犯罪行為

ハリスの下の娘はもはやティーンエイジャーではありません。そしてもう何年もタバコを手にしていないそうです。この例は、ハリスが少し前に紹介した論文でティーンエイジャーの生活においては普通のことだと言います。犯罪者は、特に男性の場合はそのほとんどがティーンエイジャーから二十代前半だそうです。モフィットが研究したティーンエイジャーの少年の典型的なサンプルのうち、一度も違法行為を行なったことがないと答えた18歳はわずか7パーセントにすぎなかったそうです。犯罪行為は子どもと25歳以降ではまれだそうです。問題を起こすのは、子ども以上大人未満の人たちなのです。

違法行為をした若者の大半は、それなりによい子として子ども時代を過ごし、最後にはそれなりに法を遵守する良民となります。彼らの非行は、モフィットの言うところの「一時的なもの、または場面に限定されているもの」であり、社会的状況に左右されるのです。非行は概して子どもたちが個々人で行なうものではありません。友人とつるんで行なうものなのです。

彼らの行動は反社会的かもしれませんが、社会化に欠けているわけではありません。厄介な存在であるかもしれませんが、多くの場合、彼らは危ない状況に陥っているわけではないのです。いきり立っているように見えるのは、非行の現場を押さえられたからだろうとハリスは言います。彼らのほとんどは普通の子どもたちで、自分のおかれた社会的状況にふさわしい行動をとっているだけだと言うのです。彼らは所属する集団の規範に従い、ときとしてそれは親の規範には反するかもしれませんが、集団内の地位向上を図り、または地位を失わないようにしているだけなのだと言うのです。それを変えたいならば集団の規範を変えるしかありませんが、そう簡単にはいかないのです。

だからとって、ハリスは過剰なまでに悲観的になっているわけではないと言います。ティーンエイジャーの集団の規範は、部分的には大人集団の規範の規範にその基礎をおき、他の文化的情報源、とりわけメディアからの影響を受けます。メディアが暴力行為を魅力に満ちたものとして描くこと、もしくはさらに悪いことに暴力を凡庸なこととして描くことが、過去30年間の犯罪の増加につながったとハリスはは考えています。サン・アンドレスの子どもたちは攻撃的な振る舞いを普通だと思いながら成長しますが、それは村の多くの人々がそのように行動しているからです。北アメリカやヨーロッパの子どもたちも、攻撃的な振る舞いを普通なのだと思いながら成長しますが、それはテレビに映し出される多くの人々がそのように行動しているからです。子どもたちはこのような知見を仲間集団にもちこむのです。仲間たちも同じ村に住み、または同じ番組を見ているので、それらを集団の規範として受け入れるのです。オレたちの社会に住む人々はそのように行動すべきなのだ、と彼らは考えるようになるのです。

実際にそのように行動しなければならない社会もあります。ヤノマミ族の男性は自分の妻の行動が気に入らなければ棒で叩き、体のさほど重要ではない部分に矢を放つそうです。ヤノマミ族に拉致されたプラジル人少女エレナがそれを語っています。成熟したエレナはヤノマミ族の酋長フシウェにもらわれましたが、彼にはすでに四人の妻がいました。フシウェはヤノマミ族にしてはやさしい男でした。何しろ彼女は彼を愛していたそうです。それでも一度、彼女の責任ではなかったある事柄に腹を立て、彼女の腕を折ってしまったことがあったそうです。

犯罪行為” への10件のコメント

  1. 今回のブログで目に留まったのが「子ども以上大人未満の人たち」という表現です。ティーンエイジャーというと基本10代の人たちのことを指します。20代になってもその行為がティーンエイジャーのそれと同じか類似していることはよくあります。「子ども以上大人未満」、なんともキャッチ―な表現だと思いました。子ども以上大人未満の「かれら」は子どもたちや大人たちとは異なる自分たち集団社会の一員としてその「集団の規範」あるいは時に掟に従って行動するのでしょう。わが子がちょうど「かれら」の一員です。残念ながら、わが子が所属する集団がどのような行動をしているのか実のところよくわかりません。もっとも今の所、学校へは行っているようですし、帰宅時間にも乱れがないので、まぁ、「非行」行動には走っていないのだろうと思っています。わが子を信じるだけです。かれら集団の規範がメディアからの影響を受けやすいことは今日、ますます顕著になっていることでしょう。SNSの影響力はテレビの比ではない気がします。今後とも影響媒体はどんどん変化していくことでしょう。

  2. 世界で見る日本の幸福度ランキング、今回は58位だそうです。テレビをつければ悪いニュースか大人が謝っている場面ばかり、とはなるほど確かにと思うところで、そういう中で幸せの見つけ方というのは、本当に難しくなっていってしまっているのかもわかりません。ただ、他人の不幸は蜜の味とはよく言ったもので、メディアがそういった傾向をやめないのは、実は視聴者がそれを求めてしまっていて、いつしかそれが国民性になってしまっている、ということは考えられないでしょうか。毎日家に帰って、子どもとお風呂に入ったり、遅くなれば一人のお風呂の時もありますが、今日もいい日だったなぁ、楽しかったなぁと思います。日本の幸福度を上げる為には、幸せにしてもらう、ということではなくて、自分で幸せになる、ということなのかもわかりません。

  3. 今回の内容を読んですぐは、先入観って怖いのだな、と率直に感じました。しかし少し考えていると、私のこのヤノマミ族は野蛮で恐ろしいと思う考えもまた価値観の押し付けであり、彼らからしたら私たち日本人の文化もおかしなものに値するのかと思ったら、何が正しく何が間違っているのかわからなくなりました。友人の家に遊びにいったとき、その家庭のルールに戸惑っても従うように、その国、地域、国民性にあった文化に戸惑いはしても、それをおかしいと思い変えるべきだと考えるのはお門違いであるのでしょうか。

  4. 〝問題を起こすのは、子ども以上大人未満の人たち〟という表現がおもしろいですね。子どもでもない、大人でもないこの人たちが自分たちで集まり、その集団の規範を遵守していく中で、大人たちとの摩擦が生じるということなんですね。ですが、その行動の模範といいますか、お手本はテレビなどのメディア関係、今だとSNSもその一つでしょうか。むしろ、SNSの影響の方が大きいかもしれませんね。そして、その〝子ども以上大人未満の人たち〟もそのSNSの影響が大きいことを知っているかのように動画を撮り、SNSに上げていくことで自分の価値を高めているのでしょうか。いずれにしても難しい年代ですね。

  5. ティーンエイジャーの集団の規範はメディアから影響を受けていることがあるのですね。よく日本のアニメが暴力的な行動があるから、それに子どもたちは影響を受けているということを言われることがありますが、それはあながち間違っていないということなのでしょうか。ただ、むやみに暴力をふるうような物語は日本では少ないような気がしますが、不良漫画や不良の映画などは人気がありますね。任侠ものも昔から人気があります。人はメディアからとても多くの情報と影響を受けているというのは分かりますが、特に子どもから大人に変わる多感な年代の人たちにとってはより多くの影響を受けるのでしょうね。メディアのあり方は確かに気になるところであります。

  6. 「オレたちの社会に住む人々はそのように行動すべきなのだ」とあるように社会状況がティーンエイジャーの行動を左右することがわかりますね。ただ思い出すのが私が就職試験を受けに行く時に非常に楽しそうな遊びを地元の友達に誘われました。私は「人生がかかってるから行けないや」と断ると地元の友達は「そっか、わかった」と快く聞いてくれました。そんなんいいから来いよと言われるかと思ったところそうではなく今も付き合っている友達ですので、お互いに見通しが持てていたことにら喜びを感じます。話はずれてしまいましたが、「子ども以上大人未満」の時にどう過ごすかは本当に周りの環境次第なんですね。

  7. 藤森先生の話の中で、日本のテレビでは過激なシーンを簡単に子どもも見ることができるが、アメリカはとても厳しいと聞きました。ゲームも同じようなことが言えます。サン・アンドレスの子どもたちではありませんが、幼い頃から暴力的な環境に育っていたならば、攻撃的な性格になるのは普通なのでしょう。今では小学生でもスマホを持つ時代になり、おそらく今後はそれが一般的になった時に、子どもも様々な情報を簡単に入手することができます。そうした時に子どもたち自身が正しい情報を判断し、決断していく必要あるように思います。

  8. 「ティーンエイジャーの集団の規範は、部分的には大人集団の規範にその基礎をおき、他の文化的情報源、とりわけメディアからの影響を受けます」とあります。メディアを作り、管理しているのは大人の側であり、さらに部分的ではあっても大人集団の規範の影響を受けるわけですから、大人は大人としての立ち振る舞いというものを意識しなければいけないように感じます。問題を起こすのは、子ども以上大人未満の人たちが多く、25歳以上では希とありますが、最近では年齢をどんなに重ねても大人になりきれていない人が多いような気がします。そんな大人たちの規範が少なからず子どもたちに影響し、様々な社会的問題の起因となっているのではないでしょうか。大人とはどのような存在であるべきかについて、自分なりに考えてみたいと思いました。

  9. 「彼らの行動は反社会的かもしれませんが、社会化に欠けているわけではありません。厄介な存在であるかもしれませんが、多くの場合、彼らは危ない状況に陥っているわけではないのです」とありました。なんだか少し安心したというか、大きな心を持って子どもたちと接していかなければいけないなと思いました。子どもには教育で善良であることをしっかり教えなければいけないというような意識が強いのかもしれません。だからこそ、少しでも反社会的な行動が見られれば、とことん修正するという雰囲気があるように思いますし、私自身もどこかであるように思います。自分の子どもだったらもっとかもしれません。だからこそ、そういう一面もあると理解しておくことで大きな心で子どもと関われるかもしれないですね。「メディアが暴力行為を魅力に満ちたものとして描くこと、もしくはさらに悪いことに暴力を凡庸なこととして描くことが、過去30年間の犯罪の増加につながったとハリスはは考えています」ともありましたが、これはしっかり考えていかなければいけない問題ですね。

  10. “彼らのほとんどは普通の子どもたちで、自分のおかれた社会的状況にふさわしい行動をとっているだけだ”子どもたちは、まさにその今いる環境のなかで生活し、そして、社会的集団の一員、自分が所属する集団のなかでの振る舞いを学びとっているのですね。そこにある環境に順応する力をもつ子どもが社会的にどのように変わっていくのか、考えるのは、保育環境に対して、子どもが社会の規範としの役割を担うのかしっかりとし、自覚しなければなりませんね。

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