集団の規範

以前は男性だけのものであった遊びに、今では女性も入れてもらえるようになってきました。問題は、いまだにそれらの遊びが男の子のルールに従って行なわれていることだとハリスは言います。子どもの頃に学習したことが現代の社会においても、男性を有利に導き、女性を不利にします。

人々がそれぞれ違うのはジェンダーによる社会化だけが原困ではないと言うのです。集団の内外からその集団の規範に適合するよう圧力がかけられることも、集団の対比効果がそれぞれの規範に差異をもたらすことも、一因にしかならないと言います。男女間の心理学的差異は統計的な違い、つまり二つのベル・カーブにおいてそれぞれの頂点の間にある距離だというのです。子どもの頃にはその曲線はわずかに離れますが、完全に離れることはありません。常に重複する部分があるのです。背の低い男性もいれば、背の高い女性もいます。やさしい男の子もいれば、強靭な女の子もいます。仲間たちの前であってもそうなのです。

ハリスは、それがどのように行なわれていたか、記憶にあるかもしれないと言います。あなた自身が行なった記憶すらあるかもしれないというのです。クラスメートの間で交わされる小粋な合図。それは教室のルールを逸脱しない範囲で、自分たちは教師の言いなりにはならないぞという意思表示だったと言うのです。社会学者シャロン・カレーレは教師としての経験をもつそうですが、彼女の言うところの「小細工をはたらく」、すなわち教師には見つかりにくい方法で子どもたちが教師に行なう公然とした謀反的行為に使う技についていくつか説明しているそうです。その一つが「ゆっくりごみ捨て」で、それを紹介しています。

「生徒たちはごみ箱まで身体を揺らしながらゆっくりと進む。その場所に達すると、ごみから手を離して、それをごみ箱に正しく入れるまでの作業工程が、たいへん注意深く確実に実行される。実行後は数秒間、ごみ箱に収まったごみを見つめるのが常だった。

他にも、「本棚での分身の術」というものも紹介しています。

「彼らは片手に本をもち、あたもそのとき本を読みたくて仕方がなかったかのように一心に本を読みふけるふりをするか、もしくはおもしろそうな本を探しているかのように本を眺めるふりをする。この組織的に仕組まれた行動の何がおもしろいかというと、その行動が体の一部分でしか行なわれていないという点だ。通常、上半身は読書に没頭しているように見えるが、下半身はというと、周りにちょっかいを出し、おふざけに興じている。隣の人の足をやんわりと蹴飛ばしたり、近くにあるものを足を使って操作したり、ふさがっていない方の手で握り拳をつくり、隣の人をやさしく、騒動にならない程度に小突いたりしていた。」

楽しみの半分はそこに行き着くまでの道程です。「体でリズムをとり、踊りながら進む」、オモチャの兵隊を真似たり綱わたりをしているふうを装ったり、もしくはアヒルになりすますなど、ごみ箱や本棚までの道のりを陽気にする楽しみ方はいろいろあります。プロ級ともなると、「教室の正面をまるでステージ中央に見立て、観客の中にいるであろうファンのために特別にパフォーマンスした」。

そのファンというのは、もちろん教室の子どもたちです。教師はファンではありません。教師は〈彼ら〉の一員で、こうした小粋な抵抗には欠かせない引き立て役なのだとハリスは言うのです。

集団の規範” への4件のコメント

  1. 今回のブログの最後の部分、想像してみました。ある、ある。「教室の正面をまるでステージ中央に見立て、観客の中にいるであろうファンのために特別にパフォーマンスした」。こうした子どもはいるような。「教師には見つかりにくい方法で子どもたちが教師に行なう公然とした謀反的行為に使う技」、あぁ、これは何かやったことがあるような。学校の教室は生徒たちの社会だったろうか。担任の先生の「お城」だっただろうか。確かに、たいていの先生たちは僕たち生徒をコントロールすることにエネルギーを費やしていました。そしてそのコントロールから外れる子は罰の対象となっていました。時折、私もその対象となっていました。それでも僕たち生徒は自分たちの世界を教室の中に実現させようとしていた。僕たちにとって「いい先生」とは僕たちの世界を認めてくれる先生だったような気がします。そして、僕たちの世界を豊かなものにする応答的援助をしてくれた先生だったような気がします。先生と子どもたちとの関係は学校でもこども園でも基本は変わらないような気がします。

  2. 午睡の時間が始まり、横になる前にも行っただろうに、暫くするとトイレへと、水を飲みにと、コットを立つ子が現れます。いつもはしないだろうにやたらと丁寧に手を洗って、ゆっくりと帰ってくる様子は「ゆっくりゴミ捨て」「本棚の分身の術」のように、良い名前が付けられそうです。子どもたちはそうして保育者を引き立て役にしながら、子どもだけでの楽しみというものを謳歌しているのかもしれません。保育者はそういった子ども理解を得て、さてどう子どもたちと生活を共にしていくべきなのでしょうか。良い保育者とは。考えさせられるものがあるように思えてきます。

  3. 〝こうした小粋な抵抗には欠かせない引き立て役なのだ〟と先生のことを言っておられましたが、「ゆっくりゴミ捨て」や「本棚での分身の術」などのこうした子どもたちだけでの楽しみみたいなものをこっそりとしている時間が文化継承の時間だというのも以前のブログにありました。このようなことを踏まえて、良い先生とはどういう先生なのでしょうか。子どもたちのことを全部しっかりとみている先生のことなのか、それとも…。子どもたちはどんな先生を望んでいるのでしょうか。考えさせられますね。

  4. よく保育をしている中で、ふざける子どもがいます。しかも、大体そういった子どもは決まっているのですが、確かに「教師には見つかりにくい方法で子どもたちが教師に行なう公然とした謀反的行為」といったものであるかもしれませんね。許される瞬間とそうではない瞬間があり、前者であると見過ごされ、後者であると怒られるものだと思います。子どもたちはその境目を探すように行っているようにすら感じます。確かに客観的に見ると「教師は〈彼ら〉の一員で、こうした小粋な抵抗には欠かせない引き立て役なのだとハリスは言うのです。」という表現がぴったりの存在なのかもしれません。周りにいる子は注意するどころか笑っていたりします。厳しい声を聴いた瞬間、その顔色が変わるのを見ていても、「小粋な抵抗」くらいで考えているのでしょうね。そう考えると子どもたちがよりかわいく見えてきます。

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