子育て神話の浸潤

八つ目は、私たちに苦痛や快楽を与えるものが必ずしも私たちの性格を変えたり、精神病を引き起こしたりするとは限らないという事実だと言います。人間関係は私たちにとって大きな意味をもちます。親は私たちの人生にとって間違いなく大切な人たちです。私たちは彼らが自分のことをどう思っているのかを気にします。ところが、だからといって彼らの言いなりになるわけではありません。患者が親のことを考えるときに強い情動に駆られるからといって、それが彼女のかかえるすべての問題の原因は親にあるという証拠になるわけではないのです。もし彼女から食べ物を奪えば、彼女はチーズバーガーについても同じように強い感情をいだくかもしれませんが、彼女の空腹の原因がチーズバーガーにあるとは誰も言いません。

そして行き着くところはセラピストが見落とした九つ目にして最後の項目、子育て神話の浸潤だとハリスは考えています。まさに、ハリスがもっとも言いたいところでしょう。セラピストも患者も、“親は子どもたちを幸福で秀逸な人間に育て上げることもできれば彼らの人生をひどく混乱させてしまうこともできる”という考え方を一つの社会通念とする文化の一員だと言います。それはすなわち、もし何かが間違った方向に進めばそれは親の責任に違いない、という考え方です。

子どもとは生まれながらにして純粋無垢な善人であり、親が模様を描いてゆく無地のスレト板だ、という考え方は私たちの文化の中でも無害な通念だとハリスは言います。しかし、ハリスは無害な通念と言っていますが、私は、保育、教育の中ではかなり有害であると思っています。なぜなら、そこに大人の価値観で模様を描いていくということは、もともと持っている子どもの能力を押しのけ、さらに、刈り込みという整理をしていく過程にバランスを欠いてしまうからです。一方、ハリスが言う、この社会通念と背中合わせにある考え方も違う意味で、様々な対応において間違った助言を引き起こしてしまっているというのもうなずけます。それは、私たちが望んだとおりに子どもたちが育たなければそれは親の責任に違いないという考え方です。これはもう人畜無害とはいえないとハリスは言います。重い責任を親になすりつけることで子どもの容疑を晴らしたに過ぎないのだと言うのです。

臨床心理学者たちは、親の子育て上の間違いが子どもの一生を台無しにしてしまいうることを堅く確信していて、それはしばしばそのとおりです。しかし《JAMA》の論説者にしてもまったく同じように自分の考え方に自信をもっているのです。マケルヒニー夫人はカールを妊娠中に殺人ミステリーを読みすぎたのでカールを殺人者にしてしまったのだと言わしめてしまっているのです。

では、ハリスは親にはどんなことができると言っているのでしょうか?また、家庭で子どもたちは何を学習するのでしょうか?このような疑問を持つのは、ハリスは今まで親は壁紙同然という主張であるかのような印象を持ってしまうからです。しかし、それは不公平であるだけでなく、正確性にも欠けてしまうとハリスは危惧します。だからといって、間違った望みを持たせることも避けたいと言います。

子育て神話の浸潤” への10件のコメント

  1. 当の親たちは子どもの育ちに大なり小なり責任を感じていることは間違いありません。それが「子育て神話の浸潤」の賜物なのかどうかはわかりませんが、「もし何かが間違った方向に進めばそれは親の責任に違いない」と思っているのか、思い込まされているのか。小学校の5年生では遅い、3年生で塾に通わせないと、という声をよく耳にしました。塾を経営している頃はとてもありがたい声でした。わが子が小学生になって周りが塾に行きだした時その声は一種プレッシャーではありました。しかし、藤森先生の子どもに対する考え方を日常的に知ることができた私たちはそのプレッシャーから解放されます。子どもを可愛がることは人後に落ちない私たちです。「もともと持っている子どもの能力を押しのけ、さらに、刈り込みという整理をしていく過程にバランスを欠いてしまう」ことを回避することが子を可愛がることの私たちにおける意味です。「親の子育て上の間違いが子どもの一生を台無しにしてしまいうる」こともあり得ます。だからこそMimamoru Approach が園でも家庭でもそして社会においても重要になってくるのです。

  2. 子育てが親の責任であるという通説は、どのようにうまれたのでしょうか。そう思わないと子どもを守れない時代があったからとか、責任の所在を明らかにしなければいけない何かがあったからなどと考えられます。ハリスが何を言いたいのだろうと考えてみると、そういった考えによる弊害が顕著に現れてきている現代にとって、その通説を見直す必要があるということであり、不公平さを考慮し、正確な情報をもとに子育てが行われてほしいのかなと感じました。この研究によって、これまでの育児について多くのメスが入っているように感じますが、結果的に育児が楽しくなるような研究結果が、今度も残っていくのだろうなぁと思います。

  3. 大学という専門機関でも教えられているような内容が根底から否定されていくというのはなんだか悲しさを感じますが、人類の進化のためには仕方の無いことなのでしょう。もちろん白紙説もなにか根拠になりうるものがあって唱えられたのですから一概にそのやり方のすべてが間違いだとは言え無いのでしょうが、ここまで全否定されるとはロックも思わなかったでしょうね。白紙のキャンパスに大人が絵を描くのではなく、大人を観察した子供が絵を描くという考え方であれば今よりも少しは否定されずに、さらには画期的な教具なども産まれていたのでしょうかね。

  4. 自分も2人の子どもの親としてどのようにして子育てをしていけばいいのか、というのが常の悩みといいますか、考えていかなければいけないことだと感じていますが〝もともと持っている子どもの能力を押しのけ、さらに、刈り込みという整理をしていく過程にバランスを欠いてしまう〟ことをしないことが子育てにおける親の責任ということになってくるのでしょう。子育て神話において、親の責任は絶大な威力があり、ある意味で子どもを守りたいと思う親の考えから生まれたものかもしれません。ですが、それが子ども目線で考えればどうなのか、親の責任にすれば子どもは本当に救われるのか、などこれから世の中において問いかけていかなければならない課題であるのだと思いました。

  5. 子どもを神秘的なものと思い、子は宝という思いで子どもたちを大切に扱う、そういうことであれば子どもを性善説のように捉えることは、そうしないことよりかはいいのかもわかりません。しかし何だか今の時代の価値観とするには随分古いような気がしてしまうのは、先生の主張、ハリス氏の見解をこうして読み続けてきたからですね。子育て神話のようなものをそのまま神話として崇め続けることに疑問を持っていいことを最新の研究は示しています。沢山の子どもたちや親が困っていて、それを助けたいと思った時には、開かれている扉があるということだと思います。

  6. 「私たちが望んだとおりに子どもたちが育たなければそれは親の責任に違いないという考え方です。」これは保育をするものとしては忘れてはいけないことですね。良くなってきたところは自分たちの功績のようにしますが、逆に子どもの育ちがうまくいっていなかった場合は親のせいにしてしまうところはないとは言い切れません。それほど、保育という仕事は責任のある仕事であるということは意識しておく必要がありますね。
    また、最後に「家庭では子どもは何を学習するのでしょうか?」とあります。確かにこれまでの論調では家庭での子どもと親の関係はあまり意味がないといった内容で言われることが多くあり、これまでの内容に対して納得はできるのですが「でもな~」と何とも納得いかないところも多々ありました。それが明らかになってくるのはとても楽しみです。

  7. 子どもに対する白紙論がまだまだ根強く浸透しているからこそ、大人の価値観で模様を描いていくというような教育や行為が平然となされているのでしょうね。そして社会がそれを認めてしまっているからこそ、子どもが罪を犯す、または健全に育たなかった場合は全てが親の責任であるかのようにされてしまうのではないでしょうか。そんな中にあって本当の意味での親の責任、役割とは一体何なのでしょう。「ハリスは親にはどんなことができると言っているのでしょうか?また、家庭で子どもたちは何を学習するのでしょうか?」という文を見てまたその悩みに行き着いてしまいます。壁紙同然の存在でありながら何ができるのか、それを考えることに意味があると信じたい私がいます。

  8. ハリスの主張を知れば知るほど、では私たち親の役割とはなんなのだろうか?と考えてしまいますが、「大人の価値観で模様を描いていくということは、もともと持っている子どもの能力を押しのけ、さらに、刈り込みという整理をしていく過程にバランスを欠いてしまうからです」とあり、なんだか光が差してくるような感覚がありました。藤森先生のこの言葉にあるように、私たができるとするならば、子どもが持って生まれた能力の刈り込みの邪魔をしないことなのかもしれません。その力が向かう先へしっかり進めてあげるということが大切なことなのかもしれませんね。

  9. 家庭では親の存在が無害なのかもしれませんが、乳幼児施設において保育者、教諭の存在は子どもにとって脅威なのは確かかもしれません。藤森先生のその考え方を私たち一人一人が意識して子どもたちと日々、関わっていかなければいけないと本当に思います。そして、子育て神話への浸潤が保育者への危機感を煽っていないようにも思います。「自分たちは何も悪くない」という・・・。そうした子育て神話が普遍的になることで、親への子育てのプレッシャーになり、様々な事件を引き起こしてしまっているようにも思いました。

  10. 「私たちが望んだとおりに子どもたちが育たなければそれは親の責任に違いないという考え方」というのは確かに刷り込まれていたことになるのでしょうね。単純に考えて他に理由がないのではという考えになることも理解できますが、冷静に考えるとでは親以外の環境はどうなるの?となりますね。我々親ができることは「もともと持っている子どもの能力を押しのけ、さらに、刈り込みという整理をしていく過程にバランスを欠いてしま」わないように我が子を見守り愛してああげることなのでしょうね。簡単なことではないかもしれませんがこれが念頭にあるだけでも子育てというのは違ってくるのかもしれません。しかしながら最後にある「では、ハリスは親にはどんなことができると言っているのでしょうか?」というのは興味深いです。

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