遊び友だち

親は子どもを制するべき存在です。親こそ主導権を握らなければならないのだとハリスは言います。ところが今日では、その権力を行使することを躊躇しすぎるため、家庭を効率よく運営するのが難しくなってきているようです。この親の躊躇は育児アドバイザーに強要されたものなのですが。

今日の子どもたちの状況は子育て神話によって親が臆病者と化してしまう前の状況よりも安泰だとはハリスは思っていないと言います。前世代の経験は、子どもたちに自分が宇宙の中心だと思わせなくても、もしくは命令に背くと最悪タイムアウトが待っているなどと理解させなくても、十分に社会に適応した子どもを育てることができることを立証してくれていると言うのです。親は子どもよりも分別があるのですから、子どもに指示を出すのに遠慮など無用だと言います。親にだって幸せで平和な家庭を送る権利はあるのです。

伝統的な社会では、親が遊び相手になるようなことはありません。親は遊び仲間ではないのです。親が子どもたちを楽しませるなんて伝統的社会では言語道断なのです。「大切な時間」の説明を試みようものなら笑い転げるに違いないとハリスは言います。

クリントン政権で労働長官を務めた政治経済学者のロバート・ライシュが政府職を辞して、マサチューセッツの自宅に戻った理由の一つは、12歳と16歳になる二人の息子たちともっと一緒に過ごしたいからというものだったそうです。ところが、彼が思い描いていたようにはなりませんでした。

「“大切な時間”について書かれていることなど忘れたほうがいい。ティーンエイジの男の子たちはそのようなものを欲してもいなければ、それを活用することもできない。他にやりたいことがたくさんあるのだ。ビル・クリントンの閣僚を辞して自宅に戻り、週末を空けて、息子のいずれかが一緒に大切な時間を過ごそうという私の誘いに乗ってきてくれるのを待った。“親父、ごめんよ。一緒に観戦に行きたいけど、ディヴィッドとジムの三人でスクエアに行く約束しててさ”“その映画、おもしろいらしいよ。でも親父あのさー、正直言うと行くならダイアンと行きたいんだよな”」

息子たちは完全に彼を避けていたわけではありません。時には彼に意見を求めたりもしたし、それで彼の気持ちも和らいだこともありました。息子たちは彼を傷つけようとしたわけではないのです。父親は好きだけど…といった感じだとハリスは言います。

幼い子どもたちはティーンエイジャーと比べたら、容易に誘いに乗ってきます。しかし、それは、自分たちだけでどこかへ出かける自由があまりなく、選択肢が限られているからなのかもしれないと言います。もし別の選択肢があれば、幼児でさえも他の子どもたちと行動をともにするほうを選ぶかもしれないと言うのです。もっともその場合でも親には見える範囲にいてもらいたいと思うのですが。

私の園に見学に来た人が、5歳児が保育者と一緒に遊んでいない姿を見て、こう子どもに聞いたそうです。「君たちは先生と遊ばないの?」その答えは、「うん、別に遊ばない。」という答えでした。そこで「先生と一緒に遊びたいと思わないの?」と聞いたところ、「友達の方がいいもん!」と答えたそうです。私は、そのような子どもたちのほうが正常な発達のように思えるのですが。ただ、その時には、何か起きた時に、いつでも飛んできてくれる大人が、呼べば聞こえる距離にいることが大切ですが。

遊び友だち” への7件のコメント

  1. ロバート氏の事例は面白いですね。親は子どもとの時間を取ることが「良い親像」としてある一方で、子どもの素直な意見というのは、親との時間ではなく友達とのつながり、又は社会とのつながりを自ら欲している。そのような発達が通常の発達ということであれば、親や社会はそれをもとにしたデザインをする必要があるのですね。「伝統的な社会では、親が遊び相手になるようなことはありません」という言葉にもありましたが、現代では大人の役割というものが不明確になりつつあるのかもしれません。やりがいを求めて意欲的に社会に貢献しようとする姿、困難なことにも積極的にトライしようとする姿、お金を稼いで生活に必要なものを購入する資金調達など、子どもではできない役割を担う責任を感じました。

  2. そうです、ティーンエイジャーは親といるより友だちといるか、あるいは一人でいたほうがいいらしいのです。親にとって子はいつでも子どもで、だから「大切な時間」という親の気持ちもわからなくはないのですが、子どもにとっては親の気持ちは友だちとの関係より優先はしないようです。「伝統的な社会では、親が遊び相手になるようなことはありません。親は遊び仲間ではないのです。」私と親との関係はまさにこれでした。親と遊んだ経験を全く思い出せません。親とキャッチボールをやったとか、親と一緒に遊園地に行って遊んでもらったとか、そうした経験はありません。ところが、わが子が小学生の低学年の頃までは一緒に出掛けたり、公園で遊んだり、自転車に乗る練習に付き合ったり、健気な父親をやっていました。今となっては良い思い出です。園の子どもたちが先生とより他の子たちと遊ぶほうがいい、というのはいいですね。「そのような子どもたちのほうが正常な発達のように思えるのです」私もそう思います。

  3. 大人は子どもと遊んであげるもの、これも刷り込みですね。保育者をそういう存在と捉えている人も多いのではないでしょうか。そう考えると、保育者によく問われる、子どもをどれだけ把握しているか、このことにも同じような刷り込みがなされていることに気付かされます。
    こういった刷り込みがなぜされるのか、そう考えた時に保育者の社会的地位の低さが根底にあるのではという気がしてきてしまいます。サービス業のような、子どもを預かる場所の管理人のような、そういった間違った観念からどうしても多くの人が抜け出せないのは、日本が教育にかけるお金が圧倒的に低いことからも、上から脈々と流れてきているものなのではないかと思えてきてしまいます。

  4. 自分も経験しているので、ティーンエイジャー時代の親からの奉仕は余計なお世話的なものであることは理解しています。ですが、その考え方は幼い子どもにも同じことが言えるのかもしれないというのは新鮮な考え方でした。ですが、確かに、小学生になった長男は自分で同じクラスで近所の子と遊ぶことを好むようになり、一人で遊びに行くことも増えました。少しずつ、大人の手を離れていっているのが実感としてあります。よく保育士だと言うと「子どもと遊ぶのが上手?」「あやすのが得意?」という質問を受けますが、自分は申し訳ないのですが、それほどでもありません。そのような刷り込みがされていることを感じてしまいます。現場にいると、子どもは大人と遊ぶもの、というのはそれと同じような刷り込みであるように思いました。

  5. 現在二歳児のクラスを担任している私ですが、夕方保育などで上の年齢のクラスにはいることがあります。そうすると決まって何人かの子供がわたしを囲んでお話をはじめます。このような姿を見たとき、子供は実は先生と遊びたがっているのではないか?と思っていました。しかし別の日、いつも私のもとへ来る子が別の場所で遊んでいるのを見かけ、様子を見ていましたが、私に関心を示すどころかむしろ邪魔者扱いされてしまいました。その時、私のもとへ来る子は私と話をしたいというよりもただやることがないから来ているだけなんだと気づきました。私たち保育士の仕事はそういった子をいかに遊びに、そして集団にそれとなく促すことなのかなと最近思っています。

  6. 最近の子どもたちは子ども同士で遊ぶよりも大人と遊ぶことを求める子どもはいますね。もちろんそうでない子どものほうが多いのですが、「子育て神話によって親が臆病者と化してしまう」というように、目の前にいる子ども以上に、心理学者などの子どもを見る尺度のほうを優先してしまうことも多くあるように思います。そして、それは保護者だけに限らず、他の大人ですらそう思っていることも多いように思います。多子社会と少子社会、その社会のあり方によって子どもに対する関わり方は変えていかなければいけないはずですが、多子社会の考えのまま、少子社会に突入してしまい、未だその価値観は変わっていないように思います。子どもを取り囲む社会環境は昔とは大きく違うのに、そのバックボーンを含めた教育のあり方とは違っているようにも思います。そう考えると「多様性のある遊び友だち」が作ることができない地域環境であるため、よくよく環境や関わり方は考えていかなければいけないのだろうと思います。

  7. 「何か起きた時に、いつでも飛んできてくれる大人が、呼べば聞こえる距離にいる」というのは子どもと保育者との理想の距離感だと思われます。常に子どもの様子を側で見ておかなければと思う人は、子どもの力を信じきれない故に、子どもの姿を掌握しておきたいという想いが少々強すぎるのかもしれませんね。自園の子どもの姿を思い浮かべると、まだまだ大人との関わりを求める子が多いのが現状です。これは子どもだけに原因があるのではなく、大人の側、保育者の意識にもその原因があるように思えます。子ども同士の関わりや子ども集団をあり方を大切にし、その上で保育者はどのように関わるべきかをスタッフ全員で見直して見たいと思います。

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