反証者に生まれて

ジュディ・ダンとロバート・プロミンは、1990年に出版されたきょうだい関係に関する著書の中で、自分たちの結論が「広く普及し、大事にされてきた考え方に反する」ことを認めながらも、「一般的に人々の性格および精神病理学上の違いは…その個人の出生順位と明確につながっているわけではない」と断言しているそうです。

このような断固たる発言は、一般市民のみならず、多くの社会科学者からも相手にされなかったようです。出生順位による影響の存在を信じる力は不死身で七転八起であることを示したのは、1996年に刊行された、アルバート・ソミット、アラン・アーウィン、スティーヴン・ピータースンの共著である出生順位と政治的態度に関する本でした。ソミットと仲間たちは「人々の間に深く根づいた信念には、本来合理的とはいえない要素がある」と述べ、「吸血鬼」すなわち出生順位による影響が存在するという信念を「永久に根絶する」には思い切った手段が、白昼堂々ととどめを刺すことが必要だと思い煩っていたそうです。

吸血鬼の根絶はなぜそれほど難しいのでしょうか。それは強力なお守り、魔法のシールド、すなわち子育て神話に守られているからだとハリスは考えています。心理学者もそうでない者も皆、子どもの性格はある程度生育環境により形づくられるものであり、そのほとんどは家庭内で行なわれるということを、当然のこととしてとらえてきたのです。子どもの家庭内での経験は、家族内での地位、すなわち長子か、末子か、それとも中間子かということに左右されることは明白であるため、研究者たちは出生順位が子どもの性格に一生残る痕跡を残すと信じて疑いもしません。彼らは仮説を立てることからはじめ、それが真実であることを示す証拠を求め、間違いは認めようとはしないのです。出生順位による影響への思いが消えることはありませんでした。吸血鬼は誰かにふたたびその蓋を開けてもらうのを待ちながら、棺桶の中で休んでいるのだとハリスは比喩します。

最近その蓋を開けたのが科学史研究家のフランク・サロウェイであり、出生順位による影響に関する彼の説は、著書『反逆者に生まれて』の中で展開されているそうです。サロウェイの説は非常に精巧に練り上げられていて、同一家族内の子どもたちがうりふたつにはならないという行動遺伝学的発見を進化心理学的観点から説明しています。きょうだいは親の関心を引こうと競い合うものであり、それぞれが他方との区別化を図ることで、つまりそれぞれが別々の専門分野をもつことで、家族内に別々の適所を求めるものである、とサロウェイは指摘したのです。この区別化は子どもたち自身の戦略を反映するものであり、親から押しつけられたものではありません。いずれにしても直接そうされたものではないのです。これらすべての点において、ハリスはサロウェイに賛成だと表明しています。さらに彼は『反逆者に生まれて』の中で、多種多様な情報源を駆使して、その自説を裏づけしようと目を見張るほどのデータを掲示しているそうです。

ハリスは、彼における前提は似ていたのですが、まもなく別の道を歩むことになったそうです。サロウェイは成人後の性格の違いを家族内の適所選びという観点から説明しています。以前紹介したように、彼は、第一子は行き詰まった頑固者で、第二子以降は新しい経験や考えを積極的に取り入れるとしたのです。第一子は神経質で攻撃的、上昇志向が強く、嫉妬深い。第二子以降はのんきでやさしいといいます。サロウェイ自身はもちろん第二子以降です。それに対してハリスは第一子です。しかし、ハリスは、「反証者に生まれて」きたというのにと言います。

出生順位による影響

ハリスは、「子育ての大誤解」という書物の中でこう締めくくります。

「子ども時代を振り返ったとき、頭に思い浮かぶのは親です。責任を押しつけたいのなら、心の中の人間関係を司る領域にすべきだ」

そして、「あなたに悪いところがあるとしても、決してそれを親のせいにしてはならない。」と結論付けています。それは、親は子どもには責任がないとか、影響はないということではなく、子どもたちの育ちにはその子の環境としての子ども集団の影響が大きいということを言っているのです。私は、親が影響するかしないかという点よりも、子ども集団が子どもたちにどのように影響するのか、また、その関係が将来社会に出た時にどのように影響するかに興味があります。それは、保育者の子どもへの影響と、子ども集団の影響がどのように社会に出た時に作用するかということが興味あるからです。

しかし、現代でも親信仰が強いだけでなく、保育者がどう子どもと関わるかだけに焦点をあて、子ども集団をどのように構築するかという点には言及しない場合が多いからです。子どもを見守ると言うと、どこまで見ていて、どこから介入するかという点に対する議論が多く、子ども同士がどのようにかかわるかという点は議論に出てきません。それは、ハリスが指摘するように、子ども同士のかかわりについての研究が少ないからです。

ハリスは、子育て信仰に疑問を呈するために、さらにいくつかの研究を考察しています。まず、子どもが第何子であるかが、その子の性格などにどのような影響を与えているかという点について検討しています。

最初の問いかけは、「第一子は自分が特別であるという意識を一生もちつづけるのだろうか。」というものです。兄や姉の下で育った者はより反逆しやすいとも言われていますが、それは本当なのでしょうか。これらは、きょうだいのいる者なら誰もが関心をもち、社会科学の研究者にとっては理論的にも大きな意味をもつテーマだそうです。100年近くもの間、アルフレッド・アドラーからロバート・ザイヨンスまで、さまざまな心理学者が出生順位にかかわる仮説、すなわち第一子と第二子以降に生まれた子どもたちでは性格、知能、創造性、反逆心といった特徴に違いがあるということを立証しようとしてきたそうです。いわゆる出生順位による影響です。

実際、この違いはしばしば見られることは確かです。しかし、結局それは見せかけだけであったり、もしくは思い違いとして終わるのが通例だとハリスは言うのです。出生順位による影響を裏づける証拠は、鼓吹する自説をもたない人たちによってそのデータが逐一吟味され、繰り返し叩ぎつぶされてきたのです。

データを逐一吟味した人々は、自ら下した結論が読者の期待に反していることを認識していたため、論文中には感嘆符やイタリック体をちりばめた。1972年に《サイコロジカル・ブリトゥン》に掲載されたカーミ・ショーラーの論文の題名は「出生順位による影響―今ここには存在しない!」でした。セシル・エルンストとジュール・アングストは1983年に出

版された著書の中で、「出生順位ときょうだい数は性格に強く影響することはない。…深く関与していると考えられてきた環境的要困の一つはこうして、性格や行動を予測するものとしての役割を剥奪されたことになる」と断言しているそうです。

人間関係の記憶

霊長類の社会生活はさらに複雑です。霊長類もまた自分の行動を集団のそれに順応させますが、彼らは自分の生活にかかわりのある個人に関しては、その動きに注目します。助けを必要としたときにコミュニティのどのメンバーなら当てにできるか、どのメンバーを避けるべきかを知る必要があります。この才能は私たちの種で花開いたものだと言われています。人間は誰が親切にしてくれたか、誰に親切の借りがあるかを記億しているのです。誰なら信用できて、誰なら信用できないかを個人の経験と口伝えで知るのです。自分に悪事をはたらいた者に、時には一生ずっと恨みをいだき、報復の機会をうかがうのです。また、悪事をはたらいた本人も、その被害者を忘れるわけにはいきません。私たちは人に関しての記憶がすこぶるよいと言われています。私たちの脳の中には人の顔を認識することにすべてを捧げる特別な領域があるのだそうです。

昔から言われてきた「情けは人の為ならず」と言う言葉も、「因果応報」と言う言葉も、人間は誰が親切にしてくれたか、誰に親切の借りがあるかを記億しているという特性を言い表したものかもしれません。

人間関係を記憶する領域は意識とつながっているそうです。個人の行動を所属集団の行動に順応させる心の中の領域は、重要でないわけではありませんが、意識とのつながりは薄いそうです。その作用の多くは、ガラスのコップをもち上げることを可能にする筋肉運動のように、不随意に行なわれるものなのです。

世界に関するデータのほとんどは、私たちが無意識的に集めたものです。自分が知っていることの多くについてはなぜそれらを知っているのか自分でもわかりません。ただ知っているだけなのだと言うのです。子どもたちは赤い果実は青いものよりも甘いことを知っていて、どちらかを選ばせると赤い方を選ぶのですが、その理由はわかっていないそうです。テータの収集、カテゴリーの構築、さらにカテゴリー内のデータを平均する作業はすべて意識よりも下のレベルで行なわれるのだそうです。

ハリスが今まで言及してきた過程は概して意識よりも下のレベルで行なわれるものです。私たちは自らをある人間の集団と同一視します。その人たちのように話し、行動することを身につけます。彼らの態度を模倣します。異なる社会状況に話し方や行動を順応させます。自分の所属集団や他集団のステレオタイプをつくり出します。これらは意識下におくこともできるのですが、そこは安住の地ではないとハリスは言います。ハリスは、子どもたちが気づくこともなく、意識的に努力することもなく行なうことについて言及してきました。子どもたちは心のもっとも使い勝手のよい部分を使って他のことを自由に行なうことができるようにしむけていると言うのです。

集団と個人的な人間関係。それらはともに私たちにとって重要ですが、どのように重要なのかはそれぞれで異なります。仲間との子ども時代の経験と、家庭での親との経験は、違った形で私たちにとって重要なのだと言うのです。

親子間の絆は一生つづきます。私たちは一度ではなく、何度も親に別れを告げるのです。それでも決して彼らを忘れたりはしません。わが家に戻るたびに家族の思い出が引き出され、それに浸る機会が与えられるのです。その間は子ども時代の友人についてはあっさりと忘れ去られてしまっていて、校庭で何が起きたかは記憶から消えてしまうのです。

子ども時代を振り返ったとき、頭に思い浮かぶのは親です。責任を押しつけたいのなら、心の中の人間関係を司る領域にすべきだとハリスは言うのです。それはあなたの考えや思い出を不当なほど多く奪ってしまっているのだと言うのです。

「あなたに悪いところがあるとしても、決してそれを親のせいにしてはならない。」とハリスは忠告します。

心の仕組み

子ども時代および思春期の仲間集団での経験は、子どもたちの性格に変化を与えますが、彼らはその変化を成人になってももちつづけることになります。ハリスらによる集団社会化説は次のように考えます。仮に家庭とは別の世界、すなわち学校や近隣社会はそのままにして親の配置をすべて入れ換えても、子どもたちは同じような大人になります。何をぼんやり考えているのか科学的な証拠に基づく議論だけでは、あなたの考え方を変えることはできません。子育て神話信奉は冷淡な科学に基づくものではなく、感情や考え方、そして思い出に基づいていると言うのです。そしてこんな疑問を投げかけています。もしあなたの親が自分の歴史にとって重要ではないのなら、もし彼らが強力な影響を及ぼしていないのなら、なぜ子ども時代の思い出やそれ以降心の奥にしまってきた思い出の多くにおいて親は主役を務めているのでしょうか。なぜ彼らのことが頭から離れないのでしょうか。

『心の仕組み』の中で、進化心理学者スティーヴン・ピンカーは、意識はいくつかの情報とつながってはいるものの、それ以外の情報とはつながっていないと述べているそうです。

「“なに考えてるんだい”と聞かれれば、ぼんやり空想していたことの内容、その日なにをするつもりかの計画、ここが痛い、ここがかゆい、目の前にはこんな色、形、音がある、などを答えることができる。しかし、自分の胃のなかに隠れている酵素、いま現在の心拍数や呼吸回数、二次元の網膜から三次元の形を復元するときの脳の演算、話し言葉の単語を配列する統語規則、グラスをもち上げるときの筋肉収縮の順序、などを答えることはできない。」(椋田直子訳/ちくま学芸文庫)

空想やかゆいところが、三次元の体を復元するときの脳の演算や文法的に正しい文章を話すことやガラスのコップをもち上げることよりも重要だということではないと言います。たんに、これらのいくつかは意識とつながり、つながっていないものもあるということだと言うのです。

ビンカーや他の進化心理学者によると心の仕組みはいくつかのモジュールから成り立っていると言います。心は、それぞれが独自にデータを集めて報告書をつくり指令を出す多くの専門分野によって構成されていると言うのです。肺は血液に酸素を送り、心臓がそれを体中にめぐらせるというように肉体がそれぞれ決まったはたらきをする器官で組織されるように、心もまた心的器官、モジュール、もしくは領域で組織されています。ある領域が世界を三次元空間として見ることを可能にしてくれますし、別の領域ではガラスのコップをもち上げることを可能にしてくれるのです。心の領域の中には意識とつながりのある報告書をつくる領域もあれば、それをつくらない領域もあるのです。

人間の心には社会的行動を司る少なくとも二つの異なる領域があると言われています。一つは個人的な関係にかかわる領域、もう一つは集団にかかわる領域です。

集団にかかわる領域には長い歴史があり、多くの種で確認できるそうです。たとえば、魚は群れをなして泳ぎます。魚は自分の行動を集団の行動に順応させますが、同じ群れの仲間を認識することはありません。オスとメス、大きい魚と小さい魚、同種か異種かくらいは区別するのでしょう、特定の個体に関しては自分の子どもさえも覚えないそうです。

仲間の話す言語

現代の子どもたちは親から学んだこと、家庭で学んだことを集団にもちこみます。親が教えた言語はもしそれが他の子どもたちの話す言語と一致すればそのまま保持されることになります。文化の他の側面に関しても同様です。ほとんどの子どもたちは文化的に均質な近隣社会で育つため、すなわち自分の親が仲間の親と同じ言語を操り同じ文化をもつため、家庭で学んだ話との多くを保持することになります。これだけでは親が文化の伝達者であるような印象を与えてしまいますが、そうではないとハリスは言います。伝達者は仲間集団なのです。もし仲間集団の文化が親の文化と異なる場合、勝つのは仲間集団の文化と決まっているのです。移民や聾者を親にもつ子どもは必ず仲間の話す言語を身につけるようになり、親が教えた言語よりもそれを好むようになるのです。それが彼女にとっての母語となるのです。

その様子は保育園児くらいの低年齢から見ることができるとハリスは言います。三歳の子どもが家庭に仲間の訛りをもち帰ります。おそらくもっと幼い頃からはじまっているのではないかとハリスは言っています。もちろん現場では私たちはそのことを実感していますが、ハリスは心理学者スーザン・サヴェージとテリー・キット=フォン・ウが最近の《チャイルド・ディヴェロップメント》で次のような逸話を書いているのを紹介しています。

「私たちの知っている赤ちゃんはかなり幼い頃からジレンマに直面していた。およそ12カ月の頃から彼女は親に「ナイ、ナイ!」(中国語でミルクを意味する)と言うことで、かなりの確率で要求が叶えられてきた。ところが彼女は託児所の他の赤ちゃんたちが「バー、バー」と言うことで、ミルクが与えられていることに気づき、生後15カ月でそれに従うようになった。二重の生活を営むことは彼女にとっては負担が大きすぎたようだ。数日後、彼女の母親が「ナイ、ナイ?」と聞いたところ、彼女は首を勢いよく振り、はっきりと「バー、バー」と言った。

仮に親が仲間の親と同じ文化に属していても、だからといって子どもたちは安心して家庭で身につけた行動を外にもち出せるわけではないのです。男の子は家庭では泣き言を言っても、愚痴をこぼしても罰せられることはないし、不安であることも愛情も表に出すことができます。ところが仲間集団では、タフでクールであることが求められます。そのタフでクールな性格が彼の公の性格となり、彼はそれをもったまま成人するのです。もっとも家庭で身につけた性格も完全に姿を消すわけではありません。まるで過去のクリスマスの精霊のようにクリスマスを祝う食卓に現われたりするとハリスは比喩しています。

ハリスはこんな説明をしています。子ども時代や思春期の仲間集団では、仲間の行動や態度を真似て、性別や人種、社会階級、性癖や関心の異なる他の集団のメンバーたちと、自分自身を対比させます。こうした集団の違いは拡大することになるのです。なぜなら各集団のメンパーたちは自分の集団が一番だと思い、必死になって他集団との差別化を図るからです。集団内の差もまた拡大し、とりわけ他集団との競争が沈静化しているときに拡大します。子どもたちがある点では仲間に似るようになると同時に、他の点ではより特殊性が目立つようになります。子どもたちは同じ集団の子どもたちと自分とを比較し、自己を知るのです。集団内の地位を求めて競い合います。勝つか負けるかです。仲間によって役まわりを決められてしまうこともあります。彼らはそれぞれ異なる適所を選ぶか、もしくは選ばれてしまいます。一卵性双生児は仮に二人が同じ仲間集団に属していても性格まで同じにはなりません。なぜなら彼らはそれぞれ集団内でも異なる経験をするからです。

自然な環境

第五の誤りは、私たちの進化の歴史を、そして何百万年もの間祖先が集団で生活していた事実を無視してきたことだとハリスは考えています。集団であったからこそ、牙も鉤爪もない繊細な生命体が牙や鉤爪だらけの環境の中で生き延びることができたのです。しかし、動物に襲われることが最大の脅威ではありませんでした。彼らの世界で最も危険だったのは他の集団のメンバーたちでした。それは今も変わらないとハリスは言います。

集団は子どもたちにとって自然な環境だとハリスは言います。その仮定をもとにあらゆる方向に話を進めることができるのです。子ども時代を、若者が所属集団に受け入れられて尊重される一員へと変化を遂げる時期だと考えてみます。なぜなら、先祖の時代にはそれが求められていたからです。

子ども時代に子どもたちは自分の社会の中でも同年齢、同性の人たちがどのように行動しているかを学習します。社会化とは自分の行動を自分の社会的カテゴリーの他メンバーたちの行動に合わせる過程をいいます。E・アニー・プルーの小説『港湾ニュース』の中で父親がその叔母から下の娘の奇妙さをあまり心配するなと諭される場面があるそうです。

「しばらく待ってごらん。様子を見るんだ。学校が始まるのは九月だろう。三か月は子どもにとっては長い時間だよ。私もあの子が変わっているとは思う。ちょっとおかしいときもある。でも、私たちみんなどこかおかしいんだよ。そうじゃないふりをしているけどね。中身はみんなおかしいんだ。それが大人になるにつれて、自分の変なところを隠すようになるんだよ。バニーはまだそれをしていないんだ」(上岡伸雄訳/集英社)

私たちは自分の変なところを隠すようになります。社会化によって奇妙さは薄められますが、その仮面は年々もろくなります。ハリスは社会化を砂時計のようなものだと考えています。まったく共通点のない個人の集まりが、ともに押しこまれるときに集団の圧力によってお互いの類似性が増します。そして成人となり、その圧力が徐々にゆるまり、個人間の違いがふたたび浮かび上がってきます。年齢とともに人の特異さが増すのは、自分の変なところを隠そうと思わなくなるからだと言うのです。他者と違っていることへの制裁はさほど残酷でもなくなるのです。

子どもたちは自分に似た人たちで形成される集団と自分を同一視し、その集団の規範を身につけます。親と同一視しないのは、親は自分たちと同類ではないから、つまり彼らは大人だからです。子どもたちは自分自身を子どもとして見ます。人数が十分に揃っていれば、女の子、もしくは男の子として自分をとらえ、その集団の中でこそ社会化を果たすのです。今日の先進社会では子どもたちが同平齢ばかり同性ばかりの集団を形成できることから、社会化のほとんどはそのような集団内で行なわれます。昔、地球上の人口がまだまばらだった頃は、子どもたちは年齢的にも性別的にも混合した集団で社会化を果たしたのです。

親子聞の絆はどの時代にもありましたが、今日見るような激しくまた自責の念にかられたような親の姿勢は先例がありません。子どもたちが学校には通わない社会や、育児アドバイザーたちがまだ入りこんでいないような社会では、子どもたちは学ぶべき知恵を他の子どもたちから学びます。親の姿勢はあるところでは厳しすぎ、別のところでは甘すぎるといったように、文化により大きく異なりますが、子ども集団は世界中のどこででもそう変わりはありません。だからこそ、親が『スポック博士の育児書』を読まなくても、子どもたちはどの社会においても社会化を果たすことができるのだとハリスは言います。親が『おやすみなさいおつきさま』を読み聞かせしなくても、どの社会においても彼らの脳は正常に発達するのです。

間違った答え

子どもたちは成長過程での経験によってどのように形づくられるのでしょうか。答えを提供するために子育て神話がうまれたとはハリスは見ています。しかしその答えは間違っていると言うのです。なぜなら、それは子どもたちに関するいくつかの誤りの上に成り立っているからだと言うのです。

第一の誤りは子どもの環境です。子どもにとって自然な環境とは核家族であると考えられてきました。それは20世紀前半にあまりに多くの人々が傾倒した家族編成の形です。母親と父親、そして二、三人の子どもたちが個人の家で和気あいあいと暮らす。しかし、この編成の形はとりわけ自然なわけでもなんでもないのです。核家族の分離独立性、すなわち彼らが近隣の詮索好きな視線を気にすることなく日々の活動に従事できるようになったのは、最近のことであってわずか数百年の歴史しかないのです。男女一人ずつの一夫一婦的なつながりもまた新しい趣向です。人類学者の知るところの文化の85パーセントでは、男性は経済的に可能であれば複数の妻をもつことができました。一夫多妻制は私たち人類において古来からの、そして広く行きわたった制度なのです。子どもたちはしばしば、父の他の妻たちの子どもたちと父親を共有するよう強いられました。そうでなければ今日両親の離婚が多いのと同じように、当時は親の死が頻繁だったことから、父親もしくは母親なしで育つことを余儀なくされたのです。

第二の誤りは、社会化の本質と関係しているとハリスは言います。子どもとは自分の属する社会のその他全員のように行動することを学習するわけではないのです。なぜなら社会のその他全員が皆同じように行動するわけではないからですだ。どの社会においても、ふさわしいとされる行動は、子どもか大人か、男性か女性かに応じて異なります。子どもたちは自分が属する社会的カテゴリーの他のメンバーたちのように行動することを学習しなければなりません。ほとんどの場合、彼らは自発的にそれを行ないます。社会化とは大人が子どもに施すものではなく、子どもたちが自分自身に施すものなのだと言うのです。

第三の誤りは学習の本質と関係しているとハリスは考えています。学習された行動は、たとえば家庭から校庭へというようにある場所から別の場所へとまるでリュックサックのようにもち歩くものだと考えられてきました。しかしながら、どの年齢の人たちも異なる社会的状況では異なった行動をとるということは明らかになっていました。彼らが行動を変えるのは、ある場所では称賛され、別の場所では笑いものにされるように、それぞれでの彼らの経験が異なるからであり、そのために異なる行動をとることが要求されるからだと言うのです。またこれも間違った見解ですが、もし子どもたちの家庭での行動と校庭での行動が異なる場合、家庭での行動こそが子どもの将来を左右すると考えられてきたのです。

第四の誤りは生まれ、すなわち遺伝の本質と関係しているとハリスは考えています。別々に育てられた一卵性双生児が成人後に再会したとき、二人とも両サイドにポケットがあって、肩章のついた青いシャツを着ていたという話は周知のことであるにもかかわらず、遺伝子の力には今もなお認められるべき地位が認められていないと言います。フィリップ・ラーキンは自分の欠点の多くは親の欠点でもあることに気づきましたが、だからといってそれらが遺伝的に受け継がれたものであるとは考えなかったようです。それは自分の誕生後に親が彼に施したものだと思ったのです。

理論家

子育て神話にとって有利であると思われながらそうならなかったのが出生順位だとハリスは言います。親は第一子とそれ以降に生まれた子どもたちとを区別して扱いますが、その扱い方に違いが生じるのは、子どもたちの生得的な特徴の違いに反応しているだけではありません。それでも研究者たちはこの半世紀もの間、出生順位が性格に永続的な跡を残すという確固たる証拠を追究しつづけていますが、彼らのその努力はいまだ結実していません。また一人っ子ときょうだいのいる子との間に性格的な違いがあることを示そうとする試みにもいまだ成功例はありません。もし親が子どもたちに重大な影響を及ぼすのであれば、なぜ彼らは一人っ子の性格をだめにしてしまわないのでしょうか。

この二つの期待が外れたことで、すなわち出生順位による影響も、一人っ子であることの影響もないとなれば、子育て神話を支えていた最後の柱も危うくなるでしょう。

それでもまだ崩れ落ちません。何かがまだそれを支えているようだとハリスは言います。そうです。「行動遺伝学的証拠、すなわち家庭環境全体は予測しうる影響を何も及ぼさないことを示すデータは、さまざまな家庭環境すべてを網羅していない」という主張です。問題は被験者全員が「十分に好ましい」家庭、すなわち正常という範囲に入る家庭の出身者である点です。理論家の中には、正常で十分に好ましいという範囲内の家庭であれば、子どもはどの家庭で育っても同じように育つと公言する者もいます。しかし彼らでさえも、正常という範囲を逸脱した家庭、それはすなわち極端に粗悪な家庭であるが、そうした家庭は子どもに影響を及ぼすという認識を捨ててはいません。

彼らが言おうとしているのは、彼らがデータを集めた家庭の範囲全体においては、家庭の好ましさと子どもの好ましさの間にはなんら関連性はないということです。その範囲とは「優れている」からはじまり、「粗悪」を通って「ひどい」の少し手前までを指します。関連性を導き出せるとすれば、彼らがデータをもっていないほんの一握りの家庭だけです。これまでに彼らが集めたかなりの数の証拠は、的外れなものか、子育て神話が間違っていることを示唆するもの、そのどちらかでした。しかし、まだ集めていない証拠もわずかにあり、それらこそが子育て神話が正しいことを立証してくれると彼らは信じているのです。

何とも危なげな支柱ではあります。私たちのように普通で、ありふれた親は、子どもたちにきわだった影響は及ぼしません。すなわち私たちは工場の作業員のように互換性があるということです。きわだった影響を及ぼす唯一の親とは、入院が必要となるくらいまで子どもをひどく虐待する親、かえられることのないおむつや腐った食べ物の悪臭漂う寒いアパートで子どもを放置するような超粗悪な親です。これが薄いなりにも、子育て神話の最後の砦となっているのです。家庭環境はそこで育つ子どもたちに一生残る損傷を負わせるほどに粗悪な場合もある、と。

子育て神話の支持者たちには、超粗悪と評されるごく少数の家庭に関しては彼らの考え方も当てはまるかもしれないという、薄いなりにも残された最後の砦を、そのまま守っていてもらおうとハリスは言います。しかしその彼らの考え方は大半の家族には当てはまらないのです。そんな極端な例をもってして、世間一般の望みどおりに育たなかった子をもつ普通の親を攻撃してもよいという正当な理由は、どこにもないのです。

家庭環境の影響

家庭はそこで育つ子どもたちに一体どのような作用を及ぼしているのでしょうか。このことを発見し、発見したことにより苦境に立たされることになったのが行動遺伝学者たちです。というのも彼らも他の皆と同様に、家庭環境が重要だと考えていたからです。そこで案出したのが、「家庭の中で大きな影響力をもっているのはそこに住む子ども同士の相違点である」という考え方です。きょうだい同士で共有するものはどのような大人になるかを左右するものではなく、少なくとも予見しうる影響はないことが証明されているとしたのです。そのため、きょうだい間で共有しないものから子育て神話を証明する責任が重くのしかかることになったのです。

これは聞こえほど無理難題ではないとハリスは言います。実際、親が子どもたち一人一人を同じように扱わなければいけない理由はありません。よき親なら子どもたち一人一人が独自性のある人間になってほしいと思うべきではないでしょうか。それぞれが最も得意とすることをしてほしいと望むべき子ではないでしょうか。これは親の姿勢をマルクス主義的にとらえた見解だと言います。「人はその能力に応じて働き、その必要に応じて受け取る」

実際、ある程度までではありますが、それは正しいとハリスは言います。確かに親は、少なくともいくぶんかは子どもたちそれぞれが違う人間になってほしいと望むべきです。一人目が活動的で話し好きであれば、次はおとなしい子を歓迎するでしょう。もし一人目がピアノ好きであれば、二人目ですが、だからといって二人目がチューバをはじめてくれれば大満足でしょう。しかし、だからといって二人目が懸賞金目当ての拳闘選手や麻薬売人になっても同じように喜べるわけではありません。わが家の二人目が大きくなるにつれ、ハリスは彼女の夫と「成績優秀者はすでに一人いるから、それを繰り返すことはない。二人目には何か別なことをさせよう」などと話し合ったわけではないと言います。逆に二人ともが学者になったとしても、そうした退屈さも悪くはなかっただろうと振り返ります。親がどんな子どもにももっていてもらいたいと望む特質がいくつかあると言います。やさしさ、良心、知性。これ以外の特質に関しては適度な範囲でばらつきがあっていいと親は思っていると言います。しかし、全員に望む特質に関しても、ばらついてもよい特質に関しても、言えることは一つ。家庭環境が長期的な影響を及ぼす証拠は何一つないということだと言うのです。

親は子どもによって扱い方を変えるし、子どもも一人一人違うものです。この二つの事実に関しては疑う余地もありません。しかし行動遺伝学者が子育て神話を支持しつづけるには、親の行動の違いが子どもたちの違いを引き起こしていること、もしくはそれに関与していること、それらが既存の違いに反応しているだけではないことを示さなければならないのです。しかし、いまだそれにはいたっていないようです。それどころか、親が子どもを扱うその方法は子どもたち自身の違いよりも実際には均質である、すなわちきょうだい二人の行動は親が彼ら一人一人を扱うその方法よりもかけ離れているという証拠が見つかっているそうです。

重大な影響

子育て神話はまた、科学的追究の進歩を遅らせてしまったと言います。有用な調査報告の代わりに、無意味な研究、親の溜息と子どものあくびとの相関関係を示すような退屈な研究が増殖しました。研究者たちが注目すべきこと、彼らが求めるべき答えは次のようなものであるはずだと言います。どうしたらクラスの子どもたちを学校肯定派と学校反対派という相反する集団に分裂させずに保つことができるのでしょうか。この分裂を防いで子どもたちをまとめあげ、やる気のある状態に保つことに成功した教師、学校、文化は、いかなる方法を用いたのでしょうか。もともと不利な性格特性をもっている子が、その特性を悪化させるのを防ぐ方法とは何なのでしょうか。攻撃的な子どもが、子ども時代には同輩から拒絶され、思春期には、同じ経験をもつ他の子どもたちと集うようになってますます攻撃的になるという悪循環に飲みこまれてしまったら、それを止めるにはどうすればいいのでしょうか。子ども集団の規範を改善させるために、はたらきかける方法はあるのでしょうか。より大きな文化がティーンエイジャーの集団の規範にすこぶる有害な作用を引き起こすのを防く方法はあるのでしょうか。何人揃えば集団が形成されるのでしょうか。

ハリスは、こうした質問に答えることはしてきませんでした。そのための研究はいまだかつて行なわれたことがないからです。

子育て神話によると、親は子どもがどう育つかに重大な影響を及ぼすと考えます。そう、「重大な影響を」です。私たちはここかしこでのIQのことを話題にするわけでも、100項目にも及ぶ質問に一つでも肯定的な解答を増やすことを話題にするわけでもないのです。私たちの話題とは、子どもが人気者になるかそれとも友だちをもたない者になるのか、大学を卒業するか高校を中退するか、神経質になるかそれとも十分に適応できるか、処女でいられるかそれとも妊娠するか、だと言うのです。人がどう行動するか、どれだけ望ましい生活が送れるかを左右する心理的特徴、自分から見ても、また自分と生活や仕事をともにする人々から見ても目につく特徴のことを話題にするのです。それは、一生あなたにつきまとう特徴です。そういうふうに人は考えます。親は子どもに大きく影響する、しかも一生残るような影響を、と。

しかし仮に親が影響を及ぼすことがあっても、その内容は子ども一人一人によって異なるはずだとハリスは言います。なぜなら子ども同士で共有する遺伝子による類似性を取り除くと、同じ親に育てられた子どもでもそっくりにはならないからです。同じ家庭で育てられた二人の養子は別々の家庭で育てられた二人の養子とその性格的な類似性は変わらないのです。同じ家庭で育てられた一卵性双生児は、別々の家庭で育てられた一卵性双生児とその類似性は変わらないのです。家庭はそこで育つ子どもたちに一体どのような作用を及ぼしているのでしょうか。それが何であれ、それは子どもたちをより良心的にするわけでも、社交性を低下させるわけでも、攻撃性を強めるわけでも、不安を取り除くわけでも、幸せな結婚生活を送る可能性を高めてくれるわけでもありません。少なくとも家庭は子どもたち全員に対してこれらを施しているわけではないのです。