自尊心と地位

一般的にいう自尊心、つまり広い範囲で高まりを持続するものは、所属集団での地位によってもたらされるものだとハリスは言います。学齢期の子どもたちは自分を同級生とどう比較するか、そして彼らからどう思われているのかを知っています。仲間集団での地位の低さは、それが長期に及ぶと痕跡が性格に刻まれて一生消えないものとなると言うのです。そしてもちろん子どもの子ども時代を台無しにしてしまいます。

仲間集団における地位は気まぐれなものなのです。集団ではメンバーごとに決まった役割を押しつけようとしますが、そのほとんどにはさしたる理由もありません。無作為であったり、外見上の違いであったりします。入学式当日におもらしをしてしまった子、同じ日に小難しい言葉を使った子どもは、何年間も、もしくは一生ずっとそのレッテルを貼られたまま過ごすことになりかねません。ハリスの知り合いの中年女性は、五年生の頃にはもう子犬のようなぽっちゃりした体型ではなくなっていたにもかかわらず、いまだに昔の友人たちから「ふっくらちゃん」と呼ばれているそうです。

親は子どもたちが仲間集団において好ましくない役まわりを押しつけられることを防ぐことはできないとハリスは言います。しかしながら、それをわずかでも起こしにくくすることは可能だと言うのです。親は子どもの外見を変えることはできると言うのです。子どもを可能なかぎり普通に、そして魅力的に見せることを心がけようと言うのです。外見はあなどれないと言うのです。「普通」とは子どもに他の子どもが着ているのと同じものを着せることと言います。「魅力的」とは皮膚の状態が思わしくない子は皮膚科の、歯並びが悪い子は矯正歯科のお世話になるということだと言うのです。さらにそれだけの経済力があるか、もしくは健康保険でまかなえるのであれば、顔に深刻な問題がある場合には美容整形も有効だと言います。

子どもたちは人と違うことを嫌い、それにはそれ相当の理由があります。奇異であることは仲間集団では徳とはみなされません。子どもに一風変わった名前、くだらない名前をつけただけでも、子どもに不利を招きかねません。ある父親は自分の息子に好きな詩人の名前をつけるとかっこいいのではと思ったそうです。ただ不幸なことにその父親の好きな詩人はホーマーだったのです。というのも、ホーマーは、時代遅れで、間の抜けた名前と考えられているのです。

時としてハリスは「それでは私が自分の子どもをどう扱うかは重要でないということですか」と訊かれるそうです。「それでは私が自分の夫をどう扱うかは重要でないということですか」とか「それでは私が自分の妻をどう扱うかは重要でないということですか」とは訊かれないのですが、状况は似ているとハリスは言います。夫に対する今日のハリスの態度が、明日の彼の姿を決めることになるとは思ってはいないそうです。ただしそれは、ハリスの夫がハリスと暮らすことでどれだけ幸せでいられるか、さらには二人がこれからも仲よくやっていけるかには響いてくることでしょう。

人は結婚した相手から学ぶこともあります。結婚により考え方が変わることもあれば、職業の選択や宗教観に影響が及ぶこともあります。しかし、一時的にある状况に限って変化がもたらされる場合を除き、人の性格までは変わらないのです。

自尊心と地位” への5件のコメント

  1. 仲間集団においてどうみられるかは子どもにとって、時に大人にとっても、深刻です。幼児期から子どもたち集団の中でレッテル貼りが行われることがあるでしょう。貼った方はさほど思っていなくても貼られた方は結構たまったものではないかもしれません。まぁ、そういうものだと思ってやり過ごすこともあるでしょう。確かに「外見はあなどれない」と思います。外見だけでなく、遊びの内容についても横並び、いわゆる「普通」が子どもたちの大半には求められるでしょう。そのことによって余計なストレスを覚えなくてもすむと思われます。自分たちの子ども時代のことを振り返ってみてもなるだけ出しゃばらないように心掛けたという記憶の持ち主は多いような気がします。今回のブログの最後「人の性格までは変わらないのです。」はとても首肯できます。自分と異なった性格の持ち主を否定的に観てしまいがちですが、逆もまた真なりだとは思います。とにかく、その人はそうした性格であるとしてお付き合いしていく。人間関係円滑化のコツかもしれません。

  2. 『五年生の頃にはもう子犬のようなぽっちゃりした体型ではなくなっていたにもかかわらず、いまだに昔の友人たちから「ふっくらちゃん」と呼ばれている』。なんとなく理解できますが、哀しいのか微笑ましいのか。その「ふっくらちゃん」をいかに笑い話やプラスにできるかが重要だと思うのは少数派でしょうか。生きていく上で、他者との違いを感じる場面は多々あると思いますが、それをどのように捉えるか。それを親がどのように対処して対策をとっていくのかなのですね。好ましくない役まわりをわずかでも起こしにくくすることに長けている、生まれながらに「魅力的」である男女は、その他の人々よりも生きやすい人生を送っているということかもしれません。そして、名前問題も難しいですね。時代遅れで間の抜けた名前といっても、付けた名前が数年後どのようになっているか、完全には把握することはできませんものね…。

  3. 人を見た目で判断しない、内面は外見に出る、どちらも外見というものの重要性を表しているように思えてきます。今では全く気にならないことも、子ども時代を思い出すとそれはそれは意識していたことがあったと思い出します。小学校へ通う長男が同じような意識下の集団の中へ入って日々を重ねているのだと思うと、してあげられることはしてあげたいと思うものです。
    そういえば、保育園時代は家で歯ブラシは専ら親の役割かのようでしたが、小学校に入ってからは自分でするようになりました。隣の席に座る子や、仲間にこう思われたい、ああ思われたいという気持ちが芽生えてきたのでしょうか。自分で見つけて生まれる動機ほどに、その子の行動を促すものはないように思えてきます。

  4. 小学生の同窓会などで同期と集まる機会があると、その当時の記憶や懐かしい話しなどとても楽しく話しができ、好きで今でも集まりますが、不思議なことにその当時の呼び方やポジションなど小学生の頃のままで話しが進んでいきます。だから、懐かしいのも一つの原因であると思いますが、今回の内容にあった「好ましくない役まわり」であった人はあまりいい気持ちにならないのではないのでしょうね。
    そして、外見は学生の頃はとりわけ大事な気がします。それ一つで「好ましくない役まわり」になることは往々にしてあり得ることですね。親として清潔感や服装など、できることは気をつけていきたいですね。

  5. 俗にいうキラキラネームというものをつけられた子供は学力などが低くなるという統計を目にしたことがありますがそれはなぜなのだろうと常々疑問に思っていました。普通であることを好む集団というもののなかでは名前が人と違うこともまた疎外の対象となってしまうのですね。ではこの疎外はいつから表れるのでしょうか。こども園には様々な肌の色や目の色をした子供がいますがその子達がそれを理由に劣等感をあたえられるという姿はまだ見たことがありません。もしかしたら見えてないだけでもう起きているのかもしれませんが、見守る保育にもしそれを抑止する力があるのであればもっと見守る保育を理解しないといけませんね。

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