反逆行為

今日多くのティーンエイジャーたちが見せる公然たる反逆行為は、思春期の子どもたちを学校へ通わせる社会にのみ見られる特徴だと言います。14歳で女の子は結婚できます。14歳で男の子は男としての責任と武器を背負うことができると考えられている社会では、そうした行為は全く意味を持たず、存在すらしません。このような14歳は、自ら、そして他人からも成人としてカテゴリー化されるため、自らを大人と区別したいとは思わないとハリスは分析します。特定の大人、たとえば自分を虐使する義母や、自分と妻の獲得を競う父親に対しては憤りを覚えることもありますが、このような憤りには集団性は関与しません。それは、このような社会ではティーンエイジャー同士が親交を深める機会がない場合がほとんどだからだとハリスは言います。自分たちは同じティーンエイジャーだ、という意識はまったくありません。集団性を育む集団そのものが欠けているのです。

ティーンエイジャーが一堂に会すると侮りがたい力となりますが、それはまさに今日の高校の現状だとハリスは言います。古代、はるか2000年以上前においてもそうでした。紀元前四、五世紀のアテネには裕福なアテネ人家庭の息子たちを教育することを生活の糧としていたギリシャ人哲学者たちがいました。ティーンエイジャーの少年たちの公然たる態度の前で自分の立場を守るには、哲学でさえもろすぎました。ソクラテスは敬意が感じられないとぼやいたそうです。学生は「年配者が入室しても起立しない。来訪者の前でもおしゃべりに興し、美味しいものはむさぼるように食べ、師に対しても暴威をふるう」。アリストテレスも同じように学生の態度に腹を立てていたそうです。「彼らは博識ぶり、自分の主張に絶大なる自信をもっていた。実はこれこそが彼らの行きすぎた行動の原因だ」。彼らの放つジョークを哲学者はおもしろいとも思わなかったようだとハリスは言います。「笑い好きで、ひょうきん者。そのひょうきんさは鍛錬された横柄さそのものだった」

師をいらだたせたかもしれませんが、紀元前四世紀のアテネを古代世界のホット・スポット、当時の流行発信地へとのしあげたのはほかでもない彼らだったのです。子どもでも大人でもない人工を集めて集団.をつくらせれば、そこには急激な社会変化のメカニズムができあがるのです。

子どもと大人、その二つの年齢集団しかない社会では、何百の世代を越えても文化は本質的に変わることなく受け継がれていきます。子どもたちが文化の改変者になることはありません。まだまだコツを覚える最中にあり、十分独立してないからだと言います。大人も文化の改変者にはなりえません。現状を維持しようとするからです。文化を改変できるのは10代後半から20代前半で独自集団を持つ人々だと言うのです。集団性により、親や教師の世代とは一線を画したいという気持ちが駆り立てられるというのです。自分たちは一世代前とは違った存在でありたいという気持ちがあまりに強いため、両者の違いは改善する方向とは限りません。実際、改善ではない場合がほとんどだと言うのです。彼らは違う行動、違う思想を受け入れ、新語を造語し、斬新なファッションも生みだします。さらにこれらの行動、思想などを携えたまま成人になるのです。彼らは自分の子どもに、差別化を図る新たな方法を生み出すという重圧を残すと言うのです。「ママとパパはマリファナを吸っていたらしい。嫌だ嫌だ、私たちは別のものを吸いましよう!」という具合です。

反逆行為” への9件のコメント

  1. 今回も新たな気づきがありました。「ティーンエイジャーたちが見せる公然たる反逆行為は、思春期の子どもたちを学校へ通わせる社会にのみ見られる特徴」。これです。そして学校どころか「14歳で女の子は結婚できます。14歳で男の子は男としての責任と武器を背負うことができると考えられている社会では、そうした行為は全く意味を持たず、存在すらしません。」という無学校社会。14歳にして男女が一緒になり夫婦生活を営み社会を形成していく。そうした伝統のもとにいると「子どもたちが文化の改変者になることはありません。・・・大人も文化の改変者にはなりえません。」すなわち目新しいことがその社会では起こらないということになります。私にとって「学校」という機関の意味がこれまでは異なった意味を帯びて自身の中に存在しなおしました。まさに学校が十代後半から20代前半までの子ども集団に「反逆行為」を許すと共に「文化を改変できる」力をもたらす。現在わが子はその時期を生きています。彼も反逆行為の一員でありながら文化改変者の一人として今を生きているということがわかります。ますます子どもを見守っていくことの必要性を痛感するのです。

  2. アリストテレスも現代教育者と同じ悩みに直面していたと思うと親近感が湧いてきます。そうして、生徒や子どもたちが教師や保育者をいつの時代も悩まてきたのだと思うと、そういうことを覚悟して臨む仕事なのだという、この仕事の新たな一面を見つけたような思いがしました。
    しかしながら当の生徒たち、子どもたちはこうして文化の継承すべきものとそうでないものとを精査し、新たなものを創出し、そして集団の力でもって拡散して時代を織り成していきます。大人というカテゴリーに所属した大人たちにできることとは、やはり見守ることなのでしょう。子どもたちの歩んでいる道が脇道に逸れているように見えても、それは子どもたちに必要な学びなのかもわからず、それでも取るべき責任を取る覚悟でもって見守る。大人も大変な役割を担わされていると改めて感じます。

  3. 〝子どもでも大人でもない人工を集めて集団.をつくらせれば、そこには急激な社会変化のメカニズムができあがる〟とあり、考えてみれば明治維新を成し遂げたのも若者たちが真剣に日本のことを考えていたからだ、と言っても過言ではないと思います。真剣な革変の思いは、維持しようとする大人たちの勢いをもやがて凌駕していくというのは歴史的にもその証明がされているのかもしれませんね。
    自分たち大人からみれば、脇道に逸れているようなことでも、その子たちにとっては必要な学びであり、自分たちにはないものを学んでいるのだと考えてみていくと、少し立ち止まってみていくのもありではないか、と思います。でも、行き過ぎは止めなければなりません。大人の役目もなかなか難しいものですね。

  4. 自分たちは一世代前とは違った存在でありたいという気持ちは確かにありました。特に10代半ばから後半の頃は、親世代以前の考え方や枠組みは古いと決めつけ、自分たちはそうはならない、新たな形を作り出すのだという気概に満ちていた気がします。そして、そのような想いが文化の変革に繋がるということを今回知りました。確かに高校生をはじめとするティーンエイジャー世代の集団は色々な意味で侮れない存在だと思います。ただ、その集団が既存の文化のあり方に対して疑問を投げかけ、打破しようとする力が文化をより高みへと押し上げている部分もあるような気がします。それを踏まえると彼らの反逆行為もまた違った見方、捉え方が出来そうです。

  5. 「ひょうきんさは鍛錬された横柄さ」というのは最近のお笑いでも多くあるのかもしれませんね。「お笑い」の定義というものの中で、「いじめが誘発される」ということや「見ていて不快」と言われることが多いですが、同じようなものを感じているからなのかもしれませんね。よく芸人が街で歩くときと芸人としてテレビに出ているときとが違うということがありますが、やはり見ていてもテレビと現実とは違うのでしょうね。まぁ見ていても確かに素直に笑えないバラエティ番組もあります。それが良いのか悪いのか分かりませんし、エンターテイメントとして見るのはいいのですが、それが現実でも当たり前として捉えられると危険だなと思うことは確かにあります。そもそもの道徳性が求められるのでしょうが、その根底にカテゴリー分けや大人と子どもの区別というものも関係しているのかもしれません。なんかまとめられず、結果何を話したいのかまとまらないのですが、そんなことを感じます。

  6. 「反逆行為は、思春期の子どもたちを学校へ通わせる社会にのみ見られる特徴」ということそして、「古代、はるか2000年以上前においてもそうでした。」とあるようにティーンエイジャーというのは大昔から変わらない存在であったことが伺えます。また「子どもと大人、その二つの年齢集団しかない社会では、何百の世代を越えても文化は本質的に変わることなく受け継がれていきます」という本質的なところにせまるとこの二つの社会があるからなのですね。それを踏まえた大人の関わり方というのも難しいですね。

  7. 話がそれるかもしれませんが、ファッションやグルメなど今の時代は目まぐるしく変化し、それらに敏感に反応し流行りに乗っている人を見ると本当にすごい能力だと感心します。こうした新しいものが生み出されるという事は、それこそ自分たちは一世代とは一線を画したいという気持ちの表れで、変化を求め、自分を表現しているように思います。ソクラテス、アリストテレスも学生に対して腹を立てていたと書いてありますが、学生自身の質も違うような気がします。結果的に彼らが流行発信地へとのし上げたのも、それだけの能力を持っていたからではないでしょうか?ただ反逆行為に走るのでなく、それだけのパワーを何か社会へと貢献できる方向に転換できる、それをサポートするのが大人の役割だと思いました。

  8. ソクラテスの話はおもしろいです。「最近の若者は」なんて言いますが、いつの世も同じなんだなということを思わされます。「文化を改変できるのは10代後半から20代前半で独自集団を持つ人々だと言うのです」とありました。確かに私自身も今と比べるとそれくらいの年代の時には、そういった気持ちを持っていたように思います。そして、流行したものを思い出して見てもやはりそこには10~20代前半の若者による多くの指示がありますね。今でいうところのタピオカみたいなものでしょうか。そういった様々なアイデアというのか、そのような発想を大人が大切にしていくということも重要なことなのかもしれません。

  9. “このような14歳は、自ら、そして他人からも成人としてカテゴリー化されるため、自らを大人と区別したいとは思わないとハリスは分析します。”確かにと納得してしまいます。社会的集団、いく世代のなかで、継承されてきた集団的文化により、子どもと大人という2つのカテゴリーしか存在しなければ、日本の学生時代のような体は大人、心理的には大人とは違うといった狭間な時代はないことになりますよね。そうした時期がないことは、この文化で育ったものが学生のようなカテゴリーがある文化に入ることになったとしても、今までの内容から考えれば、社会的集団でのカテゴリーの一員として振る舞おうとするのでしょうね。しかし、この時期の存在が社会を形成していくためには必要な存在であることも感じました。

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