家庭で学んだこと

確かに親はなんらかの形で影響を及ぼしています。双子のうち音楽に目覚めなかったほうのケースはむしろ例外だと言います。たいてい、音楽好きな親であれば、その子どもも音楽好きな子になります。医者の息子や娘が医者になるケースも多いです。子どもの職業の選択や余暇の過ごし方について、親の影響を否定するのは愚かなことだとハリスは言います。しかし、ハリスはそれを否定しませんが、その影響の仕方はあなたが考えているものとは違うかもしれないと言います。

親は子どもたちの家庭内での行動に影響を及ぼします。親はまた、子どもたちが門外にまでもち出すような、そしてそこでも役に立つような、知識と鍛錬を提供します。英語で話すことを家庭で学んだ子どもは、仲間たちと会話するためにいちから覚えなくてすみます。もちろん子どもの仲間も皆英語を話す場合のことですが。それ以外の行動、技術、知識も然りだと言います。子どもたちは家庭で学んだことの多くを仲間集団にもちこみ、それがもし他の子が家庭で学んだことと一致すれば、それをもちつづけることになると言うのです。

子どもたちは、仲間集団にはもちこまないようなものも家庭で学びます。それらは仮に仲間たちが学んだものと異なっていても保たれつづけることがあると言います。中には仲間集団と行動をともにするときには話題にのぼらないものもあります。今日、それに当てはまるのが宗教だとハリスは言います。宗教的な学校の生徒でないかぎり、宗教の信仰は子どもたちが仲間たちとともに行なうようなものではありません。それは親と行なうものです。だからこそ親は現在も自らの宗教を子どもたちに授けることができるのだと言うのです。親は自分たちの文化の中でも家庭内の活動とかかわりのあるいくつかの局面については子どもたちに伝授する力を多少なりとも保持しているのです。そのよい例が料理だと言うのです。家庭で学び、家庭に留まるもの、すなわち仲間集団に詮索されずにすむものは親から子へと伝えられます。家庭の営み方でさえもそうかもしれないと言います。保育園の子どもたちのおままごとは、家庭のあり方の大まかな枠組みを子どもたちに教えることになりますが、細かなことは抜けている点も多いとハリスは言います。

さらに家庭で学んだものの中には、仲間集団にもちこまれて異質であると判断されてもなお、子どもがもちつづけるものもあると言います。なぜなら、集団はある水準までしか同調を要求しないからだと言います。行動様式の中には必須のものもあれば、選択のものもあり、それらは所属集団によって異なると言います。言語はあらゆる子ども集団において必須とされるものです。異なる言語や訛りを使用する子どもはその変更を迫られ、実際変更することになります。男の子の集団では学童期になると「男らしく」振る舞うこと、すなわち強靭で、感情を表に出さず、地位にこだわることが必須とされます。女の子の集団においては、「女らしさ」の許容範囲はもっと広いと言います。決まった行動様式が要求されるにあたってその厳格さが異なるのは性差を反映しているのかもしれないとハリスは考えています。集団性は男性においてより強いと言うのです。

何が必須かは時代によっても異なることがあります。愛国心は戦時中には集団のメンバーに必須とされますが、平和時にはそれが選択的になります。大人文化の変化が男の子集団における許される行動の範囲をより広いものにするかもしれないと言うのです。しかしながら、今のところ発達心理学者たちはその転換の兆しをまだ見られずにいるとハリスは指摘しています。

家庭で学んだこと” への11件のコメント

  1. 「子どもたちは家庭で学んだことの多くを仲間集団にもちこみ、それがもし他の子が家庭で学んだことと一致すれば、それをもちつづけることになる」というのは面白いですね。やはり共感がそのものを持続させると同時に、家庭での学びは日常の何気ない部分に現れていることを改めて感じます。そんな中、集団に異質であると判断されながらも持ち続けるものもあるのですね。集団が同調を求めようとしないもの。それが個人の「信念」のようなものなのでしょうか。

  2. 令和初のコメントになります。藤森先生の臥竜塾ブログもついに元号を跨ぎました。当ブログが弥栄に栄え続けますように。
    さて、今回のブログ内容もいちいち頷きながら読み進めました。
    家庭から友だち等集団に持ち込めるもの、持ち込めないもの、集団内において同調を要求されるもの。宗教の件はよくわかりました。それから政治的傾向についてもそうでしょうね。思想宗教政治について語り合うとなかなか厄介なところに行き着きます。そうした語り合い、嫌いじゃないですけど(笑)。関わる集団は永続的なものであることは珍しいので、集団から集団へと渡り歩む中で自分というものを保持していくことになります。家庭で得たもの、集団から得たもの、を自分という枠の中で自分用にアレンジして集団から集団へ。言語同調圧は本当によく感じます。諸外国に行くたびに、その国で使われている公用語をマスターしたいと思う気持ちを禁じ得ませんが、おそらくその国の人たちと仲間になりたいという気持ちが言語同調圧として自分に迫ってくる結果でしょうか。

  3. 集団にとって必須なものがなにかは時代によって、また地域によって様々ではありますが、ふとわたしの所属していた集団にとってもっとも地位を高めていたものはなにか考えてみました。足の速さ、力の強さ、容姿の端麗さなど様々あげられるでしょうが最も必須だったのはゲームの上手さだったようなきがします。田舎とも都会ともいえない地域で育ったため、勇敢さや学力よりも特に格闘系のゲームが得意な子、またはそのゲームを所持している子が集団内で高い地位を持っていました。これもまた男らしさの一部であるのでしょうか。

  4. 「たいてい、音楽好きな親であれば、その子どもも音楽好きな子になります。」親の影響力は殆どないという主張に沿って考えたのは、音楽というものがとても素敵なもので、人類進化に必要なものだったとすれば、それは親の影響というよりも音楽の魅力だったのではないかと思えてきてしまいます。エデュケーションという意味での教育ということであれば、音楽の豊富な家庭で育った子は、本来もっている音楽への興味関心がより引き出されて、それが少ない家庭よりも音楽が必要となるように刈り込まれていくのかもわかりません。それを好きになってもらいたかったら先ずは親がそれを楽しむ、挨拶のできる子になってほしかったら先ずは親が楽しんで挨拶をしていく、そういうことに繋がるように思えてきました。

  5. 〝何が必須かは時代によっても異なることがあります〟ということで、男らしさ、女らしさの話しもあり、料理の話しもあり、今の時代に求められているものというものを考えた時に、昔とは違った男らしさ、女らしさが家庭内においても社会的にも求められているのだと思いました。ですが、恥ずかしいことに自分は料理はできない、ほぼ家事は任せきりの毎日です。反面教師となることを祈りながら…。仲間集団に持ち込まれた時にどうなるのか、その時の時代合うようになっていくのでしょう。どんな時代になっているか、我が子がどんな風にマッチングしていくのか楽しみになりました。

  6. 「子どもたちは家庭で学んだことの多くを仲間集団にもちこみ、それがもし他の子が家庭で学んだことと一致すれば、それをもちつづけることになる」とありましたが、子どもの頃、自分の家庭のルールが友達や学校では通用しない、何か少しおかしいという違和感を感じたことがあります。それからはそのルールを友達や学校で話すということはなくなったのですが、子どもなりに考えるきっかけになったと思います。

  7. 子どもたちは常に仲間集団の中で家庭内で得た影響を社会につながるものなのかどうかをためしているのですね。そして、仲間集団内でもちこまないようなものを家庭で学んでいるというのはとても分かりやすいですね。なるほど、そういった点においては家庭での学習もあることだと思います。また、そこから見えてくるのはやはり人は社会を常に意識した状態であるということが伺えますね。また、家庭での学習は一族の習慣や文化、血を絶やさずというと大げさなのかもしれませんが、遺伝子の輪廻を保つためには家庭学習も必要になってくるのだということが分かります。そう思うと、人間社会は複雑化していても、本質的な部分に関しては人は大きく変わっていないのだと思います。しかし、その反面、最近の社会問題のようにコミュニケーションなどの課題は親信仰や大人主導の教育に偏ってしまったからなのかもしれないということがより浮き彫りになってきたように感じます。

  8. 料理に見られる家庭の味や信仰する宗教的部分を仲間集団の中で披露したり共有することはあまり無いことです。実際に私も経験があることですが、仲間内で食事をした際に「これってみんなもやってることでしょ」という感じでとった行動が実は当たり前のことではなく、我が家の独自のものであったと気付かされたことがあります。人前でそれをすることはなくなりましたが、家では今でも続けているので、子どもたちも自然とそれをするようになっています。そういったものが俗に言う家訓のようなものであったり、家族の絆と呼ばれるものなのかもしれませんね。

  9. 「料理」と言うのは確かにそうかもしれませんね。家庭の味付けであったり、親の好みによっても献立が偏ったり、カレーや味噌汁に入れる具材でも個性があると思います。それが最近は惣菜を購入したり外食が多くなると家庭の味というのが失われ、子どもも、それが当たり前になり、料理という文化が気づくと無くなってしまうのではないのかな?と思ったりしました。時代の変化というのも、男性が家事をするというのも今では普通になってきましたし、女性が働く時代になり、「男らしさ」「女らしさ」というのも時代によって変わってきていると思いますし、それこそ家庭によって違ってくるのでしょう。そういった様々な家庭の価値観を互いに認められる、そんな関係を築いていきたいと思いました。

  10. 「何が必須かは時代によっても異なることがあります」とありました。教育も国が何を重要だと思っているかということがもろに反映されてしまうものですね。時代、国というものによって価値観が変わるということは、大きな集団という国という単位の中での関係性で決まるのかもしれません。そのように大きな集団、関係性があったり、家族のような集団、地域、学校集団というようにそのような集団を大きく広げていくような感覚が必要なのかもしれませんね。集団に自分を合わせていくという感覚なのでしょうか。そのような感覚、とても大切であるように思います。自分がまず元にあるのではなく、集団が必ず先にあります。そこに自分をどう馴染ませていくかという事が大切なんだろうなと思います。

  11. “保育園の子どもたちのおままごとは、家庭のあり方の大まかな枠組みを子どもたちに教えることになりますが、細かなことは抜けている点も多い”とあり、子どもたちの姿を思い出すと、家庭のなかで見たことや経験したことをそのまま遊びのなかで使うのではなく、その集団に合わせたような使い方をしているように思えます。そうしなければ、遊びが成り立たなくなることも考えられ、それぞれの立場や関係性によって、子どもがどのように経験したことを集団のなかで出すのかはずいぶん変わってくるんだろうなと思えます。

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