音楽を習わせる

ハリスは、彼女の元同僚のディヴィッド・リッケンが語った別々に育てられた双子に関しての実話を紹介しています。二人は乳児期に離ればなれになった一卵性双生児であり、それぞれ別の養父母の家庭で育てられました。そのうちの一人はコンサート・ピアニストになり、その腕前はミネソタ・オーケストラをバックに独奏を披露するほどでした。もう一人は、音符すら読めませんでした。

彼女たちは同じ遺伝子を持っていることから、この格差は環境によるものに違いありません。確かに養母の一人は家でピアノ教室を開いている音楽教師でした。もう一方の双子を引き取った親は音楽とはまったくかかわりがありませんでした。

ただ一つ意外なのは、コンサート・ピアニストを育てたのは、音楽とかかわりのない親の方であって、ピアノ教師の娘は音符すら読めなかったのです。

ディヴィッド・リッケンは臨床心理学者としてその経歴をスタートさせ、心理学のさまざまな分野において大いなる貢献をした人物です。その彼は親が子どもの人生を形作るという考え方を貫いているそうです。彼はこのちぐはぐな双子のパラドックスを次のように説明しているそうです。

「ピアノ教師であるほうの母親は、レッスンは行ったものの、強要はしなかった、その一方で、もう一人の養母は自分自身が音楽の才能に欠けることもあり、娘にはピアノを習わせ、それを最大限に生かそうと固く決心をしていた。幼い娘のために、彼女は環境づくりに確乎不抜の信念で臨んだ。」

音楽の才能に欠けていた母親は娘にピアノを習わせ、しっかりと練習させました。もちろん生得的な才能もあったのでしょう。母親が熱心だからといって、皆がコンサート・ピアニストになれるわけではありません。しかし、熱心な母親に恵まれなかったら子どもの才能も無駄になってしまうでしょう。こだわりのない母親をもったもう一人の双子は音符すら読めないのです。

ここでその反例としてハリスは自分の娘の話を例に出しています。上の娘はミネソタ・オーケストラとの演奏経験はないものの、ピアノはかなりの腕前で、高校のコーラス部の伴奏を務めるなど、人前での演奏も多かったそうです。まるでこだわりのない双子の母親同様、ハリスは娘に、同じ地域に住む先生からピアノを習わせたものの、強要はしませんでした。熱心な母親とは違い、むりやり練習させたことは一度もなかったそうです。彼女は自らビアノに向かっていたのです。もしハリスが練習のことで口うるさく言っていたら、うまくはいかなかっただろうと振り返ります。ピアノ自体をやめていただろうと思っているそうです。彼女の娘はそのような子どもだったのです。最近になり、彼女にピアノをつづけたいという気持ちを駆り立てていたのは何かと聞いてみたところ、彼女はこう答えたそうです。「ピアノが楽しかったし、うまくなりたかった。それで練習したらうまくなったというわけ」。好きこそ物の上手なれです。

ハリスは娘にむりやりピアノを習わせることも、練習させることも、それをしきりに勧めることさえしませんでしたが、ハリスの家は多少なりとも音楽的な家庭ではあったようです。ハリスの娘が子どもだった頃はハリスもコーラスに入っていて自宅でリーサルを行なうこともあったそうです。今日、娘はもっぱら弾き語りを楽しんでいるそうです。余暇に声楽を習い、コーラスでも歌っているそうです。

子育て神話の浸潤

八つ目は、私たちに苦痛や快楽を与えるものが必ずしも私たちの性格を変えたり、精神病を引き起こしたりするとは限らないという事実だと言います。人間関係は私たちにとって大きな意味をもちます。親は私たちの人生にとって間違いなく大切な人たちです。私たちは彼らが自分のことをどう思っているのかを気にします。ところが、だからといって彼らの言いなりになるわけではありません。患者が親のことを考えるときに強い情動に駆られるからといって、それが彼女のかかえるすべての問題の原因は親にあるという証拠になるわけではないのです。もし彼女から食べ物を奪えば、彼女はチーズバーガーについても同じように強い感情をいだくかもしれませんが、彼女の空腹の原因がチーズバーガーにあるとは誰も言いません。

そして行き着くところはセラピストが見落とした九つ目にして最後の項目、子育て神話の浸潤だとハリスは考えています。まさに、ハリスがもっとも言いたいところでしょう。セラピストも患者も、“親は子どもたちを幸福で秀逸な人間に育て上げることもできれば彼らの人生をひどく混乱させてしまうこともできる”という考え方を一つの社会通念とする文化の一員だと言います。それはすなわち、もし何かが間違った方向に進めばそれは親の責任に違いない、という考え方です。

子どもとは生まれながらにして純粋無垢な善人であり、親が模様を描いてゆく無地のスレト板だ、という考え方は私たちの文化の中でも無害な通念だとハリスは言います。しかし、ハリスは無害な通念と言っていますが、私は、保育、教育の中ではかなり有害であると思っています。なぜなら、そこに大人の価値観で模様を描いていくということは、もともと持っている子どもの能力を押しのけ、さらに、刈り込みという整理をしていく過程にバランスを欠いてしまうからです。一方、ハリスが言う、この社会通念と背中合わせにある考え方も違う意味で、様々な対応において間違った助言を引き起こしてしまっているというのもうなずけます。それは、私たちが望んだとおりに子どもたちが育たなければそれは親の責任に違いないという考え方です。これはもう人畜無害とはいえないとハリスは言います。重い責任を親になすりつけることで子どもの容疑を晴らしたに過ぎないのだと言うのです。

臨床心理学者たちは、親の子育て上の間違いが子どもの一生を台無しにしてしまいうることを堅く確信していて、それはしばしばそのとおりです。しかし《JAMA》の論説者にしてもまったく同じように自分の考え方に自信をもっているのです。マケルヒニー夫人はカールを妊娠中に殺人ミステリーを読みすぎたのでカールを殺人者にしてしまったのだと言わしめてしまっているのです。

では、ハリスは親にはどんなことができると言っているのでしょうか?また、家庭で子どもたちは何を学習するのでしょうか?このような疑問を持つのは、ハリスは今まで親は壁紙同然という主張であるかのような印象を持ってしまうからです。しかし、それは不公平であるだけでなく、正確性にも欠けてしまうとハリスは危惧します。だからといって、間違った望みを持たせることも避けたいと言います。

親といるとき

なぜセラピストはそれが親の責任だとあれほどまでに自信満々に話すのでしょうか?彼には他にも考慮すべき解釈の仕方があるのではないか、彼が間違っているとすればどのような間違いを犯しているのか、ハリスは、九項目思い浮かべています。

五つ目は、親が一緒のときの彼女の振る舞いに関係があるのではないかということです。人は年齢に関係なく、親のいる前では違った行動をとるものです。これはあらゆる分野の心理学者が犯す間違いですが、親のいる前での行動の仕方のほうが他の状況下での行動の仕方よりも意味があり、より重要で、より永続的であると考えます。しかし、実際にはそんなことはないとハリスは言います。ハリスはこれまでにいくつか証拠を紹介してきましたが、むしろ、親元での行動の仕方は親と無関係な状況下での行動ほど重要ではなく、長つづきもしないことを示しているのです。子どもたちは家庭外での行動を家庭にもちこみますが、家庭での行動は普通は外にまではもち出さないのです。親が一緒にいるときに観察される患者の姿は、彼女の家庭での性格であり、確かに彼女が家庭でどのような扱いを受けてきたかを反映してはいますが、それにはセラピストが考えるほど重要性はないのです。

六つ目は、患者の親がセラピストの診療所でどう振る舞うかに関係すると考えます。これらの人々が、どのような人間であるのかを判断する前に、彼らのおかれた境遇にわずかでも身をおいてみてほしいと言います。彼らは裁判にかけられた被告も同然なのです。ただそこには陪審員も弁護士もいません。いるのは検察官たけで、彼は患者側についているのです。親は機能不全の子どもをつくり上げてしまった罪で起訴されるのです。彼らには入室前から罪が決定しており、彼ら自身もそれを知っているのです。そのような彼らにどのように行動しろというのだとハリスは言います。

七つ目には、ハリスは次の質問を投じています。「親の振る舞いについて証言するのは誰?」答えは彼らの機能不全な子どもたちです。セラピストの診療所に彼女がいること自体、彼女の不幸を示しています。さらに予測できるように、彼女が覚えている子ども時代は不幸なものでした。しかし、彼女の不幸な子ども時代が彼女を不幸にしているとは限りません。その逆である可能性もあると言うのです。彼女の現在の不幸が彼女に不幸な子ども時代を思い出させてしまったのかもしれないのです。記憶とは私たちが望むほど正確な記録装置ではないのです。思い出そうとしているときの感情によって、その貯蔵庫から幸せな記憶を引き出すのか、不幸な記憶を引き出すのか、もしくは中立的なものを引き出してそのときの気分と一致するように色づけするのかが決まってくると言うのです。鬱状態にある人は、親は自分を快く扱ってくれなかったと記憶しがちなのです。鬱状態が改善されれば、親の記憶も改善されるのです。一卵性双生児の子ども時代の記憶は、別々の家庭で育てられた二人でさえ驚くほど似通っているのです。似た記憶をもつようになるのは、二人が大人になっても同じように幸福もしくは不幸な生活を送る傾向にあるからです。もちろん幸福感は遺伝的な影響を受けているのです。

セラピストの間違い

彼は機能不全の患者には機能不全の親がいることを知っているのだと言うのです。そして親は子どもたちを同じようには扱わず、それぞれを異なる家族内の役割に就かせているということも知っているのです。過剰なまでに親から期待されている子、家族の見せしめ的な存在となった子、そして親が子離れできずに家族の赤ちゃん的存在となった子は皆、セラピストの診療所で順番を待つことになるとハリスは皮肉ります。不幸な人は、不幸な子ども時代を過ごしていることを彼は知っているのです。

もちろん彼はこれらを直接体験して知ったわけではありません。そのほとんどは患者の立場に立つことによって知りえたことです。彼のもつ知識は患者から教えられたものなのです。ところが、セラピストが患者の親に会ってみると、事前に患者から聞いていた親の印象よりも実物のほうがさらにひどいのが通例です。彼はまた親と同席した場合の患者の振る舞いにも注目します。その場合患者は幼さを増し、重い症状を見せる傾向にあります。セラピストは、患者のかかえる問題は、成長過程において彼女が親から受けた扱いが原因だと結論を下すのです。

彼には他にも考慮すべき解釈の仕方があるのではないでしょうか。彼が間違っているとすればどのような間違いを犯しているのでしょうか。ハリスは、九項目思い浮かべています。

まず一つ目は機能不全の親がその機能不全な特性を遺伝的に伝えているという可能性があるという点だと言います。サイコセラピストたちはこの考え力を好まないようです。患者の悩みが治癒不可能であることを意味しているように思うからだと推測します。そのようなことはないとハリスは言います。現代では多くの生物学的な機能不全が修正可能なのです。一方、環境に原因があるものの多くは修正不可能です。もし私たちの運命が遺伝子に刻まれていたらどうでしょうか?もしそれが真実であれば、実際にはそんなことはないのですが、いったい何のためにそれを否定しようというのでしょうか。

二つ目は患者がそれに適していたという理由で特殊な家族内役割を振り分けられていたのです。すなわち常に同じ役回りを強いられていたという可能性です。親は彼女がすでにもち合わせていた特徴に反応しただけで、彼女の特性の原因になったわけではないのかもしれないのです。

三つめは他人、すなわち家族以外の人が彼女に対して、家族がしたのと同様な対応をした可能性です。もし彼女が家族の見せしめ的存在になるような特徴をもち合わせていたのであれば、遊び場でも同様な存在になっていたかもしれないのです。さらに遊び場での経験が現在彼女のかかえる問題の原因となったのかもしれないのです。

四つ目。確かに親は子どもの人生に影響を与えるような問題をかかえていたかもしれませんが、その影響は子どもの家の外の社会的環境に対して及ぼされたのかもしれないのです。もし父親がアルコール依存症であれば、彼は定職に就くことができず、家族の生活は貧しかったかもしれません。親が離婚していれば、彼女は何度も転居を繰り返していたかもしれません。

親を責める

ハリスは、「大衆向けの心理学はなぜ親を責めるのか」という疑問を持ちます。地元図書館の書架には「機能不全家族」について書くジョン・プラッドショーとか「毒になる親」について書くスーザン・フォワードの書籍が多く揃えられているそうです。より科学的な観点から書かれた書籍、たとえばマクラナハンとサンドファーの『シングル・ペアレントの子どもたち』のような本を読みたい場合は、リクエスト用紙に記人すれば司書の方が大学の図書館から取り寄せてくれます。そのためか、ハリスはマクラナハンやサンドファーばかりを激しく非難し、プラッドショーやフォワードへの批判はとても十分だとは言えないと言います。その不均衡を是正するつもりはなく、正直なところそれを望んでもいないそうですが、それでも図書館の書架にある類の書籍に関しては一言言いたいようです。フォワードや、ブラッドショーといった臨床医はなぜあれほどまでに確信をもって、自分の患者のかかえている問題の原因はその患者の親にあると考えているのかという疑問をハリスは持ちます。。また、なぜハリスは彼らが間違っていると思っているのでしょうか。

同じ家庭で同じ親に育てられた子どもたちも同じようには育たないということが行動遺伝学研究で明らかになったことについては、これまでに何度もハリスは触れてきました。このことは世界中のプラッドショー信仰者、フォワード信仰者にとっては問題にはならないようです。なぜなら、彼らは子どもたちが同じように育つとは期待しないからだとハリスは言うのです。崩壊した親が各々の子どもたちに対して毒になる影響を及ぼしていることを彼らは期待するのです。なぜなら各々の子どもたちにはそれそれ別々の役割があてがわれたり、生まれた時期が違ったり、またそれぞれ別の祖父母に似ることもあるからです。ブラッドショー信仰者もフォワード信仰者も行動遺伝学のデータはたいして気にしないようです。さらに言えば、彼らはいかなるデータにも気をもむことはないのだとハリスは言います。彼らの考え方はハリスが何を投げつけようともそれを飲みこんでしまうほど伸縮自在なのです。科学的な方法や結果にその基礎をおかない考え方を、科学的論理で論破するのは難しいと言うのです。

とはいえ、ハリスはできることはあると言います。それは彼らがなぜそのような結論にいたったのかを示し、そしてその同じ内容も別の見方からとらえられると示すことだと言います。ハリスが信用できないでいるのは彼らの所見ではなく、彼らの解釈の仕方なのだというのです。

よくある話ですが、ある患者がサイコセラピストのもとを訪れます。彼女はつらい悩みをかかえているのだと訴えます。彼女はセラピストとしばらく話し、その後セラピストは、彼女のかかえている悩みはすべて親に責任があると判断するのです。親は彼女をけなしたり、束縛したり、自律性を十分に尊重しなかったり、罪悪感をいだかせたり、性的に虐待したりしました。セラピストは患者に対し、彼女自身がかかえるいかなる問題も彼女自身の責任ではなく、彼女の親の責任なのだと言い聞かせます。しばらくすると彼女は言います。「先生ありがとうございました。ずいぶん気が楽になりました」と。

なぜ患者が快方に向かったのか、彼女は本当に快方に向かったのか、ハリスが興味を持っているのはそんなことではないと言います。しかし、それらは他の著述家の方々にまかせて、なぜセラピストはそれが親の責任だとあれほどまでに自信満々に話すのかが知りたいようです。彼の知る何が彼にあれほどの自信をもたせるのかということです。

性格テスト

18もの連邦機関に2500万ドル相当の結果を得ることができたと思わせたのは、研究者たちがその結果を前向きに表現したからだろうとハリスは考えています。「親との良好な関係は防護的効果をもたらす」と。彼女は、別の言い方(正確さには差はありませんが)をしてみています。「親とうまくいかない青少年は麻薬に手を染めたり、危険な性交渉に身を委ねたりしがちだ」と言えば、その結果への関心度は下がっていたことだろうと考えています。次のように表現するとさらに関心が失せてしまうのではないかと言います。「麻薬に手を染め、危険な性交渉に身を委ねる青少年は親とうまくやっていくことができない」

これらはいずれも相関関係ですが、研究者が原因を測定し損ねたために、その矢はどちらにも向いていません。そこに欠けているのは性格、被験者の性格的な特徴だというのです。ある特定の性格をもつ人は危険な行動をとる傾向にあり、彼らはまた親だけでなく、すべての人との人間関係に苦労しがちです。

ニュージーランドで実施された研究はその欠けていたものを埋めてくれたそうです。実施したのはアヴシャロム・カスピとその同僚たちで、その研究は《JAMA》の研究が発表された数カ月後に心理学関係の専門誌に掲載されました。《タイム》はその存在を気にもとめませんでした。

ニュージーランドの研究者たちはおよそ1000人の若者を対象に性格テストを実施し、いくつかの特性からはかなりの確率で危険な行動が予測できることを見いだしたのです。衝動的で、怒りやすく、危険を恐れず、興奮を好む18歳は、お酒を飲みすぎたり、車の運転中にスピードを出しすぎたり、危険な性交渉に身を委ねる傾向が強いのです。その同じ若者は一方で、親密な関係を構築し維持することを苦手とするのです。

研究者たちの指摘どおり、これら不利な性格特性は遺伝するのですが、その割合は好ましい特性と変わりません。個人間のばらつきのおよそ半分は遺伝的な影響によるものなのです。さらにこれらの特性の徴候は幼い頃から現われます。研究者たちはそれらの徴候を被験者たちが三歳の頃から観察することができました。そう、研究者たちは同じ被験者が三歳だった当時のデータ、熟練の検査員による行動の評価を入手していたのです。同年代の他の子どもたちよりも衝動的で怒りやすかった三歳児、やるべきことに集中するのが苦手だった三歳児は、そのままその特徴を維持する傾向にあり、その者たちが成長したときには「健康を害する行動」が多く見られる傾向にあったのです。

この結果は正直なところ、《JAMA》に掲載された研究結果よりも人を落胆させてしまいそうですが、問題を解決するためにはまず、何が起きているのかを知る必要があるのです。生物学は運命論ではありません。遺伝が人の特徴を決定づける一要因であるからといって、それが変更不可能なわけではないのです。その方法さえ見いだせばいいのです。いまだにそれができないでいるのは、心理学が子育て神話に傾倒してきたことが障害となっているからかもしれないとハリスは言うのです。

多くの相関関係

相関関係には原因と結果を識別する手段は付随しません。もし付随したとしても、実際には両者が互いに影響しあっているために、その手がかりとなる矢印は両方に向くか、あるいはその原因が研究者の測定範囲になかったために矢印のない場合もあるだろうとハリスは言います。

心理学者マイケル・レズニックと十数名の同僚たちによる研究に、《JAMA》の1997年9月号に掲載された「思春期の子どもたちを守る―思春期の健全性に関する全国規模の縦断的研究をふまえて」があるそうです。研究者たちは思春期の子どもたち多数に対して多くの質問をし、得られた解答間で多くの相関関係を見いだしたのですが、新聞に取り上げられたときの見出しには「親との絆とティーンエイジャーの健全性の関係、研究によって明らかに」と書かれていたそうです。研究者はそれを「親・家族間関係」と呼び、それをもってすればあらゆる思春期の「健康を害する行動」を防ぐことができるとしました。彼らが意味したのは、より深い親・家族間関係が構築されている思春期の子どもたちは、喫煙、違法な麻薬の使用、そして十代前半からセックスを体験する可能性が低いということなのです。

実際に研究者たちが見いだしたのは、親と良好な関係にあるとか親に愛され大いに期待されていると答えた思春期の子どもたちは、喫煙の経験があるとか外泊が多いとは答えないという傾向です。研究者たちの結論は、思春期の子どもたちが質問に対して答えたその解答にのみ基づいていたのです。それでは親の育児姿勢を調査した研究者たちと同じ間違いを犯していることになるのです。《JAMA》は、新薬試験を実施した医者が、新薬とプラシーポがそれぞれどの患者に投与されたかを聞知していたら、その医学論文の掲載を却下していたはずだとハリスは言います。どの薬がだれにどのように投与されたかという情報は、その効果の判断に関与することがあってはならないとハリスは考えているのです。しかし、《JAMA》は思春期の子どもたちが唯一の情報源として生活における「防護因子」と予測されうる効果の両方を提供した研究を掲載したのでした。

親の育て方が子どもの将来を決めるという仮説には威力があります。政府をも動かしてしまうのです。《タイム》誌によると《JAMA》に掲載された研究には2500万ドルもの国費がつぎこまれました。このニュースを記事にした《タイム》のエッセイストは、彼女自身にもティーンエイジの娘がいましたが、この研究には懐疑的でした。

「18もの連邦機関に費用を負担させたこの研究がこのように関心を集めたのは、“うちのかわいいメアリーは親友モリーに聞かないと何もできないくせに、母親のことは鉢植絵のように扱う”と嘆く親に安堵感を与えたからだろう。「親の影響力と重要性は思春期後期にいたってもまだまた健在だ」と本調査を主導したミネソタ大学教授のマイケル・レズニックは言う。まさに人を安心させる結果だ。あなたの娘があなたを無視するように見えても、耳にピアスを開けることが人生最大の関心事となる以前に培われた絆の名残にすがって生きている、というのだから。」

実際、そうなのかもしれないとハリスは言います。ハリスは研究方法に関しては批判的ですが、子どもたちの中には生物学的な時計が魔の時を告げた後でさえも親と良好な関係を保ちつづける子どもがおり、彼らが麻薬に手を染めたり、危険な性交渉に携わったりといった愚行に走る可能性は低いのです。それは、決してエッセイストのかわいいメアリーを除外するつもりはないとハリスは言います。そしてこれは間違いないだろうとも言うのです。

相関関係と原因

「親は別居の決断が子どもたちにもたらすであろう結果を知る必要がある」と社会学者サラ・マクラナハンとゲリー・サンドファーが述べたことについてハリスは紹介しました。もし実際に両親が別れる決断をして、その後彼らの子どもが高校を中退したり、妊娠したりするようなことになれば、マクラナハンとサンドファーは真っ先に子どものかかえる問題の原因を両親の判断に求めるに違いありません。しかし、マクラナハンとサンドファーは心理学や社会学ではありふれた間違いを犯しているとハリスは指摘します。学生時分に心理学人門の第一回目の講義から何度となく用心するように言われつづけているにもかかわらず、常時犯してしまう間違いだというのです。その間違いとは、相関関係と原因とを混同させてしまうことだというのです。

よいもの同士は集いやすく、悪いものも同じです。これらは相関関係にあるというのです。教育心理子者ハワード・ガードナーは「知能」にはいくつかの種類があり、一つの知能を存分に発揮できなかった人にも別の知能では寛大なる救いの手が差し伸べられているとの考えを私たちに植えつけようとしました。ところが実際には、ある種の知能検査で得点が低かったものは、別の検査の得点も低くなる傾向にあるとハリスは言います。知的障碍児が絵画や計算で天才的な力を発揮する例を知ったときに私たらが嬉しく思うのは、それが私たちの公平志向に訴えているからだというのです。ところがこのようなケースはまれだとハリスは言うのです。より一般的には、生まれは知的障害の子どもたちに対して不公平に働くというのです。彼らには特別優れた才能は授けられず、身体的にもハンディキャップを片負ってしまうのです。だからこそ彼らは通常のオリンピックではなく、パラリンピックで竸い合うのだというのです。

よきものは連れ立つものだと言います。ある種の知能検査で高得点を記録した者は他の検査でも高得点を記録する傾向にあるのです。一つの検査での高得点が別の検査での高得点の原因となるわけではありませんが、両者間には相関関係が認められるというのです。なぜ相関関係にあるのかは、誰にもわからないというのです。

「すべてはそれ以外のすべてと関連している」とは、統計学を得意とする心理学者の言葉です。彼はミネソタ州の高校生5万7000人のデークを集めた二人の研究者について語りました。その研究者たちは子どもたちに余暇の過ごし方、教育目標、学校が嫌いか好きか、きょうだいの数を訊きました。彼らはまた父親の職業、母と父の学歴、大学に対する家族の考え方を訊きました。全部で15項目あり、二項目間で相関関係が成立する可能性は105通りです。その105通りすべてにおいて有意な相関関係が認められ、そのほとんどは偶然で起こりうる可能性が0.000001以下という優位水準で認められたそうです。

すべてはそれ以外のすべてと関連していますが、それは無作為にではありません。よきものは連れ立つものだと言います。健康的な食生活を送る者は運動量も多く、定期的に健康診断を受け、長生きする傾向にあります。成功する者は、成功しない者よりも背が高く、知能指数も高い傾向にあります。もし彼らが結婚すれば、その結婚生活は持続するでしょう。教師や親は以前から成績の優秀だった子どもにより多くを期待します。これらの子どもたちはまた将来においても優秀な成績をおさめることになるのです。成績優秀な子どもたちはタバコを吸うことも、法を破ることも少ないのです。抱きしめられることの多い子どもは、たびたび体罰を受けた子どもよりも健全な気質をもつ場合が多いというのです。

質問の回答

ふたつの異なる質問を同一人物に回答してもらう時には決まって、はじめの質問の解答と次の質問の回答との間に相関関係が見られる傾向にあると言われています。その相関関係は統計学者が「反応の構え」と呼ぶものにより生み出され、もしくは誇張されるようです。人には決まった方向に反応する傾向があり、質問に対する解答もそれにより偏向されます。幸せな人であれば、すべての質問に対し、楽天的な回答に印をつけるようです。「はい、親は私にやさしくしてくれます。」「はい、私も立派にやっています。」社会的に認められることにこだわる人は、社会的に認められるような回答に印をつけます。「はい、親は私にやさしくしてくれます。」「いいえ、喧嘩をしたこともなければ違法なものを吸ったこともありません。」怒りを感じている人、落ちこんでいる人は、それそれ怒りに満ちた回答、抑鬱的な回答に印をつけます。「親はひどい奴だし、代数学のテストでは落第点をとったし、こんな質問なんてどうでもいいや。」という具合です。

ティーンエイジャーたちが研究者たちに語る親の自分への振る舞い、たとえば、親が厳しすぎるとか、甘えすぎるとか、程良いとかは、親が自分自身で下す評価とはあまり一致しないようです。親の行動に関して子どもの発言に頼らずさまざまな情報源を活用した最近の研究では、程良い親の育児姿勢が優れているというはっきりとした結果は出なかったそうです。しかも事前にボウムリンドが定義した三種類に該当しない親はすべて除外して、自分たちに有利になるような不正工作を図ったにもかかわらずだったそうです。彼らはなんと当初の半数近い家族を除外したのです。

ハリスは、皆さんは研究方法への難解な批判などではなく、なぜ彼女が自分の子どもに苦労したのかを知りたいはずで、同じ間違いを犯さぬためにも、彼女がどのような間違いを犯したのかを知りたいはずだと言います。

結局ハリスの娘は真っ当な人間になりました。親を悩ませたティーンエイジャーの多くがそうであるように、彼女も年を重ねるごとに落ち着き、賢くなりました。成人した彼女はなかなか健全な人間だそうです。ハリスは彼女に、夫とハリスの何が間違っていたのかと訊いてみたそうです。何か別の方法がよかったのではないかと訊いたのです。彼女はそれに答えることができませんでした。彼女自身、今や娘をもつ母親となり、同じことを知りたがっているそうですが、それがわからないそうです。彼女は自分の娘を自分が育ったとそっくりな住宅街で育てることにしたそうです。ティーンエイジの頃はあれほどまでにそこから逃げ出したがっていたにもかかわらずです。

ハリスも彼女の夫も二人の娘を同じようには扱いませんでした。彼女たちは似ても似つきませんでした。二人に同じ作戦が通用しないことはわかっていて、それを試みるのもばかばかしかったからです。親の育児スタイルを研究する者たちが犯した間違いのうち、最も重大であるのは、親の育児スタイルは親の特徴であると仮定することだと言います。それは親子関係の特徴であり、そこには親も子もかかわっているものなのです。

正当派

ティーンエイジャーが非行グループに入るのは、そのような態度や行動が普通だとみなされる住宅街に住んでいたことに原因がある場合があるとハリスは考えています。彼女が自分の子どもたちを育てたような閑静な中流住宅街でも非行グループはあったそうです。他の集団に拒絶されてこのグループに入った者もいれば、自ら進んで入った者もいました。子どもたちがある集団の一員であると認識するのは、その集団が「自分と同じような」子どもたちで形成されていると感じるからだと言います。親はその集団が子どもに悪影響を与えると考えますし、実際そのとおりになる場合もあります。なぜならばメンバー間で共有するものはすべてメンバー間の相互影響や他集団との対比効果によって誇張されがちだからと言います。もっともその影響は相互的であり、もとから共通して持っていたものも多いようです。

ティーンエイジャーが非行グループの一員になるのは親の責任でしょうか?親の育児姿勢を研究する社会化研究者たちは、「正当派」的な姿勢を維持する親の子ども、厳格すぎず、甘すぎず、至当な姿勢を保つ親の子どもは、道を誤った仲間集団に入る可能性が低いと主張します。その子どもはティーンエイジになっても問題を起こしにくいと言われています。ところが、この主張の基礎となるデータの有効性は怪しいとハリスは思っています。

親の育児姿勢に関する調査をはじめたのは、発達心理学者ダイアナ・ボウムリンドだそうです。ボウムリンドははじめに就学前の子どもたちを研究しました。彼女はある研究で、程良い親をもつ子どもには、厳しすぎる親や甘すぎる親をもつ子どもよりも社交上および行動上の問題が少ないことを示しました。彼女の研究では当然遺伝的な影響を統制しておらず、子どもが親に及ぼす影響と親が子どもに及ぼす影響とを区別する方法もなく、女の子と男の子とでは異なる結果が得られましたが、それに抗議した人はほとんどいませんでした。ボウムリンドの功績は児童発達のあらゆる参考書に取り上げられることとなったのです。

今日、ボウムリンドの後継者たちにとって、就学前の子どもたちは研究対象ではありません。彼らは思春期の子どもたちにのみ注目しているそうです。その利点は、思春期になると、長い質問にも回答できるということにあるからです。親からどのような扱いを受けたか、親は厳しすぎたか、甘すぎたか、それとも程良かったかと訊くこともできれば、その同じ彼らに何回くらい喧嘩したか、何回くらいマリファナを吸ったか、代数学の試験の結果まで訊くことができるのです。これらの研究者が求めている相関関係は、これらの青少年が自分の親について語ったことと自分自身について語ったこととの相関関係なのです。

今でもなお、当然のごとく、遺伝的な影響を統制することもなければ、子から親への影響と親から子への影響を区別する方法もありません。さらに得られる結果は民族集団によっても異なります。そこに混乱を招く材料がさらに加わりました。同一人物が二種類のデータを提供していることだとハリスは言います。彼らは親に関するデータの情報源であると同時に、彼ら自身に関するデータの情報源でもあるのです。同様の問題点はマレー・ストラウスの懲罰に関する研究でも指摘されているそうです。自分の子どもに何回体罰を与えたかを語った母親が、子どもの行動についても語っているのです。