監督不行き届き

赤ちゃんには間違いなく親や親代わりが必要です。ところが親や親代わりとなる者は、孤児院で育てられた子どもに関してハリスが考察したように、5,6歳以上の子どもにとっては不要なのかもしれないと考えています。年長の子どもたちにとっては、安定した仲間集団のほうがより重要なのかもしれないというのです。里子制度は子どもには家族が必要だという理論に基づいています。しかしハリスは、彼らは家族以上に安定した仲間集団を必要としていると考えています。家族を与えようとした結果、そして場合によってはそれを何度も繰り返した結果、善意の斡旋者たちは彼らから仲間を奪うことになっているというのです。

ハリスは前にも言っていますが、虐待を受-ける子どもたちはさまざまな問題をかかえています。概して彼らは他の子どもたちよりも攻撃的ですが、それは遺伝に原因があるのかもしれないのです。彼らを虐待している親もまた攻撃的です。彼らがかかえる他の問題については、親による虐待ではなく仲間による虐待に、もしくは転居をあまりにも繰り返すことに原因があるのかもしれないのです。それは知る由もないとハリスは言いまう。そのためのふさわしい研究はまだ一度も行なわれていないからだというのです。

ハリスは、ニュースで流れることも多く、そのたびに腹立たしく思うことがあると言います。それは、「子どもが問題を起こせば、親がその責任を問われる」ということです。スミス家の子どもが問題を起こし、判事は彼の親を刑務所に送りこもうとするのです。ジョーンズ家の子どもが強盗を企み、彼の行動への「監督不行き届き」として親が罰金を科せられるのです。ウィリアムズ家の娘が妊娠すれば、彼女の親が彼女の行動を監視していなかったとして非難されるのです。ある両親はティーンエイジの娘に問題を起こさせまいとするあまり、その娘を暖房機に鎖で縛りつけました。その親は児童虐待の罪で逮捕されたのです。

親に責任を問うのは、親の経験のない者にとっては簡単なことだとハリスは言います。暖房機に子どもを鎖で縛りつけることが唯一残された手段となる場合もあるのです。それなりに健全なティーンエイジャーを子どもにもつ親は、子どもの活動を監視できるかどうかは子ども自身が監視されることを快く受け入れるかどうかに大きく左右されることを知らないというのです。監視されることを嫌うティーンエイジャーを監視することはできないというのです。ハリスと彼女の夫は、自らの体験からそう思い知らされたと言います。子どもたちはその気になればいつでも親を騙すことができるのです。外出を禁じ、規則を守らせようとすると、まったく家に帰ってこなくなるのです。お小遣いをあげなくなると、友人にたかったり、盗んだりします。監視できる青少年はそれを快く受けとめる者たちで、彼らはそもそも監視を必要としません。監視が最も必要な青少年を監視するには、親の力は驚くほど貧弱だというのです。

監視を最も必要とするのは、親の気に入らない仲間集団に子どもが属している場合です。親は自分の子どもにはその集団とかかわってほしくないと思います。しかし、親には一体何ができるのでしょうか。彼らは子どもの友人であり、親がどう思おうと子どもは彼らに会うのです。普通のティーンエイジャーなら誰でも親よりは友だちと一緒に過ごしたいものだからです。だからこそ親は門限を決めるのです。門限とは、ティーンエイジャーは家庭よりも別の場所を好むことを親が暗黙のうちに了承している証だというのです。親はこうした立場には許容的で、自分の友人たちとそのことで冗談を言いあいます。もっともそれは子どもの友人たちに文句がない場合の話です。文句があるようだと冗談どころではなくなるのです。

監督不行き届き” への5件のコメント

  1. 日本でも、世間的に非常識と言われる行動をある子どもがとった場合、周囲の人々が「あの子の親の顔が見てみたい」と思う文化は残っているように思います。ハリスの言う「5,6歳以上の子どもにとっては不要なのかもしれない」というように、親や親代わりを必要としなくても、子どもは問題がないことが通説になれば、世の中は大きく変化するでしょうね。そうなると、親や親代わりがしなくてはならないのは、5、6歳までに今後必要になる能力の基礎や基盤の構築ということになるのでしょうね。それが、生きる力、EQ、SQと言われるもののような気がしました。

  2. 芸能人の子が犯罪に手を染めるたびにその芸能人がテレビカメラの前に現れ、謝罪会見をしている場面を時々目にします。私たち一般人も好奇のまなざしをその芸能人に注ぎます。しかし一方でハリス女史同様「子どもが問題を起こせば、親がその責任を問われる」というところに疑問が生じないわけでもないのです。親になってわかることは、子どもが何かしでかしたらそれは自分たちの子育ての結果だろうと素直に信じこんでいる自分たちがいる、ということです。そうした文化的雰囲気の中で私たちが暮らしているからそう思うようになってきているのか。「親の因果が子に報い」などというフレーズをすぐに思い出せる自分などは親の責任という刷り込みを十二分に持っているからでしょう。自分の子のことはさておいても、他人様の子が何かしでかした時には親の責任と思うよりその子の周囲環境の問題点の方に目を向け、問題の所在を見誤らないようにしないといけないと思ったところです。

  3. 子を持つ親として、子どもがどんな大人になっていくのかはとても気になるところです。甘過ぎでもなく、辛過ぎでもない、その中庸を目指して夫婦手を取り合いながら毎日を過ごしているつもりでいますが、子どもが犯罪を犯せばたちまち自分たちの重ねてきた日々は無意味だったどころか、悪だったのだと自分たちを責めることでしょう。しかしながら真実は仲間集団にあるのです。改めて仲間に恵まれることを祈るような気持ちが湧いてくると同時に、そういうツキを得られるように、夫婦運勢の上がる生き方を心掛けていけたらと思いました。

  4. いきすぎた正義は人を狂わすということですね。娘を暖房機に縛り付けた親はきっと娘のことが嫌いなわけではなかったはずです。それでもそのような行動をとってしまうというのは周囲からの目や自分自身の子育てに対する想いが原因でそうさせてしまったのでしょう。張りつめすぎたいとはいつか切れてしまうように、正義を貫きすぎるというのは時に何もかもを壊してしまうのでしょう。できない自分、そしてできていない周囲の仲間を許容し認めてあげることもまた大切なのですね。

  5. 最近の内容を読んでいると、子どもが何かしでかしてしまった時は、親よりもその子の周りの人の影響があるんだということを学びました。それからいくと、責任はその周りの人にあるのだろうか?ということになってしまいます。親としてこのような話しは「親」という重圧の荷が少し楽になったように思えますが、と同時に〝親には一体何ができる〟のか、という子どもにとっての自分は?という少し寂しい疑問も出てきてしまいますね。そういう風に考えると、「子どもの責任は親がとる」という風潮はその「与えることがない」という寂しさからくるものでもあるのかもしれないな、思いました。

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