家庭では学ばないもの

もし家庭で獲得される知識や技術や意見が、仲間集団が考えるところの選択的なもの、同調を強いられない、むしろ違っていることが称賛されるものの範囲におさまるのであれば、子どもはそれらをもちつづけることになるかもしれないと言うのです。子どもたちの仲間集団のほとんどはメンバーたちの異なる才能、趣味、政治的勢、そして目指している職業に関して寛容です。ピアノの弾き方を知っている子どもは打たれるべき杭ではありません。

子どもたちはピアノの弾き方を家で学びます。医者とはどういうものか、なぜ民主党を支持するのか、そしてトウモロコシの皮を使ったタマーレの包み方も家庭で学びます。家庭では学ばないものといえば、人前でのふさわしい行動や、自分がいかなる人間であるかということなどだと言います。これらは仲間集団内で学ぶことなのだと言います。

以前ハリスは、家族はなぜ通常、集団として機能しないのか、その理由を述べていました。現代の北アメリカやヨーロッパの家庭は他人からの干渉を嫌い、さらに、家族はたった一つしかないものであるため、家族は顕著な社会的カテゴリーではなくなります。競合する他集団がなく、家族の集団性が喚起されないために、家族は分裂し、それぞれが自分自身の役割を、そして守るべき立場をもつ個人の一団と化してしまうというのです。自己カテゴリー化は自分の中の私を中心に行なわれます。〈われわれ〉意識は家庭ではめったに顔を出しません。

アジア文化では事情が違っているかもしれないとハリスは言います。人々には自分が家族の一員であるという意識がより強く、個人の功績や自立はさほど重視されません。植民地時代以前の中国では、一人が重罪を犯せば、その家族全員、親や子ども、兄弟姉妹までもがともに処刑されました。家族全員の連帯責任という考え方です。おそらくアジアの子どもたちは家庭にいるときですら、自分を〈王家〉、〈中村家〉の一員としてカテゴリー化するのでしょう。そしてまたアジアの家族は分化もできれば同化もできるのだろうとハリスは言います。

適切な条件さえ揃えば、西洋の家族もそうなれるかもしれないと言います。アメリカ人家族が見知らぬ土地を旅しているときのそれぞれのメンバーの様子を紹介しています。かかる土地では、他人がいても子どもたちは同級生に目撃される心配をする必要はありません。慣れ親しんだ地域を離れると、家族の連帯感が強まり、一つの集団となります。きょうだい間のライバル意識もトゥーソンの歩道にできた水たまりのようにすぐ蒸発して消えてしまうと言います。もっともこの小康状態は一時的なものです。親と子どもたちが車に戻り、ふたたび彼らだけになった途端に集団性は消え、ライバル意識が蔓延しはじめます。彼らは守るべき役割と立場をもった個人の一団へと逆戻りです。ママ、お兄ちゃんが足を押しつけてくる!

集団性が弱い、もしくはそれに欠けるところでは、分化が同化に勝ります。家族の個々人は多様化し、それぞれが専門とする何かを、自分の落ち着くべき適所を求めるようになります。この適所選びによって家族のもつ役割の幅が拡がり、きょうだい間の甲乙つけがたい競争も減ります。ところが親にもまた家族内に適所があり、子どもの立場からすると、親もまたそこに落ち着くことのできる候補者の一人なのです。先に述べた双子のうちピアノ教師を母親にもったほうがピアノを弾けないのは、ここに理由があるのかもしれないのです。

家庭では学ばないもの” への11件のコメント

  1. 家庭では学ぶことができないものに、「人前でのふさわしい行動や、自分がいかなる人間であるか」があげられていました。人前でのふさわしい行動は、普段親が「こういうときはこうするの」などと言うことが通説としてあるようなイメージでしたが、それをナチュラルに行えるためには、仲間集団のなかにおいて自らの実践と試行錯誤から学ぶしかないというのは貴重な視点だと思いました。そして、「自分がいかなる人間であるか」など、家庭よりもその他の者を通しての方が、自分を知る頻度が高いのですね。

  2. 家族が集団で機能するか、機能しないか、文化によって異なることも考えられるのでしょうか。北米の文化事情とアジアの文化事情、そしてアジアの中でも民族の文化背景によってもどうなのか、いろいろと考えさせられます。また、日本という一つの国の中でも東京と地方の片田舎における文化の違い、等々もあるのでしょうか。家庭が社会の最小単位だ、といつか耳にしたことがあります。もしかすると、この言葉の背景には何か政治思想、信条のようなものがあったのかもしれません。五人組とか隣組とか、家というより家の集合体としての集団社会、いろいろな仕組みがあるような気がします。個と社会とのつながりの場合、家族、隣近所、村や町、そしてもっと違う集団、さまざまな種類の集団があって、ひとりの人間にこれまたさまざまな影響を及ぼしているのでしょう。分化と同化ということもあります。集団性の強弱によっても個性の許容範囲が異なってくる。いろいろと考えられますが、親の影響だけを問題にするのはやはり無理があると思うのです。

  3. 家庭で学んだものが、それがアリかナシなのかを判断する基準が仲間集団にそれを持ち込んだ時にアリかナシかで決められるというのは何とも面白い見解です。家で見た面白いテレビ番組や父から習った変化球の握り方など、確かにそれをその後も興味の対象とし得たのは仲間の意見や賞賛があったからかもしれません。そうして家庭で学んだものを仲間集団というフルイにかけて、まるで確認をとりながら学びを進めていくかのようですね。
    そして仲間集団内だけでしか学べないものもあるということです。ヒトが一人で生きていけない理由がこのような所にもあり、また、だからこそホモ・サピエンスという種族が協力をして生きていったということなのだろうということを改めて感じさせます。

  4. これだけ集団に関しての研究がなされているということはどんな集団のどんな地位にたっていたものが将来成功し、社会的地位を高めていくのか。またその逆に将来落ちこぼれていく集団の地位というものがあるのか、それがとても気になります。ただ知ったところで我が子がその立ち位置を手に入れられるかどうかを保証してくれるわけではありませんが、家族構成にも当てはまるものがあるとすれば参考にしてみたいものです。

  5. 〝家庭では学ばないものといえば、人前でのふさわしい行動や、自分がいかなる人間であるかということなどだ〟とありました。この部分は例えば「みんなの前ではこうしなさい」や「こうしてればいいんだ」と親から教えてしまうといった行為も見受けられるのではないか、と読みながら思いました。時にそれは、親からみると良いことだと感じてしまうことであるのかもしれませんが、実は越権行為のようなものであるということなんですね。やはり、社会の中に身を置くことにより、社会の中での自分のことを学んでいくということになりますね。

  6. 家庭では学ぶことができないものに、「人前でのふさわしい行動や、自分がいかなる人間であるか」とありましたが、社会の中で人と関わることで自分が何者なのか、どんな役割があるのか、どんなことをしていきたいのか、などを考えるようになりました。親元を離れ、10年以上経ちますが、自分のことがどんどんわかってきているような感じはとてもあります。それは異年齢という社会の中だからこそ、よりわかりやすく、触れる価値観も様々だからだと思います。

  7. 家庭の特徴は同化と分化が起こる集団にあるということでしょうか。このことを考えてみると、西洋の文化と日本の文化とが大きく違うのも分かりますね。日本の場合は長屋があったりなど、隣の家族とも近く密集している環境であっても社会に触れやすい家屋の作りになっているのに対して、西洋の場合、堅牢なしっかりとした家屋であることが多いのではないでしょうか。そのため、日本の家庭環境は常に外との距離感が近く、集団と個の考えでいくと外の世界のほうがより近いように思います。そのため、社会性のトレーニングは社会の中に多分に多くあったのでしょうね。だからこそ、「連帯責任」といういかにも日本人的な考えの集団的意識が生まれてきたのでしょう。家庭のあり方も、日本の風土によってできたのではないかと考えると面白いですね。

  8. アジアの家族は分化もできれば同化もできるとあるように、日本人を含め、アジア圏の人は集団性に対して柔軟であると思いました。それと比べると西洋の国の人はやはり個人主義が強く、集団よりも個の主張を尊重し重んじるイメージがあり、それは家庭における家族の関係性にも通じるようですね。そのような特性は至る所で発揮されており、特にスポーツなどに関しては顕著に表れているように思えます。日本人は個人競技よりも集団競技の方が強いとよく言われますが、そういった所にも家庭における関係性が少なからず影響しているのではないかと感じます。

  9. 「家族」という集団一つでも世界では大きく違っていることが理解できます。自分がそうであるようにアジアは家族の繋がりを重要視するというのは分かります。個人の功績や自立を重視しないと書いてあるように、「皆さんのおかげです」という言葉がしっくり来ます。逆にアメリカ、ヨーロッパは個人主義というのも分かりやすいですね。世界で見ると「家庭では学ばないもの」というのは国によって違ってくる気がします。アジアではアメリカのような個人主義は学べないように、アメリカなどは集団というものは家庭では学べないように・・・。とは言え、人類は社会を形成し、生き延びてきたというのはベースがあるにも関わらず、違いが出てくるのは本当に面白いと思いました。
    なんだかコメントがブログの内容にリンクしていないような気がしました・・・。

  10. アジア文化の家族の捉え方として「人々には自分が家族の一員であるという意識がより強く、個人の功績や自立はさほど重視されません」とありました。このような感覚は日本人としてとても分かるような気がします。そして、反対に西洋では家族は集団として機能せずに、個人の集まりであるということ。この西洋と東洋の違いというのはとても興味深いですね。今、日本人には普通な感覚になってしまっている個人主義ですが、それが持ち込まれてしまったことで、やはり日本の文化とは合わないと様々な部分で都合が悪くなっているように思います。変わっていくものも大切ですが、変わらない方がいいもの、残していかなければならないものをしっかり見つめていきたいですね。

  11. 文化的背景も含めて、アジアと西洋の家庭の形から集団での自己の表し方には、様々なものがあるようですね。私たちが海外の文化に触れるとなると、なんだか違和感を感じてしまうこともそれに繋がっているのかなとも思います。家庭では学ばないものは、どうなんだろうと考えます。文化が違えば、集団の中での振る舞いや自己の立場を知ることが違うのかなとも考えられますが、社会集団にこそ、我々と彼らのような家族と集団の人の中での社会的なへ部分を知ることができると思えます。

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