親はいいカモ

人生は、何が起きるかわかりません。ハリスは自身の経験からそう感じているそうですが、これでも安心材料にならないのなら、育児アドバイザーたちではさらにだめだろうと言います。彼らの言葉に従った結果、何に行き着いたでしょうか。子どもたちをすべて平等に愛さなければ気がとがめるようになりました。しかし、生まれつき他よりも愛らしい子どもがいるのは決して親の責任ではないとハリスは言います。また、「大切な時間」を十分に子どもたちのために割いてやることができなければ気がとがめるようになりました。それなのに、子どもたちはその「大切な時間」をむしろ友だちと過ごすことを望んでいるのです。父親と母親の揃った家庭を与えられないことに気がとがめるようになりました。しかし、長期的に見た場合、それが重大な意味合いをもつという確固たる証拠はどこにもないのです。子どもを叩くと気がとがめるようになりました。しかし、成長したヒト科.の動物は、幼き者を何百万年もの間叩きつづけてきたのです。そして何よりも都合の悪いことには、もし「子どもが少しでも道を誤ると、気がとがめるようになってしまったのだと言うのです。さらにハリスはこんな辛辣なことを言います。「親はいいカモだ。」フロイトがその口火を切ってからというもの、親は格好の標的とされてきたと言うのです。随分ときついことを言っていますが、私はそれほどでもありませんが、それには同感します。

育児アドバイザーたちは、つねに子育てから喜びと自発性を排除し、それを苦労に仕立て上げてきたと言います。はるか昔のことですが、ジョン・ワトソンは「このうえなく子どもを愛する」危険性をとくと訴えたそうです。彼は不快感を抑えようともせず、あるドライブでの出来事を語っています。せっかく数学に強いところをみせたのに、彼の警告が無視されてしまった一件です。

「さほど前のことではないが、4歳と2歳になる二人の息子、その母親、祖母、そして看護婦を連れてドライブに出かけた。二時間あまりのドライプの間、子どもの一人は32回もキスを浴びた。4回は母親から、8回は看護婦から、そして20回は祖母からだった。他方の子どももほぼ変わりない愛情に包まれていた。」

おそらく母親のキスの回数が最も少なかったのは、彼女がワトソンの妻だったからだろうとハリスは言います。彼女は夫の意向にさからって子どもたちにキスしたのです。人目を盗んでのキスでした。

今日、育児アドバイザーたちはすっかり方向転換し、子どもへのキスを犯罪行為から義務へと変えました。もし私が子どもだったら、医者が処方したキスを一日三回もらうよりは年に一度の人目を盗むようなキスの方がいい」とハリスは言っています。

子どもの性格、行動、態度、そして知識に親が影響を及ぼすためには何ができるのでしょうか。これまで、健康的な食生活を子どもに提供すること、予防接種をきちんと受けさせることについては何も触れていません。それは、ハリスが主張したいのはそのような内容のものではないからです。また精神疾患について語る資格も自分にはないと言います。もしかしたら、ハリスの主張の視界の外にある問題を子どもがかかえてしまうこともあるでしょう。もしその徴候が子どもに現われたら、適切な専門家に相談すべきであることは言うまでもないと言います。

親はいいカモ” への7件のコメント

  1. なんとも刺激的なタイトルを掲げる今回のブログ。「親はいいカモ」。ネギをしょってきたカモかな。私は個人的に、親はいいカモであっていい、と思っています。自分もそうでしたが、わが子も私に対してそう思っているであろう、と推察しているのです。それでいい。園に集う子どもたちと親御さんの関係をみていると、時にガキ大将と子分、時に先生と生徒、のような関わりを見て取ることがあります。親は親の役割があるだろう、なのに別の役を演じてしまっている。これも「育児アドバイザー」の見解をメディアか何かで流した結果でしょうか。赤ちゃん白紙論から生まれた結果なのでしょう。親は親として役割をわからない、よってガキ大将や先生にモデルを見出し、育児に専念する。育児アドバイザーが適宜アドバイスを入れ、ますますモデルとしてのテンションがあがる。子どもが小さい頃は、スタートダッシュ、と言わんばかり。躾けから虐待に移行してしまう。育児スタートダッシュ信仰があるからでしょうね。

  2. 現代社会は、「親」というものに対して多くの役割を担わせてしまっているのかもしれませんね。伝統的育児で見られたような、社会で子育てを担う環境では、「親」の役割は「自分を通して生き方を伝える」という一つだけだったりするかもしれません。育児書の捉え方も、親にとっては一つの指針になり、不安を安心にする材料の一つになることもあると思います。しかし、その安心が本当に必要な安心であるのか、自分の心は望んでいる穏やかさであるのか、そして子どもにとって有益となることであるのかということを、振り返る必要はあるようですね。保育者にとっても、子どもとともに成長していくことを「質」の一部であると多くの方が認識しているように、親という存在もそうなのでしょうか。自分が親になった時には、どのような親になっているでしょうか。その時は、喜んで背中にネギを背負いたいと思います。

  3. 「彼らの言葉に従った結果、何に行き着いたでしょうか。」ハリス氏の主張ではかのフロイトも「彼ら」の一人に入るようで、その「彼ら」の主張に従って行き着いた先は、現代の子育て家族が抱える子育ての難しさでした。それはもっと素直なものであったし、もっと本能的な行為であったのに、色々な刷り込みのせいで身動きが取れなくなっている現代なのだと思えてきます。
    正しきが上に正しきの時代を経て、子育てに関してはその正しさすら最新の研究は疑わしい、神話であると主張します。その主張で気持ちの救われる親のどれ程多いことか、その主張で救われる子どもたちのどれ程多いことかと思います。時代は正しさの先の楽しさへ足を進めていて、もっと気楽に子育てをしよう、保育をしようと背中を押してくれているように思えてきます。

  4. 現代の社会の中で親は子供に対して多くの役割を担っていて、担いすぎているのではないと思えてきます。昔のような全体で子育てをするような子育てのやり方では起きないような問題が、現代では深刻な社会問題として世間を騒がせているのでしょう。そうした問題からの不安を取り除くために頼る育児書には、不安を本当に取り除くことができるものであるのか、安心して頼ることができるのかということも疑問になりますね。
    保育者もその「質」を高めるために学ばなければなりませんが、親も同じように「質」向上のために学ばなければならないのだと感じました。

  5. この上なく子供を愛する、字面だけ見たらこの上なく良い親のようにも見えますが、よく考えれば危険をはらんでいることは明白でしょう。この愛が依存へと変わってしまったとき、親にとってはもちろんのこと、子にとっても悪影響を与えるのではないでしょうか。愛を返してくれない子に腹をたてたり、空の巣症候群に陥ったりと子供がいなければ生きていけなくなってしまいそうです。自分の子供であったとしても、愛を注ぐ親の目と、一人の別の人間として他人として見る目も持ち合わせなければいけないのですね。

  6. 自分にはまだ子どもはいないのですが、「もしできたら」と考えると、苦労の部分は無視できないと思います。かえって嫁さんのほうが、そういった苦労は当たり前であり、そんなことよりも喜びや楽しみのほうが強く感じる考えを持っているように思います。子どもの「自発性」を考えると楽しみでしかないのかもしれません。自分はまだまだいろんなものに縛られているように思います。「なるようになる」と思うのも大切なことなのだろうなと感じます。「育児アドバイザーたちは、つねに子育てから喜びと自発性を排除し、それを苦労に仕立て上げていた」というように子どもを育てるにあたって喜びや自発性の重要性が言われています。結果として、子どもの人生はやはり子どもであり、親が同行ではなく、一人の人格として子どもを見ていく必要があるのだろうということをより感じました。やはり白紙論ではないのですね。

  7. 親という存在は子育てにおいて気をとがめることが多くて嫌になってしまいそうな内容です。気をとがめ、迷い、子育てに対して自信を無くした末に行き着くのが育児アドバイザーの言葉であるような気がするのですが、そのアドバイザーが苦労や負担を軽くするどころか、逆に親を追い詰めるように仕向けているというのはいかがなものでしょうか。育児アドバイザーの言葉ばかりに振り回されるのはそろそろやめにして、子育てにおける喜びや自発性を取り戻さなければならない時がきていますね。

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