男女の存在

バリー・ソーンは女の子と男の子とがやりとりを行なう状況もあるという事象を盾に、女の子と男の子が自分たちで両者の違いを引き起こしているという考え方に反論しました。ところが、やりとりがあるからといって、子どもたちが女の子としてのふさわしい行動様式、男の子としてのふさわしい行動様式という概念を養うことを妨げるわけではないとハリスは言うのです。そうしたやりとりが子どもたち自身や他のクラスメートを女の子、男の子としてカテゴリー化することを阻止できるわけでもなく、これらのカテゴリーの特徴を和らげることもないと言うのです。

ハリスは、ジェンダー別カテゴリーの特鼓を和らげるには、そうした交流をいっさいなくすことではないかと言うのです。すなわち異性の不在です。集団が一つしか存在しない場合、集団性が弱化し、自己カテゴリーの方向性が〈われわれ〉から〈私〉へとシフトすると言うのです。そういうときに集団内分化が起きるのです。集団のメンバーたちの間で地位の争奪戦が展開され、それぞれが異なる役割を選ぶか、もしくは決められてしまうのです。

周りに男の子がいない場合、女の子はさほど女っぽくはなりません。この現象はある研究者グループによって明らかにされているそうです。彼らは12歳の女の子たちが男女共通の遊びであるドッジボールに興ずる姿を観察しました。この調査では二つの異なる集団が被験者となりました。一方はシカゴの私立校に通う中流階級のアフリカ系アメリカ人の女の子たち、他方はアリゾナ州の居留地に暮らすホビ族の女の子たちでした。研究者たちは女性の地位が違う文化を意図的に選びました。伝統的なホビ文化は母系制で、女性には大きな社会的、経済的権力が与えられています。

男の子がいないときには、女の子たちは両集団とも真剣にドッジボールに興じたそうです。競い合っていましたし、中には素晴らしい選手もいたそうです。ところが、男の子たちがゲームに参加した途端、女の子の遊び方が劇的に変わったのです。それまではすぐにでも動けるような体勢で準備していたのが、ホビ族の女の子たち足を交差させ、腕を組み、恥ずかしそうにして、とても運動などできないかのように立ちすくんでいたのです。アフリカ系アメリカ人の女の子の方は、ペちゃくちゃとおしゃべりをはじめ、他の選手をからかいました。女の子たちは両集団ともその行動の変化にまったく気づいていなかったそうです。どうして男の子がいつも勝つのか、と研究者が聞いたところ、彼女たちは男の子がズルをしたから、と答えたそうです。男の子はズルなどしていません。彼らは彼女たちよりも頑張っただけでした。この年齢では、平均的な男の子は平均的な女の子よりも明らかに背が低く、体重も軽いのですが、それでも男の子は勝てたのです。

男女とも、いだいている男の子のステレオタイプ、女の子のステレオタイプは似ているとハリスは言います。両者とも、男の子は女の子よりも竸争心が強く、スポーツも得意だと思っています。そして大概はそれが正しいのです。ジェンダー別カテゴリーの特徴が顕著な場合、女の子は女の子のステレオタイプにますます近づき、男の子は男の子のステレオタイプにますます近づくと言うのです。両者間の違いは対比効果によりますます誇張されるのです。

男女の存在” への6件のコメント

  1. 小学校の高学年頃になると異性を意識するようになりましたね。遠い昔のことではあります。中学校に通う頃になるとその意識がますます顕著になっていったような。中1の頃は同級生の女子にからかわれていた記憶があります。私の存在がイジリの対象に適していたからか、と推察されますが、中2になるとそれもなくなり、何とも性に関しての意識化が進んでいきましたね。残念なことに私は共学しか経験していませんので、男子校や女子校などのジェンダースクールは一体どんなものなのかわかりませんがおそらく「女の子はさほど女っぽくはなりません。」といった現象が起こるのでしょうね。保育園勤めを始めた時、人生で初めて私と園長以外全員女性という経験をしました。もっとも仕事、保育、というカテゴリー集団意識が優先し、ジェンダー集団を意識する化するほどではなかったですね。しかも、私は保育士としてではなく事務職員としての勤務だったのでなおさらそうだったのでしょう。カテゴリーの意識化とは昨日のブログにあった「属するという意識」の強さに関係してくるなと思ったところです。

  2. 女子校に通う女の子は共学の女の子より大雑把で男の子らしさが見えるようになるという話はよく聞きますが、その逆の男子校に通う男の子が女の子らしくなるという話はあまり聞いたことがありません。むしろさらに男らしくがさつになり女の子と相対する時にのみ必要以上に優しく紳士的になる場合が多いように見られます。これが現代のヒトの求愛行動なのでしょうか。自然界には雄同士が戦う戦闘的な求愛もあれば象のような優しい求愛もあり、今あるこの求愛の形ヒトとして本能的に優れた雄であること、雌であることを証明する方法なのですかね。

  3. 先日テレビ番組で、電話に出る女性の声が高くなる理由について述べられていました。そんなに意識したことはなかったのですが調査の結果高くなる人の割合はそう低くないそうです。そして理由は自分を小さく見せる為、だそうで、しかもそれは日本人の女性に見られる傾向なのだということでした。日本で女性として、もしくは男性として生きていく中でステレオタイプに意識せずとも近付いてしまうような、そういった事柄が日常の中の所々にもあるような気がしてきます。

  4. 女子校に通っている女子に女子校の中のことを聞くと、女の子とは思えないようなことを平然としている、していたというのを聞いたことがあります。〝周りに男の子がいない場合、女の子はさほど女っぽくはなりません〟という文章がありましたが、その話しを聞いていたときは信じがたいものでしたが、研究結果として世に出ていることを知りました。そこで疑問がわきます。女の子が女の子っぽくするのはなぜなのか?やはり、モテるためでしょうか。種として子孫を残すためということになるのでしょうか。よく、女の子の中で「ブリっ子」は嫌われるといいますが、それはモテるための、子孫を残すための必然の行動なのではないかと思えました。それが上手すぎて嫉妬されている、上手過ぎても弾かれていくのですね。

  5. 「両者間の違いは対比効果によりますます誇張される」環境によって男女の性差が出ることが変わってくるのですね。私は知らないのですが、よく女子高出身の方と話をしていると「女子高だからこそ、女性っぽい人が多い」のではなく、「女子高だからこそ、男っぽい人がいたり、女性のような振る舞いをしなくなる」ということをよく聞きます。もちろん、それがすべてに該当していることでもないのでしょうが、この話の裏には今回のブログのようなことが起きてるのかもれませんね。「集団が一つしか存在しない場合、集団性が弱化し、自己カテゴリーの方向性が〈われわれ〉から〈私〉へとシフトすると言うのです。」とあります。性差ですらこういったことがある場合、そのほかの集団でもこういったことは多くあり得るのでしょうか。たとえば、「いじめ」の構図なども教室といった一つの集団に限定されることで起きてるのだとすると、ダンバー数などにあるようなもっと大きな集団の中で子どもたちは生きている方がカテゴリー分けの限定は無くなってくるのかもしれません。わかったようなわからないような感覚になっていますが、これが意味するものとはということを考えてみていきたいと思います。

  6. 異性を意識すると男女共に自らが思い描いている男女像に近づこうという意識が働くように思えました。ドッヂボールの例ですが、男の子が参加をした際、女の子については一般的にいうところの女性的な面がその行動に表れているように思えます。「男女とも、いだいている男の子のステレオタイプ、女の子のステレオタイプは似ている」とあるように、異性を意識すると、それぞれの抱くステレオタイプに応じた振る舞いや行動をしてしまうのではないでしょうか。男女の交流がより明確に男女間の性差というものを生み出し、意識させているように感じました。

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