年齢的支配

男の子が周りにいなければ、女の子はさほど女っぽくはならないようです。ところが女の子が周りにいなくても、男の子は相変わらず男の子らしく振る舞うようです。少なくともそういう面がいくつかあると言います。また男らしさに欠けると思われる場合もあると言います。イギリスの全寮制の男子校出身者は声も高く、好みにもうるさく、洗練とは無縁のアメリカ人の目にはその姿が軟弱に映ると言います。しかし、こうした学校で行なわれている、もしくは行なわれていた新入生歓迎の儀式はまさに男のものです。准男爵の父をもつサー・アントニー・グリンは全寮制の学校に入学したときの手荒い歓迎の儀式を次のように振り返っています。

「プレオアラトリー・スクールに人学した直後の一週間は男の子にとって、一生のうちでも忘れたくても忘れられない一週間になるだろう。何しろほんの八歳で、心の準備も何もできていなかったのだから。そのときまで、世の中には自分のことを殴り、傷つけようとする人間がこれほどまでに存在すること、さらに昼夜を問わず、こうした人間がそれを行なう機会があまりにも多いことなど思いも寄らなかった。」

殴る子、傷つけようとする子とは、他の男の子たちであり、年長の男の子たちです。女の子たちが存在しないことによって、ジェンダーのカテゴリーが消減しているのです。その結果、年齢的な違いがより顕著となり、集団内では支配的地位の争奪戦が一気に頂点に達したのです。他に集団が存在しないとき、集団内での競争が増えます。ドッジボールに興じていた女の子たちからもわかるように、これは女の子でも同様です。年長の子どもたちが年少の子どもたちを支配するのも、男女ともに見られる現象だそうです。もっとも女の子が年少の子を支配する様相は男の子の場合とは異なるそうです。女の子はあまり攻撃的になりません。女性が攻撃性を抑制する傾向は、不完全ながらも生得的なものだと考えられているそうです。なぜならこのブレーキがきかなければ、自分の子どもに危害を及ぼしかねないからだと言われています。

共学の学校で、特に女の子集団と男の子集団とに二分されて遊び場に集うときなどは、自ジェンダー別カテゴリーの特徴が顕著になり、性差別がはびこります。父親がおむつを換え、母親はトラックを運転しているかもしれませんが、その息子はフットボールに、娘は縄跳びに興じるのです。男の子と女の子は本質的に似ている、幼い女の子はペニスと精巣のない幼い男の子だ、と親は心底信じているかもしれませんが、子どもはそう簡単にはだまされません。

ハリスは奇妙な話だとことわってこう言っていますですが、人類の平等が叫ばれている現代の女の子や男の子は、私たちの祖先である狩猟採集民族の子どもたちよりも、女の子、そして男の子のステレオタイプに高いかもしれないと言うのです。わずかに残存する狩猟採集民族の中にザイールのイトゥリ森林に居住するエフェ族がいます。ある研究者はエフェ族の生活の様子を次のように説明しているそうです。

「マウは狩猟採集民の思春期の少年だが、キャンプで座る彼の膝の上では、兄の15カ月になる娘が布をまとって、さほど遠くないフィンガー・ピアノの音色にうとうとしていた。彼がポットに入った粥状のものであるソンべを混ぜようと手をのばしたとき、幼い男の子と女の子の集団は子どもサイズの弓矢を使って“果物当て”に興じていたのだが、その子どもたちがマウのかまどに危険なほど近づいたので、マウは子どもたちを諭すかのように“アウー”と声を出した。…キャンプの周りを見わたすと、数人の女性は釣りの準備の真っ最中で、他の者たちは男性とともにタバコを吸い、のんびり過ごしていた。」

年齢的支配” への5件のコメント

  1. 8歳で寄宿生活を余儀なくされる英国貴族階級の男の子。周りは全員男の子たち。今で言うところのイジメのオンパレード。何とも想像を絶します。「殴る子、傷つけようとする子」が当たり前の人的環境にあって、その環境を耐え抜き、やがて自分より年少児が加わってくるなら、やられた自分がやる自分になる。これも文化伝承ということでしょう。私にはちょっと耐えられませんね。わが子もこんな目に遭わせたくないと思いますが、英国貴族階級男子はおしなべて寄宿舎生活の地獄?を克服しなければならないのでしょう。それが彼らの文化。もっとも自分が子どもの頃も年上の男の子はやはり怖い存在というか馴れ馴れしくできない存在ではありましたね。結局、同級生か年下の子たちと楽しく遊んでいたな、そんな過去を思い出しました。それにしても、男女平等が叫ばれる今日のほうが、男の子女の子のステレオタイプ化が顕著という現象は興味深いですね。共学ならジェンダーが優先され、非共学なら学年が優先される。いずれにせよ、人類はそもそも平等ではない、という至極当然のことに思い至ったのでした。

  2. 人類平等を唱えることによって男女のステレオタイプが助長されてしまう。似たような現象が他にもあるような気がします。物事の表裏や、効果、というものについて考えてしまいます。現代日本人が不清潔なものについて焦点を当てたり、追求をしていった結果、細菌に強いとは言い難い体を手にしてしまったように、グレーなままでいいこと、というものもあるのかもわかりません。園のトイレにある水墨画、白と黒だけでなく、その中間の濃淡で竜が描かれているね。先生からいただいた言葉を思い出しました。

  3. 男女平等が叫ばれるようになって大分経ちますが、それが仇となっているかもしれないというのは驚きます。平等を叫び続けた結果、男女の差が顕著に注目を集めている結果だというのは何とも皮肉な話です。男か女かという二択の捉え方ではなく、もっと柔らかな捉え方ができることが望ましいのではないのでしょうか。ではどうしたら良いのか、というのを考えておろしていきたいですね。

  4. ジェンダーのカテゴリーが消滅してしまえば年齢的な違いがより顕著になるとあります。なんだか体育会系の部活での関係性を思い浮かべてしまいました。私自身も経験があるのですが、わずか1,2歳しか違わない上級生に対して主従関係的なものが存在していたのを思い出してしまいます。部活となるとほとんどの場合が男女別で行われますから、そういった部分がより顕著になって表れていたのではないでしょうか。男女平等というのはジェンダーのカテゴリーを無くすことでもあると思います。男女平等の意識が高まることに対しては特に疑問も感じることなく、当然のこととして捉えてきましたが、それを無くすことによって生じてしまう問題点もあるという事を踏まえたうえで考えていくべきことなのではないかと感じています。

  5. 男子校の例と共学の学校との例を見ていると、差別的なことがおきるのはしょうがないのでしょうか。性別におけるカテゴリー分けが無くなると今度は年齢によるカテゴリーがなされ、その中で支配的地位の争奪戦が起きたのですね。差別というものはなかなか無くならないのだろうかと思ったのですが、エフェ族の様子を聞くとそうでもなく、うまく折り合いをつけていたのですね。「人類の平等が叫ばれている現代の女の子や男の子は、私たちの祖先である狩猟採集民族の子どもたちよりも、女の子、そして男の子のステレオタイプに高いかもしれないと言うのです。」といったところに差があるのでしょうか。それがいったいどういったものなのか気になります。

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