道徳心の教育

機能不全家族。確かにありえないことではないとハリスは言います。このような家庭を訪れたいとも思わなければ、そこに住みたいとも思わないと彼女は言います。この息子の実の父親でさえ、このような家庭には住みたくないでしょう。古い笑い話をハリスは紹介しています。

心理学者:ジョニーにはやさしくしてあげてください。彼の家庭はすっかりバラバラになってしまっているので。

教師:そうでしようね。ジョニーならどんな家庭でもバラバラにしてしまうでしようね。

親にとって育てるのが難しい子、社会化を施すのが難しい子。ほとんどの心理学者にとってはこの二つの言いまわしは事実上同じことを意味しています。というのも社会化を施すのは親の役目だと考えられているからです。ハリスはこの二つは別物だと思っています。両者間に相関関係が成立する場合が多いのは事実ですが、それは子どもたちがどこへ行くにも自分が受け継いだ特徴をもち歩くからだと言います。ところが、その相関関係は決して強いものではありません。なぜなら子育てが行なわれる家庭内の社会的状況は、社会化が施される家庭外の社会的状況とは大きく異なるからだと言うのです。家庭では鼻持ちならない子どもも、家庭外ではそうとも限りません。ジョニーはどこへ行っても鼻持ちならない子どもかもしれませんが、幸いなことにそのような子どもはまれだと言うのです。

社会化という言葉は、家庭で施されるべき道徳心の教育を意味する場合が圧倒的に多いのです。親は子どもたちに、盗まないこと、嘘をつかないこと、ズルをしないことを教える責任があるとハリスは考えています。ところがここでもまた、子どもたちの家での行動とそれ以外の場所での行動の相関関係は低いのです。家庭内で誰にも見られていないと思ったときにルールを破ることが観察されている子どもが、学校のテストや公園での遊びでズルをはたらく可能性が他の子どもと比べて際だって高いわけではないそうです。道徳心は、身につけるべき他の社会的行動と同様、それを獲得した状况と結びついているというのです。腕っこきドジャーも母親の前ではとびっきりのよい子だったのかもしれません。もっとも母親がいたらの話だと言います。

もし母親が生きていればオリヴァーも母親の悩みの種になっていたかもしれないと、とは考えにくいと言います。オリヴァーは行く先々で人と親しくなりました。女性の心をとりこにしました。生まれながらのやさしさと端正な顔立ちでいつもうまく立ちまわりました。ディケンズが描写したように、オリヴァーに備わっていた特性はまさに扱いやすい子どもの特徴そのものでした。他人の気持ちに敏感で、ほとんど臆病とも言えるほど刑罰や苦痛を恐れたのです。彼は明るく、一時の感情に駆られることもなく、攻撃的でもありませんでした。

ディケンズは正しかったのでしょうか。生まれながらにして善である子どもはいるのでしょうか。ハリスは、ここでジョン・ワトソンが好むであろう実験をしてみています。

性善・性悪

ディケンズの『オリヴァー・ツイスト』では、ファギンが、お腹をすかせた男の子四、五人に〈われわれ〉意識を養わせ、スリの手ほどきをし、彼らを〈彼ら〉である裕福な人々にけしかけたのです。ところが自分の手下であったロンドンのスラム街の子どもたちには滞りない効果を見せたファギン派もオリヴァーには通用しませんでした。ディケンズは、それをオリヴァーが良家の出身であることに帰していますが、その原因は他にあるかもしれないとハリスは考えています。オリヴァーは自分自身をファギンの一味である他の男の子たちと同一視しませんでした。彼らはロンドン生まれですが、オリヴァーは違っていたからです。彼らは盗人の隠語を話しましたが、オリヴァーにとってそれはまるで外国語のように聞こえたのです。あまりに違っている点が多く、新しい仲間に自分を順応させる間もなく、オリヴァーは彼らの行為が法に反することに気づいたのです。

『オリヴァー・ツイスト』が出版されたのは1838年ですが、当時はまだ性悪説、性善説が政治的に認められていた時代です。個々が属する人種もしくは民族集団によって、その人の悪行を予測できると考えることが実際に政治的にも認められていた時代です。ディケンズはファギンを「ユダヤ教徒」とも呼んでいました。時代は決して最悪の時ではありませんでしたが、それはたしかに最良の時でもありませんでした。

今日、個々に着眼した解釈、すなわち生まれながらにして悪なる子どもたちがいるという概念も、集団に着眼した解釈も、ともに政治的には不適切だと考えられています。西洋文化は哲学者ルソーの見解である、「子どもたちは皆生まれながらにして善であり、社会、すなわち彼らの環境がそれを堕落させてしまう」という見解に回帰した形となりました。これを楽観するべきか悲観するべきかはわかりませんが、これではあまりに多くのことが説明されないままとなってしまうとハリスは言います。ディケンズが生きた時代のロンドンのスラム街においてですら、全員が腕っこきドジャーになれたわけではないのです。同じ家庭の中でさえ、一人は良民となり、別の一人は犯罪者として一生を過ごすことになる場合があるのだというのです。

私たちは、もはや生まれながらにして悪なる子どもたちがいるとは言いませんが、残念ながら、遠まわしにそれを肯定せざるをえない状況にあると言います。今日、心理学者たちは子どもたちの中には「難しい」気質をもって生まれてくる子どもたちがいるという表現を使います。難しいとは、親が育てるのが難しい、社会化を果たすのが難しいことを意味します。活発で衝動的、攻撃的で怒りやすい。日々の仕事に飽きやすく、興奮を求める傾向にあります。傷つくことを恐れず、他人の気持ちに鈍感です。たいていは筋肉質で、IQは平均をわずかに下まわります。これらの特徴はすべて明らかに遺伝的な要素を含んでいます。

発達心理学者たちは、扱いの難しい子どもが管理能力の劣る親のもとに生まれた場合の弊害について述べています。実際こうした親子の組み合わせは、仮にあらゆる遺伝子が各世代に無作為に分配されることがあったとしたら、その場合よりも高い頻度で出現しているとハリスは言います。息子とその母親は悪循環に陥り、さらなる悪化の一途をたどることになります。母親は息子に何かをするように、もしくはしないようにと指示しますが、息子はそれを無視します。母親はふたたび同じ言葉を繰り返します。すると彼は怒りだし、母親は諦めてしまうのです。最終的には母親も怒りだし、息子を激しく叱責しますが、時既に遅し。あまりに一貫性に欠けていて、教育的効果をもたらすこともありません。いずれにしてもこの子どもは傷つくことを恐れない子どもだと言います。少なくとも退屈しのぎくらいにはなったことぐらいです。

親から受け継ぐもの

エイミーは完全に嫌われた子どもでしたが、彼女には別の家庭に養子に出された一卵性双生児の姉妹、ベスがいたことから注目されます。ベスは嫌われっ子ではなく、むしろ母親のお気に入りでした。彼女の親はとりわけ教育熱心ではなかったため、双子の姉妹として共有していた学習障害は、さほど問題にはなりませんでした。ベスの母親はエイミーの母親とは異なり、気持ちのわかる、寛大で明るい人でした。それでもベスはエイミーと同じ性格上の問題をかかえていました。二人を研究した精神分析学者は、もし一方しか見ていなければその原因を家庭環境に求めるような説明を考えつくことはいとも簡単だったと認めています。ところが、実際には二人いたのです。同じ症状を呈していますが、育った家庭はあまりに違っていたのです。

同じ症状、同じ遺伝子。こうなると偶然とは考えられないとハリスは言います。エイミーとベスが生みの親、それは二人を養子に出した母親とその母親を妊娠させた男性ですが、この二人から受け継いだ遺伝子の中の何かがこのようにまれな症状を引き起こす素因となったに違いないのです。エイミーとベスがこのような素因を生みの親から「受け継いだ」と言っても誤解しないでもらいたいとハリスは念を押しています。彼女たちの生みの親は同様の症状を呈していないかもしれないと言うのです。遺伝子の組み合わせが少しでも違えば、大きく異なる結果をもたらすことになり、まったく同じ組み合わせをもつのは一卵性双生児だけなのです。二卵性双生児は驚くほど異なる場合があり、それは親子間でも同じです。子どもは両親のいずれにも見られないような性格をもつ場合があります。ところが、心理的な問題をかかえている人が同様の問題をかかえる生みの親や生物学的な子どもをもつ可能性については偶然よりも大きくなるという統計学的関連性が認められているそうです。

遺伝は、問題をかかえる親の子どももまた問題をかかえるようになることの原因の一つとして考えられます。それは単純明快、否定することのできない事実であるとハリスは言います。それでいながら、心理学でこれほど無視されることの多い事実もないと言います。発達心理学者および臨床心理学者たちは遺伝に注目しませんので、今もまだジョン・ワトソンが12名の乳児を医者、弁護士、乞食や泥棒にでも育てあげられると言った時代にいるのではと思えてしまうとハリスは言うのです。

盗人、これは新たな解釈をはじめるには格好の題材だとハリスは言います。彼女は、子どもの犯罪行為をその親が与えた環境、すなわち親の育児態度やこれといった態度をもたずにいたことにその原因を求めることなく説明してみようとしています。ですが、遺伝にすべてを押しつけるつもりはないので心配はいらないと言います。しかし、遺伝抜きには説明できないとも言います。

ハリスは、自分の子どもを盗人に仕立て上げるならどうするかと問うています。チャールズ・ディケンズの『オリヴァー・ツイスト』に登場するファギンならワトソンに一言二言、言いたいことがあっただろうとハリスは言います。私も、この小説の中に登場する少年たちのことを思い浮かべます。この小説の中で、ファギンは、お腹をすかせた男の子四、五人に〈われわれ〉意識を養わせ、スリの手ほどきをし、彼らを〈彼ら〉である裕福な人々にけしかけたのです。そこではじまるのは集団間の戦いであり、それは私たち人類に昔から伝わるものであり、正常な人間、とりわけ男性においてはほとんどどこででも見ることのできる現象だと言うのです。ハリスは、「すがすがしい朝の表情を見せながら学校へ通うあなたのかわいい息子さんも薄っぺらい仮面をかぶった戦士にほかならない。」というのです。このような解釈をハリスがこの小説にするのは、とても興味深いです。

遺伝への注目

100年前、《JAMA》の論説者は、7歳のカール・マケルヒニーの「犯罪意識の発達異常」は彼の母親が妊娠中に読んでいた本に原困があるとしたそうです。今日、《JAMA》の論説者は、間違いなくカールの異常性をマケルヒニー夫人が犯した他の間違い、彼が生まれた後に行なった何か、もしくはし損ねた何か、に帰するでしょう。いずれにしても、カールの遺伝的素質に注目しないとハリスは指摘します。マケルヒニー夫人は犯罪に夢中だったとされています。「朝、昼、晩と彼女の頭の中は空想の、それも最も残虐な事件のことでいっぱいでした」カールとその母親は遺伝子の半分を共有し、二人とも最も残虐な事件が大好きなのです。

ハリスは、以前、乳児の頃に引き離され、別々の家庭で育てられた一卵性双生児の例をいくつか詳しく述べていました。お笑い姉妹はともに過剰なまでの笑い上戸でした。二人のジムは、ともに爪を噛む癖があり、大工仕事が好きで、同じ銘柄のタバコを吸い、同じ銘柄のビールを飲み、そして同じ車種の車に乗っています。二人は雑誌を後ろから前に読み、トイレを使用する前には一度流し、エレベーターの中ではくしやみをしました。彼らは二人ともボランティアの消防団員になりました。また別の双子は、海に行くと後ろ向きに、しかも膝の深さまでしかに入りません。その他にもともに銃職人になった双子、ともにファッション・デザイナーになった双子、そしてともに結婚歴五回という双子もいるそうです。これらはタブロイド紙記者のでっち上げではありません。立派な学術誌に掲載された立派な科学者による報告だそうです。こうした逸話は数多く、すべてが偶然とはとても思えません。不気味なまでに似ているというこのような話は、乳児の頃に引き離され、別々の家庭で育てられた二卵性双生児ではあまり聞かないそうです。

行動遺伝学の研究によって、人の性格に見られるばらつきのかなりの部分は遺伝によるものであることが紛れなく証明されました。他よりも短気な人、社交性豊かな人、そして小心な人がいます。こうした多様性は生得的な遺伝子による作用であると同時に、誕生後の経験によるものでもあるのです。その正確な割合、どの程度が遺伝子による作用でどの程度が経験によるものなのか、が重要ではないとハリスは言います。重要なのは、遺伝は無視できないという点だというのです。

ところが、通常それは無視されているとハリスは言います。たとえば養子のエイミーの場合です。それは養子の成功例ではありません。エイミーの親はエイミーに失望し、男の子である上の子を偏愛しました。学業成績を重要視した親でしたが、エイミーには学習障害があったのです。実直であることと感情を抑えることを親は重視しましたが、エイミーは派手な役回りが好きで、仮病も使いました。10歳になったころには、彼女は深刻でしたがはっきりとしない心理的障害を患うようになっていました。彼女は病的に幼く、社会能力に欠け、性格が浅薄で、突飛な表出が目立ちました。

エイミーは完全に嫌われた子どもだったのです。このケースが注目されたのは、エイミーには別の家庭に養子に出された一卵性双生児の姉妹、ベスがいたからです。

肥満児

ある新聞のコラムニストは、肥満児をもつ親からの相談に対して、「専門家」の意見を引用しながら次のように答えています。

「親がまずすべきことはよい手本を見せるということだと小児科医ナンシー・A・ヘルドは言う。“もし親が食生活に無頓着で、座ってばかりいれば、その行動を子どもは真似とするようになる”」

小児科医も間違っていれば、マンガ家も間違っているとハリスは言います。キャシーの親に責任があるとすれば、それは自分の娘に自分たちの遺伝子を受け継がせてしまったことだけだと言いきります。彼女の親もまた、かわいく、ぽっちゃりとしているのです。キャシーはそのかわいらしさを受け継いだのと同じように、ぽっちゃりさも受け継いでしまったのです。

ハリスは以前、遺伝と環境のそれぞれの影響を行動遺伝学的方法で切り離して考えることができることについて述べています。性格の特徴を調べるのと同じ方法が、肥満に関する研究においても応川されているのです。一卵性双生児は一緒に育てられようともそうでなくとも、大人になってからの体重も似通っているのが普通です。その類似性は二卵性双生児よりも高いのです。養子はその養父母や養子縁組による兄弟とは肥満度や細さでは類似しません。

そこで、ハリスは考えてみようと提案しています。二人の養子が同じ家庭、同じ養父母に引き取られました。養父母はキャラメルポップコーン好きのカウチボテト族かもしれませんし、毎日トレーニング・ジムに通う熱心なブロッコリ信奉者かもしれません。子どもたちは二人とも同じ親の行動にさらされます。二人とも同じ食事をとり、同じおやつを口にします。それでも一人は脂肪の少ない理想的な体型に、他方は肥満になります。

肥満や細さが遺伝する確率は、性格の特徴より多少高く、およそ0.70だそうです。ただし重要なのは、遺伝子以外の要因すなわち環境的要因による体重のばらつきは、家庭環境にその原因を求めることはできないということだとハリスは言うのです。親の行動が子どもの体重に長期的な影響を与えることを示す証拠はなく、むしろ影響を与えないという証拠ならかなり揃っているそうです。それにもかかわらす、新聞のコラムニストも小児科医も疑うことを許さないかのような口調で、親が「よい手本を示せば」子どもは一生細身で通すことができるなどと親に教示するのです。

これは間違っているだけでなく、親を不当に扱うことにもなるとハリスは危惧しています。あなたが不幸にも太っていて、子どもも同じ不幸を背負っている場合、あなたの食生活の乱れや運動不足が責められるだけでなく、子どもたちの不幸についても責めを負わされます。あなたが太っているのはあなたの責任で、子どもたちが太っているのもあなたの責任だとされてしまうのです。

この点でハリスは立腹しているそうです。肥満の親の子どももまた肥満児になりやすいのは、親が与える食事のせいや親が悪い手本になっているせいではないと考えています。肥満はその大部分は遺伝により受け継がれるものなのです。

親の在り方

もしあなたが自分の子どもを正しく扱わなければ、子育て神話に基づくと、彼らが望ましくない方向に育ってしまうだけでなく、彼らは「親のあり方としても欠陥をかかえる」ことになるため、彼らの子どもたちもまた望ましくない方向に育ち、それもまたあなたの責任にされてしまうと言います。ですからハリスはそんな人を楽にさせてあげようと、つまるところはその人の責任ではないという証拠を提示したいと思っていると言います。ただし、これはギブ・アンド・テイクだというのです。ハリスは、その証拠を提示するかわりに、あなたにもしていただきたいことがあると言います。それは、自分の子どもはどのように扱ってもかまわないとハリスが言っていたと人に言い触らすことはやめてほしいというのです。ハリスは、そのようなことは言ってもいないし、それをほのめかしてもいなければ、そのように考えてもいないと言います。自分の子どもを邪慳に扱ったり、疎かにしたりすることは決して正しいことではありません。それにはいくつもの理由があるのですが、何をおいても子どもとは考え、感じることのできる、そして繊細な人間であり、しかも自分の生活にかかわる年配の人々に頼りきっている存在だからだと言います。彼らの将来を操ることはできないかもしれませんが、私たちはまさに彼らの今日を手中におさめ、彼らの今日をひどく不幸にさせてしまうこともあるのです。

しかし、これを忘れてはならないと言います。親もまた考え、感じることのできる繊細な人間であり、子どももまた力を保持しているのです。彼らだって親をかなり不幸にすることがあると言うのです。

ハリスは、ある年の父の日に掲載されたマンガには、かわいくてぽっちゃりとしたキャシーが親と一緒に家族アルバムを見ている様子が描かれていたそうです。「ほら、私がちょうど一歳のときの父の日よ、パパ」とキャシーは言います。「私のはじめてのアイスクリーム・コーンをもってくれているのね」次のコマにはキャシーに綿菓子をはじめて与えたときの写真を三人で見ている様子が描かれています。その二つ後には、パパが学校の劇で恥をかいたキャシーをなだめるために買ってあげた大きなチョコレートの箱が登場します。フライドボテト、キャラメルポップコーン、モルテッド・ミルク、それらは全部パパに買ってもら「たにアイスクリームを混ぜたものそこでママがびしやりと言った。ほら、これで証明できたもの。

そこでママがぴしゃりと言いました。

「ほら、これで証明できたわね。太る原因はすべてあなたのお父さまが与えていたのね。いけない食習慣はすべてあなたのお父さまから受け継いだのね。ついに身の潔白を証明できたわ。あなたの体重に問題があるのは、それはすべて彼の責任よ!」

とはいえ、母親はそう簡単に重責から解放されるわけではありません。キャシーは母親の身の潔白に納得していません。しかもマンガの作者は読者に二つの選択肢しか与えてくれていません。ママの責任か、もしくはパパの責任か。

これが子育て神話の威力だとハリスは言うのです。もしキャシーの体重に問題があるとすれば(実際に問題があるのだが)、それは親の育て方に問題があったに違いない、と誰もが真っ先に考えます。

妊婦のケア

カールの発達に異常をもたらしたのは、昨日紹介した論説によると、妊娠中に母親が読んだ本が母親の心に与えた印象だと言います。女性の心に強烈な印象を与えると、それによって「その女性の胎内に宿る子どもの発達が遅れたり、止まったり、もしくは障害がもたらされたりすることがある。」というのです。

通常の論説がそうであるように、この論説も最後は教訓で締めくくっているそうです。

「科学的な医者であるわれわれは、…妊婦のケアの方法を、そして母体からの影響の重大さを人々に教示しなければならない。スパルタ人は戦士を育てたが、この世代の人間はよりまともな人材を育てることができるはずだ。後世に役立つ将来への貢献をするとすれば、彼らに母体が胎児に与える影響の重大さを教え、妊婦への手厚いケアを行なうことである。」

「妊婦への手厚いケア」の中にはおそらく、彼女たちが読むことのできる書物を念入りに選ぶことも含まれているのだろうとハリスは言います。

これほど馬鹿げたことはないと思うだろうと言うのです。100年前はかなり愚かだったようだとも言います。さらに、私たちはそれよりはましというのです。そして、こう嘆いています。「今日“専門家”たちが子どもたちが時に望ましくない方向に育つことについて語る内容は100年前と同じように間違っているのではないか。しかもその恩きせがましい様子も当時と変わっていない。」

母体からの影響という考え方、すなわち妊婦の行動および思考は胎児に影響を及ぼすという発想は論説を書いた医者によって考案されたものではないと言います。それは多くの文化において昔から語り継がれ、人々に浸透した考え方なのです。以前、ハリスは古代の親は一般的に自分たちの育て方が子どもたちの将来を決めるような長期的な影響を及ぼすとは思ってはいませんでした。とはいえ、その親たちは子どもたちが皆同じではないことや、中には他よりも望ましい人間へと育つ子どももいることは認識していました。同じ両親のもとでも大きく異なる特徴をもつ子どもたちが育つため、その違いに遺伝がどのようにかかわっているか、その構図を明らかにすることは簡単ではないとハリスは言います。さらにその違いの多くは生まれたとき、もしくは少なくとも誕生直後から見られるので、その理由を胎内にいるときに起こった事象に求めることは決して不条理なことではなかったのです。

こうした推論は多くの伝統的社会の妊婦たちを規則で東縛することになってしまったとハリスは言うのです。行動も、目にするもの、口にするものも限られてしまったのです。時にはそのような規制が父親にも及ぶことがありました。子どもが望ましくない方向へ育てば、近隣の人々はその責任を親に押しつけました。妊娠中に何か望ましくないことをしでかしたに違いない、規則を遵守しなかったに違いないと決めつけたのです。結局、世の中はそれほど多く変わったわけではないとハリスは言います。大きく変わったことといえば、昔は親の有責期間はたったの九カ月しかつづかなかったという点だと言います。

今日では有責期間は果てしなくつづきます。もしあなたが自分の子どもを正しく扱わなければ、子育て神話に基づくと、彼らが望ましくない方向に育ってしまうだけでなく、彼らは「親のあり方としても欠陥をかかえる」ことになるため、彼らの子どもたちもまた望ましくない方向に育ち、それもまたあなたの責任にされてしまうのです。

「私」

子ども時代および思春期に仲間集団の中で私たちが獲得する性格は、死ぬまで私たちに連れ添うことになります。遠近両用の眼鏡が必要になっても、目を通して外界を見るのはその「私」なのだとハリスは言います。この不朽で不変の「私」は自身が宿る肉体の変化に何度も驚かされ、たびたび幻減し、時には喜びを感じます。老人たちは奇妙にも変わってしまった自分の姿に若者たちが気づいてくれないのではないかと恐れます。それには正当な理由があると言うのです。技術の発達がそれを食い止めたり逆転させたりすることを可能にしたので、中には自分の外観が中身とあまりにかけ離れないようそれを試す者もいます。

ハリス自身も同じようにそのミスマッチを痛切に感じていると言いますが、それを食い止めようとは思わないそうです。時折鏡をのぞきこんでは、白髪や、鼻、口、目の周りの皺を見て、なんて滑稽なと一瞬思うそうです。高校の演劇会でおばあさん役を演ずるためにみっともない衣装を着た私がそこにいると言います。白い粉で髪を白くし、アイブロー・ペンシルで皺を描きます。ただし、もはやそれらを洗いながすことはできないのです。

17歳から25歳までのどこかの段階で、内在する「私」の変化が止まります。変化が止まるのは、脳が物理的に成熟したからかもしれません。そうであるならば女性よりも成熟が遅い男性は、女性よりもわずかですが成形期間が長くなるはずです。大人が子どものときのような感覚で仲聞集団をもたなくなるから変化が止まるのかもしれません。そうであるならば大学に行く人は行かない人よりも成形期間がわすかですが長くなるかもしれません。もしくは大人になると集団規範に同化しない場合の罰則がはるかに寛大になるからかもしれないのです。そうであるならば性別や学歴などによる系統的な違いは見られないはずです。

子ども時代そして思春期に形成され、洗練された性格は、死ぬまで私たちに連れ添うのです。ハリスの母親はアルツハイマー病を患い、話すこともできなくなってしまったそうですが、80歳のときにはまだ話すことできました。80歳の誕生日に何歳になったかわかるかとハリスが訊いたところ、質間の趣旨は理解できたものの返答の根拠となる記憶を失っていた母親は、でたらめにこう答えたそうです。「20歳かしら?」

アメリカの医学会機関誌の論説によると、カール・マケルヒーは児童殺人犯でした。いや、子どもを殺した犯人ではありません。殺人を犯した7歳の少年です。その論説は100年前に掲載されたものですが、歴史的な関心を呼び、最近JAMAに再掲されたそうです。

カールの犯した犯罪の詳細はわからないそうですが、というのは論説の焦点は犯罪者自身ではなく、その母親におかれていたからです。

「カールが生まれる前のマケルヒニー夫人は大の小説好きだ。朝、昼、晩と彼女の頭の中は空想の、それも最も残虐な事件のことでいっぱいだった。物事の認識に関しては繊細で、感受性豊かな女性であったため、小説に描かれた過度の窮状、心の動き、悪行をまるで現実のものであるかのように受け止め、カールが生まれるまでの数週間、彼女の心は惨めにも歪められてしまっていた。生まれた男の子は犯罪に関する意識の発達に異常が見られた。彼は残酷さを好んだ。その特殊な欲求を満たすには非常に恐ろしいことを起こさなければならなかった。これほどまでに非凡なケースは犯罪史上初めてではないだろうか。男の子が成熟すれば、これらの心の状態も成熟することになる。彼は社会によって危険な存在だ。」

同化の時期

子ども同様、大人も社会的状況に適合するように自分の行動を調整するとハリスは言います。ウィリアム・ジェイムズは、子どもにはやさしいが自分の管理下にいる囚人には厳しいという男性に言及しています。ところが、このような一時的な行動の変化は若い人に見られるような長期的変化をもたらすだけの力をもってはいません。子ども時代と思春期に人は、生涯にわたって彼らに仕えることになる行動パターンとそのパターンに付随する概念や感情を獲得するのです。大人の性格は変化をかなり嫌い、これをジェイムズは「性格はまるで漆喰のように固められた」と評しているそうです。彼が100年前に「習慣」と呼んだものからは、大人は「コートの袖が新たな折り目をつける程度にしか逸脱しない」というのです。

大人の言語も同様に変化を嫌いますが、その固定化は性格の固定化よりも早い時期に訪れると言います。人は訛りのない言語を獲得するのにわずか13年程度しか与えられていません。アメリカに移住した移民の家族では、きょうだいの一人が当時思春期、もう一人が数歳年下だった場合、大人になってからの二人の英語に違いが生じることがあります。年下は訛りのないアメリカの英語を身につけ、年上の方の英語には昔の訛りが消えずに残っています。

子ども時代は自分のいる社会においてふさわしいとされる行動様式と話し方を学ぶ時期です。この学習は普通なら意識することもないほど深いレベルで行なわれます。子どもたちは親が指摘するまでは、または指摘してもなお自分が仲間たちの訛りや行動を家庭にもちこんでいることに気づきません。これが大人になると、行動様式や話し方を意図的に変えることがいかに難しいか、もしくは不可能であることがわかります。ハリスは、これらのようにたいてい無意識的で何気なしの行動様式について述べているのです。それらはハリスの考えるところ、親からではなく、仲間たちから得るものなのだと主張しているのです。

心理学者たちは、ある不可欠な事象があり、それが起こるべき一定時期を「臨界期」と呼います。その例として頻繁に登場するのがアヒルの刻印づけです。いわゆるインプリンティングと言われているものです。またある事象をもっともたやすく達成できる一定時期を意味する用語として「感受期」を使います。子ども時代は「ネイティブな」言語を獲得し、「ネイティブの」性格を形成する「感受期」です。言語や性格は思春期にはさらに洗練されることもありますが、基本的な枠組みはそのときすでに完成しているとハリスは言います。

同調の時代

ハリスは、思春期はたびたび同調の時代、すなわち仲間たちから最も影響を受けやすい年代だと評されますが、人はどんな年齢においても仲間たちからの影響を受けやすいのだと言います。そして、思春期よりもおそらく子ども時代のほうが同調することが多いだろうと言うのです。社会心理学者ソロモン・アッシュによると、あの有名な集団同調性テストにおいて全被験者の中で最も多数意見に流されやすかったのは10歳未満の子どもたちだったそうです。他の子どもたちが全員間違った判断をする中で、最も幼い被験者のわずか一握りだけが正しい知覚判断をつづけることができたそうです。子ども時代は同調への圧力が最も強い時期なのです。

誰からより強く影響を受けているか、たとえばもし親と友人がそれそれ相反する助言をした場合どうするかと子どもに聞くと、幼い子どもほど親の意見を参考にすると答えます。もっともこの質問は状況に関係なく聞いたものであり、聞き手も大人です。子どもたちは質問の意味を「親と友だち、どっちが好き?」と解釈してしまうかもしれません。当然彼らにとっては友人への愛よりも親への愛情の方が強いのです。その答えは心の中でも個人間の関係を司る部分が出したものですが、長い目で見た場合、家の外の世界で彼らがどう行動するかを決定するのは集団を司る部分であるはずだとハリスは考えています。

子ども時代は同化の時期だと言います。この時期に子どもたちは同じ年代、同じジェンダー集団に属する各人たちと同じように行動することを学びます。子どもたちはこうして社会化を果たすのです。年齢集団が子どもと大人の二つしかない社会では、14年という歳月はまずまずの大人をつくり上げるには十分だとされています。そのような社会では成人した男性、女性のあり方がかなり明確にされているのです。その点に関しては選択の余地はほとんどありません。

ところが子ども時代は分化の時期でもあります。地味か派手か、頑固か柔和か、敏捷か緩慢か、子どもは自分がいかなる人間であるかを同じ集団の他のメンバーや、同性で同年代の他の子どもたちと自分とを比較することで、または比較されることで学ぶと言われています。彼らはそこで学んだ内容をひっさげて、次なる年齢別カテゴリーへと進級していくのです。

もし社会が思春期という時期を提供してくれるのであれば、思春期にこそ彼らはその情報を活用するのです。先進社会では、大人は専門分野をもつことを要求されますが、それは多様な選択肢から選ぶことになります。そしてその選択を行なう時期が思春期なのです。ティーンエイジャーが自分自身を各集団に分類するときには、彼らは自分自身のもつ顕著な特性を見極める作業をしていると言います。彼らは別の方向ではなく、ある一定方向に前進することに决めるのです。このような判断は改変不可能ではありません。ハリスの下の娘はそれを立証してくれましたが、いくつかの選択肢を排除してしまうことにはなります。大学人学資格は高校の卒業証書とは違います。28歳で大学に入学することは18歳で入学することとは違うと言うのです。