の子孫である白人だけでなく、黒人やヒスパニックもほとんどかクリスチャンです。それにもかかわらず、イスラーム圏からの移民の子どもたちはムスリムになり、キリスト教への改宗はほとんどないそうです。これは、親の宗教を子どもがそのまま受け継ぐからです。

橘は、ハリスは指摘していませんが、同じことは味覚にもいえるのではないかと言います。

以前、ハワイ在住の友人にホノルル郊外の料理人はすべて日本人という本格的な日本料理店に連れて行ってもらったことがあるそうですが、その店は観光客が集まるワイキキからは離れた住宅街の中にあったそうです。たまに日本の駐在員などがやってくるそうですが、客のほとんどは日系アメリカ人の2世、3世、4世だといいます。彼らは日本語をひと言も話せず、考え方も行動も完全なアメリカ人ですが、それでも「母親の味」を求めて日本料理店にやってくるそうです。

移民の子どもたちはたちまち英語を習得して母語を忘れてしまいますが、宗教や味覚は親の影響を強く受けているというのです。このちがいはいったいどこにあるのでしょうか。

現代の進化論では、私たちのこころ(意識や行動)は進化適応環境( Environment of Evolutionary Adaptedness/EEA)に最適化されていると考えています。これは遺伝的な変異がきわめてゆっくりとしか起こらないためで、現代人の遺伝子は旧石器時代の人類とほとんど変わりません。そう考えれば、私たちは遺伝的に、200万年以上つづいた旧石器時代の環境に最適化されているはずだというのです。

子育ての大切さが強調されるようになったのは、核家族化が進み、教育が将来の成功を左右するようになった近代以降です。それ以前の子どもたちは大家族で育ち、親は教育のことなど気にかけていませんでした。

ハリスは子育て神話を、「科学的根拠のないイデオロギー」として退けています。赤ちゃんは、旧石器時代の進化適応環境を生き延びるための戦略プログラムを持って生まれてく

ると考えました。両親と子どもだけの核家族で育ち、幼稚園・保育園で幼児教育を受け、小中高校から大学まで勉強しつづけるようつくられているわけではないと言います。

ヒトが他の哺乳類と大きく異なるのは、無力な乳幼児期がきわめて長いことです。生後すくなくとも1年間は、母親が集中的に養育し、授乳しないと死んでしまいます。そうなると母親は、次の子どもを得るまでにまた10カ月の妊娠期間を必要とします。

母親は出産までに大きなコストを支払っていますから、すなわち投資をしているのですから、生まれた子どもをできるたけ大切に育てようとします。進化論的にいえば、これが母親が子どもに強い愛情を抱く理由です。

しかしその一方で、その子どもには兄や姉がおり、授乳期間が終わればまた妊娠できますから、兄弟姉妹の一人だけ手間をかけるわけにはいきません。母親の進化論的な最適戦略は、できるだけ多く子どもを産み、成人させていくことです。旧石器時代は、というより近代以前は乳幼児の死亡率がきわめて高かったのですから、1人か2人の子どもにすべての子育て資源を投入する核家族型の戦略はあり得ませんでした。日本でも戦前までは、兄弟姉妹が10人ちかくいるのが珍しくなかったのです。

氏と育ち

「わたし」をかたちづくる要因には「遺伝」と「環境」があります。遺伝率は双生児の研究などによって統計的に推計可能で、それによって説明できない部分が「環境」です。そして、環境のなかで、お互いを近づけるものを「共有環境」、遠ざけるものを「非共有環境」と呼びます。一卵性双生児でこの関係を示すと、「わたし=遺伝○+共有環境○+非共有環境×」ということになります。

ここで○はお互いを近づける力、×は遠ざける力です。人格形成においてこれ以外の要素がないという意味で、「遺伝」「共有環境」「非共有環境」の3つが「わたし」をつくっているということになるのです。これは定義の問題で、「わたし」から「遺伝」を引いたものが「環境」、「環境」から「共有環境」を引いたものが「非共有環境」です。

双生児研究によれば性格の遺伝率は35~50%で、「氏が半分、育ちが半分」という諺の正しさを示しているように思えます。一卵性双生児は遺伝子が同じで、同じ家庭で育てられたのですから、とてもよく似ているのです。遺伝子が同じで、同じ家庭で育てられたというのは、遺伝と環境を共有しているということです。

これはわかりやすい理屈ですが、しかし、双生児の研究が進むと大きな壁に突き当たっ

たのです。それは、生まれてすぐに文化や宗教、しつけの方法がまったく異なる外国に養子に出された一卵性双生児も、同じ家庭で育ったのと同様にとてもよく似ているのです。遺伝率50%とは、残りの半分は環境で決まるということです。しかし、彼らは家庭環境を共有していないのですから、彼らがよく似ているのは「家庭以外の環境」の影響だと考えるほかはないのです。これはいったいどう言うことでしょうか。これがハリスの問いだったと橘氏は言っているのです。そこから橘氏はハリスの「育児の大誤解」の本の中からハリスの主張を引用しています。ですから、私が何日にもわたってこの本の紹介をしている部分と重なりますが、橘氏はその中でどの部分が言ってはいけない真実だと挙げているのでしょうか?

まず、移民の子どもたちが流ちょうに英語を話していることに対してハリスが不思議に思ったことを挙げています。これは実は、行動遺伝学の見地から見ても奇妙なことなのです。子どもは親から母語を学びます。そのため言語性知能の遺伝率は他の知能に比べて際立って低く、14%だそうです。それに対して共有環境の影響は58%と極めて高いのです。それに対して、論理的推論能力などほかの知能には共有環境の影響は見られないそうです。

それにもかかわらず、移民Ⅰ世の子どもたちは、ごく自然に英語を話すようになり、母語での読み書きを忘れ、親との会話にも英語を使うようになるそうです。そして、これはアメリカだけの現象ではないのです。在日韓国・朝鮮人の家庭を何度か訪れたことがあるそうですが、子どもが日本の学校に通っていた場合、親が母語で話しかけても子どもは日本語で対応していたそうです。

学校では英語(日本語)で授業が行なわれるのですから、こんなことは当たり前だと思うかもしれませんが、移民の子どもたちは、就学前から現地の言葉を話すようになるのです。本当に教育の影響だけなのでしょうか。

市井の研究者

「言ってはいけない―残酷すぎる真実」(新潮社)という本の中で著者の橘 玲氏は、小タイトルを13章に分けて書いています。その最後の2章分は、ジュディス・リッチ・ハリスの理論にについて書いています。彼は、実はこの本の前に幻冬舎から出版された「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」の中でもハリスの記述を引用しているそうです。彼はそれに関してこう述べています。

「これは“わたしはなぜ「わたし」になったのか”という問いを考えるうえで、市井の研究者である(そのための専門家のあいだでじゅうぶん評価されているとは言えない)ハリスの集団社会化論は繰り返し紹介する意義があると考えたからです。」

その動機は別として、私ももっとハリスの考えを親の育児に対してだけでなく保育に影響をさせていくべきだと考えています。

橘氏は、まずハリスのおかれた境遇について紹介しています。

ハリスは在野の心理学者であるという紹介をしています。彼女がどうしてそのような立場であるかというと、彼女がハーヴァード大学で心理学の修士号まで取得したものの博士課程で落とされ、研究者の道を絶たれたからだと言います。これは、私が紹介したことですが、その後の人生をこのように紹介しています。そのうえ彼女は39歳の時自己免疫疾患の難病を発症し、それ以来ずっと闘病生活を続けてきたのです。ほとんどは自宅で過ごし、月に何回か近所の図書館まで歩くのがやっとだったそうです。

そのうえ彼女は歳のときに自己免疫疾患の難病を発症し、それ以来ずっと闘病生活

を続けてきた。ほとんどは自宅で過ごし、月に何回か近所の図書館まで歩くのがやっと

だったそうです。しかしハリスは、研究の夢を諦められなかったそうです。病気のため心理学の実験を行なうことも、学会に出席することもできませんでしたが、彼女には、当時、誕生したばかりのインターネットがあったのです。

自宅でさまざまな学術論文に目を通し、研究者たちにEメールで質問します。そんな自

己流の「研究」をつづけていたハリスが興味を持ったのか、「非共有環境」の謎だったのです。

ここで、橘氏は行動遺伝学の用語である「共有環境」について説明をしています。知能や性格、行動など「わたし」をかたちづくる要因には「遺伝」と「環境」があります。遺伝率は双生児の研究などによって統計的に推計可能で、それによって説明できない部分が「環境」なのです。兄弟姉妹にも、似ているところと似ていないところがあります。これは、環境のなかにお互いを近づけるものと遠ざけるものがあるからです。これを「共有環境」「非共有環境」と呼びます。

兄弟姉妹で言葉づかいが似ているのは、遺伝の影響に加えて同じ家庭で育ったからです。

これが共有環境の影響で、一般には子育てのことをいうそうです。しかし、同じ家庭で育った一卵性双生児でも、見分けがつかないくらいそっくりになることはありません。どんな子どもでもすべての環境を共有するわけではないからです。

転換点

最後に、ハリスは、研究者たちは次に述べる重大な違いを認識するべきだと言います。

・集団からの受容と、その集団内での地位は違うものです。

・集団からの受容と集団内での地位は、友情とも異なります。かろうじて集団に受けいれられている子どもでも、また集団内での人気度が低い子どもでもしっかりとした友情に結ばれていることがあります。

・集団に属することで分化にも同化にもつながります。社会化は同化がもたらしたものであり、一方、個人の性格は主に分化によって形成されます。

ジュディス・リッチ・ハリスは、「子育ての大誤解」という書物の中で、主に社会化を取り上げています。それは、社会化はたしかに重要だからです。しかし、それでもまだ全体の半分にすぎないと言うのです。

このハリスの考え方は、最初は随分と迫害にあったそうです。Wikipediaによると、ハーバード大学の心理学部長ジョージ・ミラーは、1960年にハリスの「独創性と独立性」がハーバードの基準に合わないとして、ハリスを博士課程から除籍したのです。しかし、1995年にこの理論は、基礎心理学における傑出した著作としてアメリカ心理学会からジョージ・ミラー賞を受賞する論文の基盤となったそうです。この賞は、皮肉にもハリスをハーバードから除籍したジョージ・ミラーの業績をたたえて作られた賞なのです。その後、彼女の理論は、心理学に様々な波紋を広げ、スティーブン・ピンカーはハリスの考え方を記した「子育ての大誤解」が「心理学史において転換点と見なされるようになるだろう」と予測しているそうです。

ハリスは子どもの発達について、家族よりも子ども集団に焦点を当てた新しい理論を提唱しただけでなく、私には様々なことにいろいろと示唆を与えてくれます。たとえば、多くの心理学の研究は、実践室内での子ども観察で行われることが多いのですが、ハリスは、実験室のような非日常な環境は、集団社会化説に基づく予測を検証するには好ましい設定ではないと言っているのです。さらに、実験室内は、非日常的環境というだけでなく、多くの子どもは子ども集団の中での行動に意味があるのです。それは、その研究は、大人になった時に社会の中で生活するためのスキルを研究するものですから。ハリスがスキナー派のハトとの研究の時に指摘したように、人間は、社会の中で、集団で生活する種ですから。

また、仲間集団内での分化による長期的な影響を研究しようとする場合でも、こんなことを指摘しています。「小中高で同級生の中でも年長だった人と年少だった人との間には性格上の違いがみられるはずだと言うのです。多くの州では幼稚園人園の際に生年月日が区切られますが、それにより一番の年長児と年少児の間では一年近い差ができます。」ここでは、生年月日で区切られることに疑問を持っています。

「育児の大誤解」の著作を翻訳した石田理恵は、あとがきでこんな紹介をしています。

2016年に出版された「行ってはいけない―残酷すぎる事実」(新潮新書)の帯封には、「遺伝、見た目、教育に関わる“不愉快な現実”」と書かれてあります。この本の中に、ハリスの主張が2章にもわたって取り上げられているそうです。それは、内容が斬新的というだけでなく、時期も問題だとしています。「子育ての大誤解」が出版されたのは1998年、日本で翻訳出版されたのが2000年という年月から16年余りのちになってセンセーショナル的に取り上げられているからです。

行動と性格

行動と性格は数百もの遺伝子が複雑に絡み合うことで生まれるもので、その解明はまだまだ先の話のことのようです。現在の技術では一度にわずかな遺伝子がもたらす影響を調べるのがやっとだそうです。たしかに興味深い結果が得られるかもしれませんが、ある行動に影響するであろう遺伝子、そしてその組み合わせをすべて統制することにはならないのです。

第二に、研究者は常日頃から人間とは状況に非常に敏感であることを認識しておかなければならないと言います。子どもの学校での行動が特定の環境変数や介入による影響を受ける、という仮説を検証する場合、その研究は子どもの学校での行動を偏りのないように測定する構成になっていなければなりません。子どもの母親に聞き取り調査を行なうのは好ましくないと言います。もし聞き取りが子どもの家で行なわれるのであれば、そこで子ども自身に聞くのもあまりよくないとハリスは言います。仮に実験室で行なわれたとしても、もし母親が実験室まで同行し、そのままその場を離れなければ、家庭内外の行動、もしくは感情や態度の区別がつきにくくなると言うのです。実験室であっても親が近くにいて、他に子どもがいなければ、そこは学校というよりも家庭に近くなると言うのです。

いずれにしても実験室のような非日常な環境は、集団社会化説に基づく予測を検証するには好ましい設定ではないとハリスは言います。ハリスは次のように述べていました。「子どもたちは過去の社会的状況で学んだ事柄を引きずりながら新しい状況に向かうわけではない。現状に即した新しい行動パターンを身につける準備はしっかりできているのだ」と言うのです。とはいえ、新しい行動を習得するには時間がかかります。突然慣れない実験室に座らされた子どもはその設定のもとでどのように振る舞うべきなのか。それを考える暇もなく、過去に身につけた中でもっとも適切と思われる行動をとるしかなくなるのです。母親が同じ場所にいれば、その言動は家庭内で身につけたものになる可能性が高いとハリスは指摘します。母親がいなければ、学校での言動となるでしょう。新しく、不確かな状況は、研究者が気づかないほどの徴妙な変化でも何らかの形で結果を左右することを意味します。ハリスの主張は日常的な状況下での言動を対象としていると言います。

さらにハリスはもう一つ注意事項を加えています。それは、子どもの行動についての情報提供者はほかの情報を提供したり、他の目的で研究に参加したりするべきではないと言うのです。子どもの攻撃性を評価する教師と攻撃性の高い生徒への対処法を学んだ教師は別々でなければならないと言うのです。毎週訪問看護師によるカウンセリングを受けた母親は、このカウンセリングが子どもにとって有益となったかどうかを判断する立場にはありません。非行や麻薬への強い関心について聞かれたティーンエイジャーに両親にどのように扱われてきたのかを聞くべきではないと言うのです。さらにハリスはいうまでもなく、この種の研究は遺伝子の影響を統制する必要もあると言います。両者が共有する遺伝子は親とティーンエイジャー、両者の行動を左右するからです。

声の高低

移民の子孫の中には成長後に「変わった」訛りで会話をする人がいます。その原因はいくつか考えられます。まれにですが、社会的な障害を抱えている可能性があります。自閉症の子どもたちは自らを仲間の一員として見なすことができないため、親の訛りを引き継ぐことがあると思われます。より多く見受けられるのが、単純にその人が同じ地域からの移民が多く住む地域で育ち、在籍する学校に通った場合です。このような環境では子どもたちは二つの言語を同時に操ることになります。すなわち仲間とも二つの言語を共有するのです。仲間も同じ訛りを使っているので自分もそうするのです。

訛りを使いつづけるもう一つの理由が年齢です。移住の際にすでに13歳から19歳だった人たちはおそらく母国の訛りを完全に失うことはないだろうと言います。しかし、その境界線は人により異なり、なぜそうなのかはまだ解明されていないそうです。言語に関しては天性の才能を持っている人もいれば、模倣がうまい人もいて、いくつになっても新しい訛りを習得することができるのかもしれないと言うのです。12歳でアメリカに渡り、昔のアクセントを使い続ける人がいる一方で、大学生になってアメリカに到着し、流暢なアメリカ英語を話す人もいます。肉体の成熟度と関係はあるのでしょうか。もしあるとすればその境界年齢は男性より女性の方が若くなるのでしょうか。

もう一つ疑問に思う興味深い現象があるとハリスは言います。世界の中には男女でわずかだそうですが、異なる訛りが存在する地域があるのそうです。男子の集団は女子と比べて、親が聞くと「下層階級」の訛りだと感じるそれを話すことが多いことを発見したそうです。男子は自分が属する社会経済的階級の大人が操る訛りが、気が抜けていて女っぽいと感じるのではないかと思っているようです。

男子は女っぽいと思われるのを嫌います。子どもの会話を聞いていると、本人の姿が見えなくても話しているのが男子か女子か大抵聞き分けることができます。声変わりする前でも男子のほうは声が低いのです。学童期における男女の声の低さの違いは生理学的に想定される幅よりもはるかに大きいようです。集団社会化説によると、声の高低は学童期において男女別のグループが構成され、その中で社会化を果たすことによって生じると考えられています。

集団社会化論説に基づく声の高低に関する学説の中には検証が可能なものもあるそうです。男子校の生徒および女子集団とほとんど接点がない男子は共学校の男子よりも声が高いそうです。さらに共学校の男子は学校では家庭で使う声よりも低い声を使うのだそうです。この研究の結果は、面白いですね。

第一に、研究を行なう際には、実験結果から遺伝的な影響を除外する、もしくは統制する方法論を導入しなければならないと言うのです。必ずしも双子もしくは養子縁組によるきょうだいの研究でなくてもいいと言います。すでに見てきたとおり、遺伝子の影響を統制する方法は他にもあるのです。しかしながら、課題の中には行動遺伝学的な手法以外の方法では説明がつきにくいものも多いようです。理論的には全被験者のゲノムの配列を分析することで遺伝子の影響を直接統制することができます。ところが今はまだそれが可能になるような次元ではないと言います。