父親の存在

優秀な狩猟採集民族とは異なり、生涯犯罪者は知能が平均を下まわっている場合が多いようです。ハリスはこのことに曙光を見いだしています。ハリスは、気質は理性によって克服できるとは考えられないかということを考えます。このような特性をもって生まれてきても、知能が平均を上まわっていれば、巧みに機転を利かせ、犯罪が自分の利益にならないことに気づき、自分の興奮への欲求を満たす他の方法を見いだすことができる、そう考えることはできないのかというのです。

狩猟採集民族および部族社会では、父親を失った子どもたちは生命を失う危険にさらされることになります。生命が数本の糸でかろうじて繋ぎ留められている場合、その糸が切られたら最後です。父親をなくした子どもたちが自然の死を遂げるのを待たない社会があるのです。進化心理学者デイヴィッド・バスは、こう話しているそうです。

「今日においても、パラグアイのアシュ・インディオでは、男性がクラブ・ファイトで命を落とした場合、残る村民たちは話し合いの末、たとえその子の母親は生きていても、その男性の子どもを殺す決断を下すことが往々にしてある。人類学者キム・ヒルが報告した事例では、13歳の男の子がその父親が棍棒試合で死去した後に殺された。全体的に見ても、父親をなくしたアシュ族の子どもたちでは父親が健在である子どもたちと比べて死亡する割合が10パーセント高い。このようにアシュ族は元来、苛酷な環境にさらされているのだ。」

伝統的な社会では、父親が子どもたちを人為的ともいえる「苛酷な環境」から守り、所属集団の中でも支配層に位置する男性は、階級が下位の者よりもより効率よく子どもたちを守ることができるのです。先進国においてでさえ、クラブ・ファイトはもとより殴り合いの喧嘩さえしたことのない父親の幼い男の子たちが「俺の父ちゃんなんか、お前の父ちゃんをやっつけることだってできるんだからな」と言いあっているのを耳にすることがあるそうです。「俺の父ちゃんなんか、お前の父ちゃんを訴えることだってできるんだからな」の方が現実的だとハリスは言いますが、子どもたちがそうは言わないのは、少なくともある程度年齢が高くなるまでは、彼らはお金ではなく、腕力のことを言っているからです。彼らが言いたいのはこうです。「俺のことをからかわないほうがいいぞ。もしからかったら父ちゃんが承知しないからな。それに俺の父ちゃんはお前の父ちゃんに殴られることなんてちっとも怖くないんだから」

チンパンジーの間では、父親ではなく、母親が救いの手を差し伸べるので、幼いチンパンジー同士で遊ぶときには支配的な立場にいる母親をもつ方が優位に立つ傾向があります。遊びが度を過ぎると、母親が子どもの遊び仲間に手をあげることになるのですが、その遊び仲間の母親からの報復を恐れたりはしないのです。

「俺の父ちゃんなんか、お前の父ちゃんをやつつけることだってできるんだからな」が今も現実味ある脅しとして通用する社会では、強い父親がいるのか弱い父親がいるのか、もしくは父親がいるのかいないのかは、間接的ではありますが仲間集団内の子どもの地位に大きく響くことになり、それはすなわち、集団社会化説に基づけば子どもの性格に長期的な影響を及ぼすことになるのです。ところが、私たちの社会のように親と仲間たちが子どもの暮らしの中でそれぞれが区分けされている社会では、親の地位はもはや盾にはなりえません。例外があるとすれば、親の支配力や傑出性があまりにも強く、それを仲間たちが否応なしに意識せざるをえない場合です。これは必ずしも好ましいことではないとハリスは言います。それが裏目に出ることも間々あるからです。その子どもに集団内で高位に就くのにふさわしい他の特徴が欠けている場合はなおさらだと言います。

父親の存在” への11件のコメント

  1. 子ども同士での会話で、父親の腕力から、父親のお金や権力などを話したり、会話を進めようとする時期やその変化に興味があります。ある程度、自分がいる社会から別の社会に目が向くタイミングでもあり、時代の変化をとらえ始める時期でもあるような気がします。そのような時期に、父親の振る舞いや言動というものが非常に大事になってくるのでしょうね。また、父親の存在を失った子どもへの捉え方も、社会集団によって片寄った価値観を生み出す可能性があることを感じました。今の時代では、決して理解できないありえない行為だとしても、その時代や社会にとっては、それが愛のかたちであったということなのでしょうね。もしかすると、姿形は違えど、「ヘリコプターペアレント」のような、新たな愛のかたちとして、存在しているのが「現代」ということもあるのでしょうか。

  2. 子育ての話になると、父親が、ともすると二の次になることがあります。子どもを産むのは母親であり、母親の母乳によって成長し、・・・と母子関係がクローズアップされることが多いような気がします。父親である私は、父親だって・・・と思うことがありますが、「父親の存在」はどうもパッとしないというか何というか。しかし、今回のブログでは「俺の父ちゃん」が主人公。それにしても「パラグアイのアシュ・インディオ」の父ちゃんは大変。クラブファイトで父ちゃんが命を落とすと、なんと「残る村民たちは話し合いの末、たとえその子の母親は生きていても、その男性の子どもを殺す決断を下す」とか。何とも恐ろしい話です。「俺の父ちゃんなんか、・・・」、どこかで耳にしたことがあるような・・・。今時はそんなことを言う子どもはいるのでしょうか?昭和の時代にはいたようが気もします。父親を早くに亡くした父方の祖父は大変だったろうなと突然思い出してしまいました。

  3. 「俺の父ちゃん」がマフィアだったり、大統領だったり、ヤクザだったり社長だったりしたら確かにそれは子どもにとっては仲間内での自慢や自信の種になるものかもわかりませんね。父は自営業の有限会社ながら社長であり、腕っ節もありました。それが自慢や自信になっていたかはわかりませんが、仲間は良く我が家に遊びに来たり泊りに来たりと、集まってくれたものでした。息子たちにとってどのような父親になれるか、精進していかなくてはと改めて思います。

  4. 父親の立場により、子供の集団ないでの地位に影響がある。この部分に関しては、文中に親と子供の暮らしが区分けされている場合地位が盾にならないとあるようにあまりピンときませんでした。それよりもその子の母親がどのような性格か、ということの方が大きかったように感じます。学校行事に参加するのも、遊びにいった際に迎え入れてくれるのも、子供と接する機会が多い存在が母親であり、母親が怖かったり、PTAなどで立場が高かったりした方が、我々の集団内の地位に影響していたように思いました。

  5. 〝親と仲間たちが子どもの暮らしの中でそれぞれが区分けされている社会では、親の地位はもはや盾にはなりえません〟という今日の社会の特徴が書かれてありましたが、父親は子育てにおいて置いてけぼりのような感じになっているのかもしれません。子どもを産んで育てる、母乳は母親、お迎えもお風呂も…とあげていけば父親はその間何してんだろ?となってしまいます。
    今、新入園児が入ってきて園内が賑やかになっていますが、その中に男性保育者の方が優先順位が高い子どもがいました。そんな風に父親の方が優先順位が高い子どももいるはずです。子ども目線での子育てや保育をしていくことが子どものマイナスな気持ちを取り除けるのであれば、そうした方がいいことに改めて気付きます。

  6. 私の時代はどちらかというと「先生に言うからな」でしたね。それは親と仲間との暮らしの中で区別されているがその区別の社会に「学校」というのがあったからなのでしょうね。そして、「親の支配力や傑出性があまりにも強く、それを仲間たちが否応なしに意識せざるをえない場合」という「親」の部分が「先生」に置き換えることができるからなのでしょう。村社会などの地域社会がしっかりとある地域であると「父親」や「親」の盾となることはよりはっきりとおきるでしょうね。それにしてもクラブファイトの話はゾッとします。男性の子どもを殺すと男性限定にしているのは報復の可能性もあるからなのでしょうか。しかし、それにしても今の社会においてはとても正気とは思えないことが伝統的社会では起きているのですね。それは集団の規模の影響や関係もあるのでしょうか。

  7. 「パラグアイのアシュ・インディオでは、男性がクラブ・ファイトで命を落とした場合、残る村民たちは話し合いの末、たとえその子の母親は生きていても、その男性の子どもを殺す決断を下す」というのは実に衝撃ですね。文化の違いの怖さでしょうか。しかし、日本では確かに「区分けされている社会」であるためカテゴリー化されていることでそこまで自分の意識はないでしょうね。小学校の時でしょうか、少しだけ家庭の状況を友だちと競うというなんともくだらないことをしていたことがあります。その話でも父親が強いとかではなかった気がします。父親がいることに越したことをはないかはわかりませんが、父親の役割は常に考えています。

  8. 父親を亡くした子どもも、村民の話し合いによって母親が生きていても子どもは殺されてしまうという決断をできるのは驚愕です。裏を返せば、それだけ父親という存在は子どもにとって今後の生存に関わるくらい大切な存在ということが伺えます。最近の子育てに関しては母子関係が取り出され、父親の存在はそこまで重要とされていないような気がします。もちろんそんな事はないと分かっていますが、確かに父親の存在というのは子どもにとって精神的な支えのような存在のような気がします。それこそ「俺の父ちゃんなんか・・・」という台詞は子ども達がよくいいそうですし、実際に園児から聞くこともあります。それが仲間集団を形成し、親よりも仲間を優先し始めると、今度は「俺の友達で・・・」と仲間を自慢していくと思います。何かに長けている存在の近くにいることで自分を守ろうとする、生き延びようとしている、子どもたちは無意識の中でそれらを行なっているように感じました。

  9. かつて父親というのはある意味では家族の象徴だったのかもしれません。父親が力のある人だとその家も力を持っているということになり、周囲の人からは一目置かれる存在にというのは想像ができます。もしかすると日本人は他者と接する時において、その人の親はどういった人なのかということをどこか重んじる傾向になるのかもしれません。その人を構成するものがその人だけではなく、親であり、家族であるという意識があったりするのでしょうか。自分の親はそういう意味では自分でもあるのかもしれませんね。

  10. 子どもが自分の優位性を示す際、自分のお父さん自慢をする様子を見ることはよくありましたが、父親は幼い子にとってある種の最後の砦のような存在なのかもしれませんね。クラブ・ファイトはもとより殴り合いの喧嘩さえしたことのない父親という部分には思わず笑ってしまいました。「親の支配力や傑出性があまりにも強く、それを仲間たちが否応なしに意識せざるをえない場合」とありますが、その場合はその親に対する自身の親の意識も関係しているように思えます。それが権力的なものなのか、素行的なものなのかに限らす、幼い子にであればあるほど、その影響を受けるのではないかと感じました。

  11. 父親という存在が子どもの生存率をあげることになるといった点から、子どもの生死に影響を及ぼすといった部族が存在するのですね。確かに、考えかたとしては、腕力にものを言わせている点をあげてあり、こうした文化のなかでは、そのような自己の家庭環境が重要になってくることから文化による子どもの社会がかわってくることがわかります。

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