きょうだい関係

伝統的な社会では、幼児は母親の腕から卒業すると主に兄や姉、異母きょうだい、いとこなどの親戚で形成される遊び集団に入ります。このような社会の慣行では、すぐ上のきょうだいがその幼児のお目付役となり、他は干渉しません。上のきょうだいは下のきょうだいが負うすべての傷の責任を負うことになります。ハリスは、その下のきょうだいとは、自分から母親の腕を奪ったその張本人であることを思い出してほしいと言います。母親の関心を数年間にわたり独占しつづけたその張本人なのです。

年長の子は年少の子を支配することを許され、もちろんそうするべきだとされます。年長の子どもが年少の子どもを支配するのは当然のことであり、伝統的な社会ではそれを阻止する動きもありません。なぜならかかる社会では公平であることにさほど関心がないからだとハリスは言います。

私たちの社会では、公平無私を貫こうとするときょうだい関係に問題が生じてきます。年長の子が年少の子を支配するのを親が防ごうとすれば、きょうだい間に猛烈な敵意が芽生えてしまいます。親が年長の子による支配を防ぐためには年少の子の味方になるしかないと言うのです。すると年長の子は、正しくは年長の子の多くは、親が弟や妹ばかりをかわいがると思いこんでしまうのだと言うのです。

5歳の子に3歳の子の面倒を見させろ、とハリスは言っているのではないと言います。少なくとも唐突にはそうさせるべきではないと言うのです。しかし、きょうだい間の何が問題なのかを知ると、おそらく年長の子のおかれた窮状をもう少し思いやってあげられるかもしれないと言います。親とはどの社会でも年長の子よりも年少の子に目がいくもので、年長の子はまず親の自分への関心を奪われます。それから年少の子をこき使えるという生得的な権利までも剥奪されてしまったのです。伝統的な社会では1勝1敗。私たちの社会では0勝2敗となると言うのです。

ハリスが以前、アフリカの幼い男の子がまだ赤ん坊だった弟を奪い取ろうとした巨大なチンパンジーを追って重傷を負った逸話を紹介していました。その男の子は、チンパンジーは殺して食べてしまうところだった赤ちゃんの命を救いましたが、ともすれば自分の命を落としかねませんでした。それから彼の母親は彼にふたたび赤ちゃんの弟の面倒を見させたのです。アメリカの親なら考えもしないことだとハリスは言います。その男の子は自分に課せられた責任の重さを真剣に受けとめていました。伝統的な社会ではきょうだいはライバルではありません。盟友なのです。

何が起こるかはわかりません。ある母親は子どもがビアノを習うことにさほど熱心ではなく、子どもは今も音符を読めません。別の母親も同じように熱心さに欠けていましたが、子どもは優秀なピアニストになりました。すべてが順調な子どもは成功への道を一直線に進みます。その一方で逆境に打ち勝ち、さらなる成功を手に入れる者もいます。変わった名前やたび重なる転居は子どもにとって難儀なことかもしれませんが、変わった名前や放浪好きの親をもつ子どもが時には大統領や詩人、著名な生物学者になることもあるのです。明敏な子どもばかりの学校に通わせれば、子どもの成績も上がります。しかし、ハリス自身はおごり高ぶった人の多い住宅地よりもアリゾナで過ごしたときの方が成績はよかったそうです。なぜなら、アリゾナの新しい学校での初日に生物学のテストで一番を取ったことから「天才」と呼ばれるようになったからだそうです。ハリスは、「そう、何が起こるかはわからない。」というのです。

きょうだい関係” への5件のコメント

  1. きょうだい間による平等の考え方で、「伝統的な社会では1勝1敗。私たちの社会では0勝2敗」という表現は面白いですね。親の関心を奪われるという、おそらく人生初めての心の砕かれ方を経験しつつ、年下の面倒を見るなどの自分が優位に立つこともできない現代は、長男長女にとって実に難しく居場所のない社会になっているということかもしれませんね。また、アフリカの逸話には驚きました。きょうだいが命あって戻ってこられた時、きっと親は心のそこから兄に感謝したでしょうね。責任が人を成長させるというのは理解していましたが、きっとその責任は他人から押し付けれたものではなく、自ら課したものであることが重要なのだろうなぁと感じました。大人ができることは、子どもたちが自ら考え、実行できる環境を用意することですね。何が起こるかわからない人生。不測の事態をいかに柔軟に対応したり、その過程を楽しみながら解決しようとするのか。豊かなものにするのは自分次第であるということを改めて感じました。

  2. 本日のブログを読みながら、そこはかとなく思い浮かんだワードは、アロペアレンティングのようなアロブラザーシスターフッド、ということでした。アロブラザーリングとかアロシスターリングと言ってもいいかもしれません。勝手に造語してみました。少子化であろうが、多子社会であろうが、実は子ども集団の関係性は、疑似兄弟姉妹関係なのではないのか、と思いついたのです。自分が子ども時分、地域の子ども集団の大将(実際義理の兄になりました)が私たち子ども集団をまとめていました。客観的にみれば、ガキ大将と子分たちという構図でしょうが、私たちにとっては、疑似兄弟という感覚はありました。「年長の子は年少の子を支配することを許され、もちろんそうするべきだとされます。」こうした関係を実際体験したのです。公平ではない人間社会の現実に対して、現今は、博愛平等、を理念として人類は生きはじめました。格差、差別、マイノリティー、等々の問題が良きにつけ悪しきにつけ顕在化してきたと思っています。さて、この先、どうなっていくのでしょうか。

  3. 公平や平等を謳っていた時代を経て、そもそも公平でなかったのだという気付きは、新しい価値観の創出のように思えてきます。今ある関係性の大元を辿れば、実はそれはとても自然なことであり、それについて大人が介入することではなく、子どもが子ども社会で学んでいくことこそがとても自然なことだと思えてきます。大人の操作がその子が生まれた時からあり、それは過干渉や無関心という操作であったりすると思うのですが、そういった歪んだ環境下で育った子どもたちがまともに過ごすということは、実はとても難しいことなのかもわかりません。

  4. きょうだい間の問題が書かれてありましたが、まさに我が家がその真っ最中だと思いました。長男が次男に食ってかかるようなことが毎日起こっています。そして、大人からみると、その光景は長男が次男にいじわるしているかのようにうつります。〝年長の子はまず親の自分への関心を奪われます。それから年少の子をこき使えるという生得的な権利までも剥奪されてしまった〟という部分で気づかされました。平等という考えはやはり難しいものです。
    嫁にもこの話しをしたいと思います。

  5. なにが起こるかわからないからこそ様々な特性をもった多くの人との関わりが必要なのでしょう。ある集団では大将を務め自分よりも年少のものをを引っ張り、またある集団では最もしたっぱとなり年長者の言うことを聞く。もちろん安心して自分の力を最も発揮できる、いわゆる帰る場所があることも子供にとっては大切でしょうが、どこでなにが起こるか、どんな状況に陥るかわからないといった環境が用意されているということほど贅沢なことなのかもしれませんね。

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