結婚相手

人は結婚した相手から学ぶこともありますし、結婚により考え方が変わることもあれば、職業の選択や宗教観に影響が及ぶこともあります。しかし、一時的にある状况に限って変化がもたらされる場合を除き、人の性格までは変わらないのです。ある人は妻にはやさしいが、従業員には厳しいかもしれないし、その逆もありうるのです。常に彼女のことをけなしつづける男性と結婚した女性は、彼の近くにいるときにはいつでも悲しげであったり、怒ったような表情を見せたりしているかもしれません。しかし、もしけなされつづけても彼と別れることもなく、彼が近くにいないときでもおどおどした表情を見せていれば、彼女の性格上の問題が今の不幸な状況の原因なのか、それとも結果なのか、それを見分けることはできません。それは当の本人にもきっとできないでしょう。実際には、彼女が抑鬱的で抵抗しないのは、子どもの頃にけなされることに慣れさせてしまった彼女の母親に責任があると考えることもできます。それが正しいとは限らないし、この考え方は彼女が馬鹿な男と結婚する前から問題をかかえていたことを認めることになるのです。

赤ちゃんの愛着行動を研究する者たちは、好んで「作業モデル」をもち出すとハリスは言います。彼らは、赤ちゃんの心の中には母親との関係の作業モデルがあって、母親に何を期待すべきかを教えていると考えているのだと言います。そこまではハリスも認めています。ただ問題なのは、愛着の研究者たちはそのモデルの機能を延長させて、それが一生つづくと考えていることであり、またそのモデルが他人に何を期待すべきかということまで赤ちゃんに教示すると考えていることです。赤ちゃんが泣くときに、母親と同じようにすべての人が自分のもとに駆けつけてくれることを期待しているとしたら、のちに彼は限りない失望を味わうことになるでしょう。しかし、赤ちゃんはそんなことは期待しません。青い飾りのついたモビールが赤い飾りのついたモビールと同じように動くとは、赤ちゃんは思わないと言うのです。赤ちゃんがベビーシッターに、母親がするのと同じことを期待するわけがないのです。

心の中で個人間の人間関係を司っている部位には、私たちの生活でかかわりのある重要な人間関係のモデルがすべて揃っているとハリスは考えているようです。さほど重要ではない人間関係に限っては一般化を図り、〈仲間〉や〈従業員〉といった各カテゴリー内の人たち全員に同じように接するのですが、それも一時しのぎだと言います。ある人のことをよりよく知れば、その人のためにもしくは友人独自の作業モデルをつくり上げると言うのです。子どもは自分の母親、教師、きょうだい、もしくは友人に対して同じように振る舞うわけではないと言うのです。相手を知れば、たとえばやさしいジョナサンと高慢なプライアンがいれば、彼らに対する振る舞い方もおのずと違ってくるのです。

親もまた高慢になる場合があり、子どもたちはそれを鋭く察知します。皆が親のように振る舞うと思うわけではありませんが、親との関係は崩れてしまいます。親の高慢さが長くつづけば、親子の関係は一生とり返しのつかないものになりかねません。道徳的に必要だからという理由だけでは自分の子どもにやさしく接する気になれないというのであれば、このようなのはいかがだろうとハリスは言います。子どもが幼い頃にやさしく接しておけば、あなた自身が年老いたときにも子どもはやさしく接してくれるだろうと言うのです。

結婚相手” への10件のコメント

  1. おそらく「重要な人間関係のモデルがすべて揃っている」状態で私たちは生まれてくるのでしょうね。そして、さまざまな人間関係を経る中で、その時々の人間関係モデルに従って相手や集団に対して振舞っている自分がいるのでしょう。大人の思い込んだ愛着関係はその思い込みの故双方を幸せな方向には導かないような気がします。乳幼児の一人ひとりを大切にすることは、大人自らの勝手な思いで行われることではないでしょう。常に、その子にとってどうなのか、を振り返る。その振り返りについても振り返ってみる。振り返り、自問自答の繰り返しを得るなら、より客観的な事実に出会うような気がします。結果として、物理的にも精神的にも適当な距離感を子どもとの間に保てるのだろうと思うのです。「親の高慢さが長くつづけば、親子の関係は一生とり返しのつかないものになりかねません。」こうならないように我が身を省みることが親である私たちには求められるのでしょう。

  2. 「人の性格までは変わらない」という結論に対する、原因や内容を把握することの難しさを感じました。現在の状況は、本人が自ら招いていることなのか、その本人を形作った親の影響なのか、それらを表出するしかなかった周囲の環境によるものなのか。原因を把握しきれないという状況では、もはや「今」を受け入れ「より良く」を目指すほかないようですね。また、「赤ちゃんの心の中には母親との関係の作業モデルがあって、母親に何を期待すべきかを教えている」というように、母親を誘導させる力があることを改めて感じます。赤ちゃんが能動的に母親の動きを引き出すという行為、「モデルの機能」は一生をかけて他人に何を期待すべきかということまではいかないのですね。大人は、子どもの能力をあなどっている部分が少なからずあるのかもしれません。

  3. 劣等感を与え続ける相手がいるからの劣等感なのか、そもそも抱き続けてきたからこその現状なのか、オプティミストのあの人は元々がそうだったからなのか、後天的に身につけたものなのか、そのどれもにこれというような決定打はなく、またそのどれもがその人をその人たらしめているのだという矛盾が同居しているかのようです。それがヒトであり、またそれがヒトの面白さであるのだと思えてきます。
    ヒトは二つのことを同時に考えられないと言います。それと同じように「好んで作業モデルをもち出す」「赤ちゃんの愛着行動を研究する者たち」は、それを信じるが故にそれ以外のことが入らないのかもわかりません。ヒトはそんなに器用ではないからこそ手を取り合うのであり、子どもの為の研究も、子どもを取り巻く世界の向上の為の追求であるならば、手を取り合いながら最適解を導いていく必要があるのかもわかりません。

  4. 〝赤ちゃんの心の中には母親との関係の作業モデルがあって、母親に何を期待すべきかを教えている〟という文章からやはり、赤ちゃんは能動的であり、受動的なのは母親だということが分かります。そして、母親とその他の人とは期待値が違うということで、母親の代わりはなかなかつとまらない、そして当然ですが、母親は周りの大人のようにもなれないということで、保育者は子どもを母親の視点以外からみつめる、1人の子どもを多角的な視点からみる一角を担うものであることを感じました。

  5. 甘やかすと優しく接する、似ているようでまったく異なるものであることはわかっているのですが、果たして自分は子供に優しく接することができているか、甘やかしてしまっているかなかなか判断がつきません。子供が求めて来たときは積極的に関わるよう心がけてはいますが、求めていること以上のことをしてしまっていないか、本当はやりたいことがあるのではないかいつも考えてしまいます。先日先輩職員の言っていた”言葉でコミュニケーションがとれてしまうと相手を理解したつもりになってしまうから怖い、言葉を発さなくても子供は意思を伝えてくる”という言葉は今の自分に刺さる言葉でした。見守るという言葉の意味を今一度考え直さなければと思います。

  6. 「ある人のことをよりよく知れば、その人のためにもしくは友人独自の作業モデルをつくり上げる」その通りかもしれません。実際、自分自身が働いていく中で人との付き合いは自分自身のスタンスで大きく変わってくるように感じます。それは幼稚園や保育園での保護者との対応でも同じことが言えるますね。自分自身も自然と人に対して、その人それぞれに合わせた関わり方をしていますし、人の相性によって違いは出てくるのは経験上あり得てしまいます。それがいい悪いではなく、それこそが社会性であり、コミュニケーション能力なのだと思います。以前、藤森先生に「チーム保育ではいろんな先生がいるが子どもたちは大人の顔色を伺ってかかわりをかえるのではないですか?」と聞いたのを思い出しました。そのとき「最近の子どもたちは顔色を伺わなさすぎる。相手のことを予測することは大切ではないか」といっていました。「顔色を伺う」というのはあまりいい意味では使われないですが、しかし、確かに考えてみればそういった側面は多くあり、それこそが実は大切な能力であるのだと感じました。ロボットやAIではできないことですね。

  7. 人同士の関わりとは、単一の作業モデルによって構築、対応できるほど単純なものではないことは誰もが知っているはずです。大人、子どもに関わらず、相手に応じた振る舞いや関わりを常に意識し、それを要求されています。それだけ人は柔軟性に富んでおり、だからこそ様々な人間関係が複雑に入り乱れるこの社会の中で生きていけるのだと思います。子どもが他者の振る舞いに対して敏感に鋭く察知できるということは、人はそういった力を生まれながらに有しているということであり、それは「私たちの生活でかかわりのある重要な人間関係のモデルがすべて揃っている」ことにも繋がることだと感じています。そのモデルをどう引き出し、どのように使っていくかが人間関係における鍵となるのではないでしょうか。

  8. 「子どもが家庭でどれだけ幸せであるか、もしくは不幸せであるかは、親の力量次第」とありました。それだけ家庭における親の力は絶大であり、幼いうちは特に親の判断や言葉に対して、従わざるをえない状況にあります。毎回そうなのですが、そういった見解に触れるたびに、私の我が子たちに対する扱い方や接し方はどうなのだろうと考えてしまいます。それだけ自分の子育てに対して自信がないということの表れでもあるのですが、そんな自分に気づくことが自らの子育てを客観的に捉える良い機会ともなっています。自分に意識はなくとも子どもたちに対してそれぞれ異なる関わり方をし、それを子どもたちは感じ取り、態度や行動に表しているはずです。それは私の扱いに対する子どもたちのこたえであり、それに反発するのではなく、受け入れる度量が必要だと感じており、改めて息子たちの私に対する態度や接し方に注目し、そこから家庭での関係性について見つめ直したいと思っています。

  9. 「子どもは自分の母親、教師、きょうだい、もしくは友人に対して同じように振る舞うわけではないと言うのです」ことのことは実感しています。我が子もそうですし、0歳児クラスの子の様子もどうも家と園とでは見せる姿が違います。それはそこにいる人が違うからなのだと思います。その集団内にいる人に合わせて子どもは、赤ちゃんは、人は自分の立ち振る舞い方を変えていくのですね。そう思うと、「自分」というものは益々怪しいものなのかなとも思えてきます。確固たる自分、変わらない自分があるのではなく、様々な人との関係性に中に自分がいるということを思えば、それは常に変わっていく存在なのかもしれません。

  10. 因果応報かどうか分かりませんが、自分が高齢になり、仕事はもちろん自分の身の回りのことをするのも難しくなった時に最初に助けてくれるのは、自分の子どもだと思います。もし子どもが親に対して何にも思ってなく、それこそ厳しく接したならば、それは子ども自身が悪いのでなく、それまでに我が子に対して自分がしてきた結果なのかもしれません。人の付き合いでも同様な事が言えるような気がします。子ども達に自分がされて嫌な事は相手にするなと言いますが、大概の場合、知らない間に自分自身もしている事があります。人に合わせるというのはとても大切な事ですし、それが人間関係を円滑に運ぶ場合もあります。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です