言葉の習得

しばらくジョゼフは泳ごうともしていないように見えました。新しい学校に転入して数カ月、彼は沈んだままで、教室内でもしゃべることはほとんどありませんでした。けれども自分の身のまわりで起こっていることへの注意は決して怠らず、先生が何を言っているのか、それを知る手がかりを他の子どもたちを観察することで得ようとしました。たとえば、先生がスペリング・ドリルを取り出すよう指示したとすると、ジョゼフは周りを見まわし、他の子どもたちがスペリング・ドリルを取り出しているのを見て自分も同じものを取り出しました。

彼の進歩は驚くほど速かったのです。11月の終わりには、校庭へ向かう間に次のような文章を話していたそうです。「トニー、遊ばしてくれなければ、もう車、あげることしないよ」。完璧ではありませんが、言いたいことはトニーに伝わりました。

アメリカに来てから11カ月、8歳半になったジョゼフの英語の使い方と理解力は、いまだポーランド訛りは消えないものの、生粋のアメリカ人の6、7歳に相当すると評価されました。その1年後には同年代の子どもたちに追いつき、訛りもわずかに残る程度となりました。心理学者が次にジョゼフを調査したのは、彼が14歳になってからのことでした。この時点では彼の発音は生粋のアメリカ人である彼の仲間たちとも区別がつきませんでした。それでも彼は相変わらず家ではポーランド語を話していました。彼の学校での成績にも同じような傾向が見られたそうです。低学年では読書に苦労した点が見られたそうですが、5年生以降、彼は平均かその少し上の成績を残しているそうです。

ジョゼフの通う学校には、ジョゼフが自分はその一員だと思えるようなポーランド系アメリカ人の集団もなければ、英語を話せない子どもたちの集団もありませんでした。ダジャ・メストン同様、彼は特殊な存在ではありましたが、一人では集団は形成できません。そのため彼は自分自身を単なる〈子ども〉、〈2年生男子〉としてカテゴリー化し、その社会的カテゴリーでふさわしいとされる規範を取り入れたのです。英語を話すこともその規範の一つでした。もしジョゼフが聾学校に投げこまれていたら、そこで沈もうが泳ごうが、規範はかなり違ったものとなり、ジョゼフは言葉ではなく手を使ったコミュニケーションを身につけたことでしょう。聾学校を訪ねたある社会学者は、そこは「聾であることを身につける場所」であると述べているそうです。以下に、その社会学者とその学校のべテラン教師との会話をハリスは紹介しています。

社会学者「聾者独特の行動」は見られますか。それは何ですか、どのような行動を指すのてすか。」

教師「説明になるかわかりませんが、こにはかなりの聴力をもつ子どもが入学してくることもありますが、しばらくするとその子どもたちもますます聾者っぽく振る舞うようになるのです…話すことをやめてしまうだけではありません…好ましいことではありません。遺憾ですが、それが現実なのです。」

社会学者「もう少し説明してください。以前聞いたことがあります。…ここに入学した子が話すことのできる子であれば、彼ら(生徒たち)は、話すのをやめさせてしまう。そうですね。」

教師「話さなくなります。」

社会学者「なぜでしよう。…話すのをやめさせるようなプレッシャーがあるのですか。」

教師「他の子どもたちからのプレッシャーです。そして彼らは聾者のように振る舞うようになるのです。」

言葉の習得” への10件のコメント

  1. かつて当ブログでピアジェの適応概念について取り上げた時、「同化」と「調整」ということに触れられていました。今回のブログを読んでいると、私の脳裏には「同化」という概念が浮かんできました。そして2017年の当該ブログにあたってみると、むしろ「調整」ということがポーランド人ジョゼフの件に当てはまるのか、と思えてきました。当ブログのコメントにて何度となく告白してきましたが、私は意識的に東京語の習得した?過去を持ちます。まさに「意識的に」です。そして、この成果は東京の大学に入ってから現れました。同級生から「訛りないね?」と言われた時は内心「やったぁ」と思ったものです。「彼は自分自身を単なる〈子ども〉、〈2年生男子〉としてカテゴリー化し、その社会的カテゴリーでふさわしいとされる規範を取り入れた」とあります。私もこの「社会的カテゴリー」とその「規範」を取り入れたのでしょう。私は遺伝もさることながら、本人が置かれる環境ということの影響力の大きさを常に意識しています。「もしジョゼフが聾学校に投げこまれていたら」この話は結構刺激的です。朱に交われば赤くなる、善悪は友による、などの諺を思い出します。

  2. カテゴライズにはポジティブな面とネガティブな面がある以上子の周囲の大人は注意を払い、その子の成長にふさわしい集団内に所属させてあげられているかを常に確認し用意する必要があるのかもしれません。ただ、その成長に大人の意思が介在していると子供に意識させてしまうと子によっては反抗的になってしまうようにも感じます。まあ、そのカテゴライズをうまく使うことで、全く話せない言語を一年もかからずに話せるようになるのだから、ものは使い方だということですね。

  3. 「他の子どもたちからのプレッシャー」中学受験についてテレビで放送されていましたが、小学生時代、受験をすることを周囲の友だちに伝えられなかったという知り合いがいます。塾に行っているのも、なんとか理由をつけて受験するからではない、という風を装っていたそうです。受験をする、それだけで何か違った目で見られるような雰囲気があったのでしょうね。結局私立中学の受験日に小学校を欠席することでそのことは公になってしまうのですが、それから卒業までをどのような雰囲気の中で過ごしたのか、少し想像が出来ます。カテゴリー化、それによる対比、そしてクラスという集団。あれから何十年経っても薄れない記憶だそうです。

  4. 「出る杭は打たれる」という言葉がありますが〝他の子どもたちからのプレッシャー〟とあります。規範を守ろうとするような雰囲気で、自分以外のみんなからの圧力を感じるのはとても辛そうです。やはり集団のチカラ、まわりの環境のチカラの凄さを思い知らされます。それが良い方に働けばジョセフのような、悪い方にに働けば聾学校のようなことになるという印象を受けました。

  5. 自己をカテゴリー化し、そのカテゴリーに必要である行動の観察、真似ることが、社会的カテゴリーでふさわしいとされる規範を取り入れることに繋がったのですね。自らに馴染みのない集団や規範であっても、それが必要であれば取り入れ対応していくところに人の持つ適応力の高さを感じます。私自身が初めて保育園で勤めはじめた頃は、きっとジョゼフのような状態にあったと思われますが、同じように必要だと思われる規範を取り入れていくことで今の私が存在しているように思えます。
    「大人」「保育者」のような感じで自己をカテゴリー化し、保育園という多数の女性で構成される集団の中を必死に泳ごうとしていたのではないかと思えます。

  6. 「彼は自分自身を単なる〈子ども〉、〈2年生男子〉としてカテゴリー化し、その社会的カテゴリーでふさわしいとされる規範を取り入れたのです。」とあり、ジョゼフ氏の行動という大きなカテゴリーの中に属しているという自己意識があるからこそその環境の染まっていくことが出来たわけですね。また話せていた子が聾学校に行くと話さなくなるというのはどういうカテゴリーに自分をおくことによって起こるのですかね。「他の子どもたちからのプレッシャーです」とあるようにその環境が勝手にプレッシャーへと変わるような印象を受けます。自分の属するカテゴリーというのはいわば環境であり自分ではどうすることもできない部分もあることが伺えます。

  7. 留学生でも日本人がいないホームステイにいった方が言語の習得が早いというのと同じですね。「その社会的カテゴリーでふさわしいとされる規範を取り入れたのです。英語を話すこともその規範の一つでした。」新たなカテゴリーが必要とされ取り入れざるを得なくなったからこそ、英語が話せたということを見ると、その環境における影響の大きさはとても大きいのですね。聾学校に入れられた仮説の話は考えさせられます。状況に応じて適応していくことが人には求められる。ここでは「他の子どもからのプレッシャー」とあります。その雰囲気をヒトは感じ取り、その環境で求められるよう振る舞うのでしょう。最近の「小1プロブレム」や「中一ギャップ」というのはまさにこういったカテゴリー分けや切り替えができないことが多くあることが問題になっているのだと思います。だからこそ、乳幼児からの子ども集団の重要性はあるのですね。今の日本の保育現場の現状を見るとより感じます。

  8. “「聾であることを身につける場所」”という言葉からも、その環境にいることがそうさせてしまうというよりも、その環境のなかで、生活するためにはそうすることが最善のものであることを理解し、集団に所属する個という存在を自ら知ることを行っているということを考えることができました。自分の居場所、自分という存在価値を自ら高めていくためには、その集団の性質を知り、そして、柔軟な対応をしていくことが必要であると、子ども自ら感じているのでしょうね。だからこそ、子ども集団が必要であると考えられました。

  9. ジョゼフが英語を取得するまでの流れを聞いて、自分自身をカテゴリー化させる事が重要なのかもしれません。それには子ども集団が必要であり、その集団の規範や文化などを共感し、柔軟に適応していくことが大切ですが、それは子ども社会に限らず大人の社会でも同様なのかもしれません。4月を迎えてどの職場も新人が入社したかと思います。今までとは全く違った環境に馴染めず悩んでいる人も多いかと思いますが、最後は自分自身をカテゴリー化し、いかに環境に適応していく事だと思います。そう思うと、子ども達というのは本当にすごい能力の持ち主だと思います。知らない子どもともすぐに打ち解け、遊んだりできる力は、きっと社会でも役に立つはずです。

  10. ジョセフの話はとてもおもしろいです。「ポーランド系アメリカ人の集団もなければ、英語を話せない子どもたちの集団もありませんでした」とありましたが、もし、このような集団が存在していたら、ジョセフは英語を話せるようにはなっていなかっただろうというのは分かる気がします。学校生活でのテスト前でも、「勉強してな〜い」という子がいるととても安心しましたが、そのような感覚なのかもしれません笑。また、同時に、障がいを持っている人もやはり社会の中で暮らすことの大切さを感じました。園の中でも障がいを持っている子がいましたが、やはり、他のみんなに影響されている様子がたくさん見られました。それは互いにそうなのかもしれません。あまりカテゴリーに分かれない程度の多様性みたいなものが必要になってくるのでしょうか。

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