自分の弱点

自分の弱点を親のせいにするのはフィリップ・ラーキンだけではないとハリスは言います。それは誰もがすることだと言うのです。ハリスは、自分でさえも自信を失いかけていたときはそうだったと振り返ります。自分を責めるのは確かにつらいです。しかし、利己的な理由だけで、子育て神話がこれほどまでに私たちの文化に深く根づいたわけではありません。また、子育て神話は精神分析学(フロイト)と行動主義(ワトソンやスキナー)の二つの影響が合体して生まれたものだとハリスは言います。しかし、このような見解だけで、その浸透の度合いが説明されるわけでもないのです。学術系心理学の一派としてはじまったものが、その当初こそ人目につかず細々とやっていたのですが、まもなくその域を超えて広まるにいたりました。トークショーのホストやそのゲスト、詩人やじゃがいも畑の主人、世話になっている公認会計士や自分の子ども。彼らは皆自分の弱点の責任を親に押しつけ、自分の子どもの弱点の責任を自ら背負うのだと言います。

親の務めは重要視されすぎてきたと言うのです。親は実際以上に子どもの性格に影響を及ぼしていると思いこまされてきたのです。親はすでに子どもの将来を決定するだけの力をもっており、親が子どもの遺伝子を選べる日が来るまで待っことはないと言った科学ジャーナリストの言葉をハリスは以前引用しました。別の科学ジャーナリストは「親は子どもの自我形成において、もっとも大きく、最も重大な役割を果たす」と《ニューヨーク・タイムズ》紙で語っているそうです。子どもが自分自身を肯定的にとらえることができるよう、子どもを褒め称え、常に体全体で愛情を表現してあげなければならないといいます。自らを「ドクター・ママ」と呼ぶ育児相談の専門家は、「毎日、言葉以外の方法で愛情とその子を受け入れてあげていることを伝える」ことを忘れてはならないと言います。子どもは皆、何歳になっても触れられ、抱きしめられることを求めている、と言うのです。同じく育児相談を専門とするベネロープ・リーチは、親が務めを正しく果たしさえすれば、子どもは幸せで、自信あふれる子になると言っているそうです。「子どもとは、あなたとの関係、さらにはあなたが彼に伝授したすべての事柄に自らの基盤をおくものだ」。体罰や言葉による非難は、育児アドバイザーに言わせればご法度です。子どもにはあなたが悪いと言うのではなく、あなたの行なったことは悪いことだと教えるのです。いや、そこまでも言わない方がいいかもしれないと言います。あなたの行なったことは私を嫌な気持ちにさせたと言うべきだと言うのです。

子どもはそこまでもろいものではありません。思っている以上に彼らは強いのです。強くなければならないのです。なぜなら外の世界では、誰も子ども用のグローブをはめてはいないからだというのです。家庭の中では「あなたのしたことはママを嫌な気持ちにさせたよ」と言ってもらえるかもしれませんが、公園では「ふざけんな。ばかやろう!」となると言うのです。

子育て神話は、乗り越えられない山はない、というモットーを掲げる文化の産物です。優れた電子機器、生化学が生み出した魔法のような万能薬をもってすれば、自然に打ち勝つことができると言うのです。もちろん子どもとは一人一人違って生まれてくるものですが、それは何の問題にもならないのです。子どもをこのすばらしい機械にかけ、特許を得た特別な方法で調合した愛、制限、タイムアウト、そして教育玩具の混合物を加えると、幸せで賢く、十分適応した、自信あふれる人間に出来上がるというのです。

自分の弱点” への5件のコメント

  1. 「自分の弱点を親のせいにするのは(中略)誰もがすること」とあるように、自分が感じている自分の欠点や好ましくないものは、全て親のせいにすることが通説のようになっていますし、そう思うことで自分の中にある何かを守ろうとしているようにも感じています。しかし、自分の人生は自分の力で変えることができると理解している人にとっては、親のせいにするのではなく、きっと自分ができることをしてその状況をより良くしようと動いているのかもしれません。子どもにとっても、日常において必要以上に干渉している親のもとでは、そのような力は育まれないのでしょうね。そして、子どもは「外の世界では、誰も子ども用のグローブをはめてはいない」ということで、外の世界を子どもに合わせすぎてもいけないし、遠くなりすぎてもいけない、見守る距離のような適当な距離感を社会でも大切にしなくてはいけないと感じました。

  2. 自分が親という存在を意識し始めたのはいつからか。私はもの心着いた頃から親以外の大人に囲まれて育ちました。親を意識する前に大人という存在を意識していたのかもしれません。今振り返れば、小学生の頃は早く中学生になりたいと思っていたし、中学の頃は高校、そして大学へ。その過程で親を意識することはあっただろうかと振り返るのです。自分の強みや弱みを親に見出したことはなかったと思います。何かやらかして親のせいにするという経験を持ちませんでした。親という存在を意識し始めるのは学習塾をやり、その後保育所に就職してからだと思います。子どもの保護者を通して親というものを考え始めた。そして、子の所業を親のせいにしてしまう自分がいたような気がします。遺伝の部分はあるだろうから親が関係ないとは思いませんが、子どもに何かあるたびに親と結びつける軽率さは今更ながら大反省です。親は親、子は子、と思っていたのにそうなってしまったのは、「子育て神話」が学習塾なり保育所なりに深く忍び込んでいた結果なのでしょう。気づけて良かった。

  3. 学歴社会も子育て神話が作り上げてしまった社会だったとしたらどうでしょうか。そもそも学歴が重要になったのはいつの頃からなのでしょうか。長い地球史の中であまりにも近代のことと思え、そう思うと学歴社会こそ近代史の作り上げた妄想の一つであり、人類の生きる根本とは何の関係もないものであることがわかるように思えてきます。一部の天才は一部の学問を追求することが楽しくて仕方がないでしょうが、その天才と比べられ続けながら競うことを余儀なくされている学生は、本当に大変だと思います。そのストレスは本当は感じなくてもいいものだのに、それに気付けずに、また気付けていても方向転換する術を持てずに、結局何かにぶつけるのでしょう。それが趣味などの健全なものであればいいのかもわかりませんが。

  4. 現場や息子が近所の子どもたちと遊んでいるのをみていると、子どもは大人からみると結構ひどいことを言っていたり、していたりすることが多々あります。〝子どもはそこまでもろいものではありません。思っている以上に彼らは強いのです。〟とありましたが、普段から子どもたちの世界ではそのような関わりがみられていることを知ることは必要なことである気がします。じゃないと、大人からみると「ひどい」と思われそうなこともしているので、大人が無駄にとめてしまいかねないのではないか、今まではそれが良しとされていたのではないか、と思います。このような部分も「子どもを丸ごと信じる」という三省が関係している部分であるように思いました。

  5. 外の世界では誰も子供用のグローブをはめてはいない、なるほど言い得て妙だと思いました。争う相手が子供同士であろうと少し年の離れた相手であろうと社会では、人は鋭角に攻撃してきますね。逆に言えば我々保育士というのは子供によって、発達によってグローブを正確に選ばなければいけないのですね。グローブを瞬時に見極めはめる能力こそ専門性と呼べるのでしょう。

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