理論家

子育て神話にとって有利であると思われながらそうならなかったのが出生順位だとハリスは言います。親は第一子とそれ以降に生まれた子どもたちとを区別して扱いますが、その扱い方に違いが生じるのは、子どもたちの生得的な特徴の違いに反応しているだけではありません。それでも研究者たちはこの半世紀もの間、出生順位が性格に永続的な跡を残すという確固たる証拠を追究しつづけていますが、彼らのその努力はいまだ結実していません。また一人っ子ときょうだいのいる子との間に性格的な違いがあることを示そうとする試みにもいまだ成功例はありません。もし親が子どもたちに重大な影響を及ぼすのであれば、なぜ彼らは一人っ子の性格をだめにしてしまわないのでしょうか。

この二つの期待が外れたことで、すなわち出生順位による影響も、一人っ子であることの影響もないとなれば、子育て神話を支えていた最後の柱も危うくなるでしょう。

それでもまだ崩れ落ちません。何かがまだそれを支えているようだとハリスは言います。そうです。「行動遺伝学的証拠、すなわち家庭環境全体は予測しうる影響を何も及ぼさないことを示すデータは、さまざまな家庭環境すべてを網羅していない」という主張です。問題は被験者全員が「十分に好ましい」家庭、すなわち正常という範囲に入る家庭の出身者である点です。理論家の中には、正常で十分に好ましいという範囲内の家庭であれば、子どもはどの家庭で育っても同じように育つと公言する者もいます。しかし彼らでさえも、正常という範囲を逸脱した家庭、それはすなわち極端に粗悪な家庭であるが、そうした家庭は子どもに影響を及ぼすという認識を捨ててはいません。

彼らが言おうとしているのは、彼らがデータを集めた家庭の範囲全体においては、家庭の好ましさと子どもの好ましさの間にはなんら関連性はないということです。その範囲とは「優れている」からはじまり、「粗悪」を通って「ひどい」の少し手前までを指します。関連性を導き出せるとすれば、彼らがデータをもっていないほんの一握りの家庭だけです。これまでに彼らが集めたかなりの数の証拠は、的外れなものか、子育て神話が間違っていることを示唆するもの、そのどちらかでした。しかし、まだ集めていない証拠もわずかにあり、それらこそが子育て神話が正しいことを立証してくれると彼らは信じているのです。

何とも危なげな支柱ではあります。私たちのように普通で、ありふれた親は、子どもたちにきわだった影響は及ぼしません。すなわち私たちは工場の作業員のように互換性があるということです。きわだった影響を及ぼす唯一の親とは、入院が必要となるくらいまで子どもをひどく虐待する親、かえられることのないおむつや腐った食べ物の悪臭漂う寒いアパートで子どもを放置するような超粗悪な親です。これが薄いなりにも、子育て神話の最後の砦となっているのです。家庭環境はそこで育つ子どもたちに一生残る損傷を負わせるほどに粗悪な場合もある、と。

子育て神話の支持者たちには、超粗悪と評されるごく少数の家庭に関しては彼らの考え方も当てはまるかもしれないという、薄いなりにも残された最後の砦を、そのまま守っていてもらおうとハリスは言います。しかしその彼らの考え方は大半の家族には当てはまらないのです。そんな極端な例をもってして、世間一般の望みどおりに育たなかった子をもつ普通の親を攻撃してもよいという正当な理由は、どこにもないのです。

理論家” への5件のコメント

  1. なるほど「子育て神話」の柱となっていたのが「超粗悪と評されるごく少数の家庭」だったのですね。アタッチメントの考え方の柱となっていたことと相通じるものがありますね。そして、教育者や専門家と称される人々が踊らされ、広告塔となり、ついに一般家庭にも育児の肝要として喧伝し、ついには乳幼児施設にもまことしかやかに浸透する。「子育て神話」やアタッチメント理論を一所懸命実践に活かそうとする保護者や保育者には笑顔がありません。楽しくありません。幸せいっぱい夢いっぱいの子どもたちといて眉間に皺を寄せなければならない職場環境や家庭環境は誰も望まないはずです。今回のブログタイトル「理論家」。そうはなりたくないと思います。屁理屈をこねくり回すこともしてはならないと思います。殊、未来がいっぱい詰まっている子どもたちのことについては。子どもたちが互いに笑顔でいたり、ある物事に一心不乱に取り組んだ至り、互いに助け合ったり、協力し合ったり、そうした子どもたちの姿を保障する、すなわち見守る、これが子どもたちが集う施設での私たちの働き方ですし、家庭では自己発揮をしながら一方で友だちを思うわが子にそこはかとなく寄り添う、そうした大人でありたいと思った次第です。

  2. 人に何かを伝えるとき、コミュニケーションをとるとき、情報を教えようとしたときなど、相手はその内容を「100%」であることを期待します。つまり、どのような状況であってもそれは言えることであるのかということです。しかし、世の中に「絶対」は存在しないのか、はたまた、そういった世界も存在するのかという議論を含めての会話には限界があり、ほんの数%の可能性に思いを馳せ続け、物事の進歩や発展を遅らせてしまう恐れがあると感じています。また、そのような状況下では「勇気」とか「信頼」といった根底の威力をいかに発揮させるかような非科学的なものに頼わざるをえなければ、前進は難しいようにも思います。子育て神話に対しての見方というのも、そのような感覚に近いのでしょうか。ただ、ごく少数を除き「子育て神話」が科学的に立証されていないという今の状況を踏まえながらの、子育てというものを考えなくてはいけませんね。

  3. 「超粗悪と評されるごく少数の家庭」にのみ子育て神話が支えられているのであれば、いよいよ一般論として通用していることが不思議にすら思えてきます。しかし、もしかしたら、時代が変わる時や、考え方が転換する時というのは案外こういうものなのかもわかりません。
    しかしながら子育て神話も子育てに一役買っていたのだと思えたのは最後の段落です。「超粗悪と評されるごく少数の家庭」、この家庭になるまいと親は努力したかもわかりません。同時に、努力を求め続けられ、それに従順に応えながら生きてきた親は、そろそろなぜこの方法が上手くいかないのだろうと気づき始めていることでしょう。もっと気楽に、もっと素直に子育てを楽しむ権利が親にもあるということ、新しい保育観、子育て観を広めるのはもしかしたら他でもない当事者である親自身であるかもわかりませんね。

  4. 子育て神話を支えているのが〝超粗悪と評されるごく少数の家庭〟のみということで、自分たちのような普通の暮らしをしている人たちには当てはまらないものであるということになりますね。
    ではなぜ、子育て神話はこれほどまでに浸透してしまったのか、題名にもある「理論家」と呼ばれている人たちのおかげであるのでしょうか。

  5. 出生順位が性格に永続的な影響を及ぼさないというのは少し驚きました。親から与えられるものや親と接する時間などは年長者が一番少なく、家事などの負担も増していくでしょうからなにか影響があるものだとばかり思っていましたが、私達のこういった先入観が無意識に影響を及ぼすのでしょう。ほかにも血液型や出身地によって性格に違いが出るなどのこ先入観というものが植え付けられるのは家庭内ではなく社会が多いでしょうから、それを考えれば性格に影響を与えているのが社会というのは当たり前の結論になるのですね。

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