対比効果

通常、子どもたちのほとんどは、親とほぼ同じ言語、文化を身につけることになります。それは、言語も文化も地域の人々と共有できる場所に住む親がほとんどだからです。ところが、大規模な公立学校ともなると、種々雑多な地域から生徒が集まることになり、これらの地域はそれそれ異なる文化(正確にはサブカルチャー)をもつこともあります。それぞれの地域の住民にはそれぞれ異なる訛りがあり、家庭生活のあり方や公衆での望ましい行動、そして暮らし方に関してもそれぞれ違った考えをもっています。ハリスは、以前も紹介していますが、メキシコの二つの村である、平和な村ラ・パスと暴力の村サン・アンドレスのように、アメリカでもわずか数ブロックを隔てて隣接する地域が、違いを見せる場合があるのです。

仮にラ・パスとサン・アンドレスの中間地点に学校があり、子どもたちが両村から通学していたら、おそらく社会学者ジャネット・ショーフィールドの黒人・白人関係調査の舞台となった学校ウェックスラーのような雰囲気が校内に漂っていたことだろうとハリスは言います。子どもたちは、ラ・パス出身者とサン・アンドレス出身者に分かれ、別々の集団を形成するだろうと言います。別の村の出身者と友だちになることはまれだと言います。サン・アンドレスの子どもたちは、ラ・パスの子どもたちを軟弱者、臆病者と呼ぶでしょう。ラ・パスの子どもたちは、サン・アンドレスの子どもたちはいつも人を乱暴に扱うと訴えるでしょう。集団性が顕著になるのです。対比効果により両集団の違いが増大するのです。

ハリスは、ここで少し違ったシナリオを想定しています。学校の位置をラ・パス寄りに変え、通ってくる生徒のほとんどはラ・パス村の子どもたちですが、どういうわけか、一人だけサン・アンドレス出身の男の子(この子をミゲルと名づけます)がこの学校に通うことになりました。一体何が起こるでしょうか。彼はどのような行動をとるのでしょうか。

ミゲルが校庭の暴れん坊になるのではと思うかもしれません。彼が自分の村で身につけたものをもってすれば、確かに彼はニシンの群れの中の一頭のサメです。けれども文化の違い、その中でも行動の規範の違いがいじめっ子を生み出すとは思わない。どの文化にもいじめっ子はいます。彼らは行動的規範を破る人たちです。これは性格上の問題であって、文化的な問題ではないのです。

ミゲルが平均的な、いわばジョゼフのような男の子だったと想定した場合、何が起こるかというと、集団社会化説によると彼は学校にいる間はラ・パス出身の子どもたちのように行動します。サン・アンドレス出身者が彼一人だけでは集団をもてないからです。もしミゲルが彼の村から毎日通学し、家の近くにも別の友だちがいれば、彼はバイカルチャーになるでしょう。家の近くでは、他のサメたちと一緒に泳ぎ、学校ではニシンたちと泳ぎます。でももし彼の友だちが全員ラ・パス出身の子どもたちで、放課後も週末もその子どもたちと遊ぶというのであれば、彼はジョゼフ同様、生まれ育った村の文化を失うことになるのです。彼は新しい文化、ラ・パス文化を身につけるのです。その新しい文化の行動の規範を受け入れることになるのです。

対比効果” への9件のコメント

  1. なるほど、わかりやすい説明ですね。学校の位置が異なる文化の中間地点にある場合とどちらかに偏った地点にある場合。中間地点にあるとそれぞれの文化集団が形成されますね。しかし、どちらかに偏ると、どうなるか。「集団社会化説によると彼は学校にいる間はラ・パス出身の子どもたちのように行動します。」なるほど。「学校にいる間」はそうなるでしょう。住む家の近所が別の文化背景をもつ子どもたちの集団であれば、家の近所では学校とは異なる文化集団の中でその顔を持つことになる。やはりここでも、子ども集団の威力、影響力の強さを思い知らされますね。そして「集団社会化説」の有意性にも気づかされます。さらに「行動の規範」という形で集団社会化が具現するということにも気づかされます。大人信仰、親信仰がいまだに広く行き渡っています。この信仰があるうちは、子ども集団、すなわち子ども同士の関わり、というプロセスの質はなかなか明らかにされないのかもしれません。

  2. 子どもというのは何て優しいのだろうと思います。どんなに攻撃的に振舞っている子でも、その集団を離れ、暴力とは無縁の集団の中で生活を送れば、その集団へと染まっていける。そう思うと、学校生活が辛くて学校へ行かなくなったり、学校をかえたり、そういうことについて劣等感を持つ必要はないことに気付きます。教育がそうさせたのか、読んできた本が、親が、周囲がそうだったからなのか、刷り込まれてきたような世間像というものを少しずつ解いていきながら、子どもにとって最適な環境というものについて考えていきたいと思いました。

  3. 子どものチカラはすごいことを改めて感じますね。学校と家の近くとで自分の中での行動を変えて生活するのは、負担にならないのでしょうかね。大人なら居心地の良い方にいる時間がだんだんと増えていきそうですが…。
    我が子ももうすぐ小学生で今までとはちがう環境に身をおくことになりますが、どんな環境になるのでしょう。親の心配をよそにたくましく通ってくれると思いますが、新しい文化の規範をしっかりと受け入れて、楽しんで欲しいと思います。あまり関係のないことかもしれませんでしたが、学校の話題は我が子に結びついてしまいました。

  4. 就学前の時期になると、校区外から登園している保護者の中には卒園後、みんなと離れて新しい環境に馴染むことができるだろうかと心配される方もおられます。ただ、集団社会化説によると、そのことはそれほど心配しなくても良いと思えます。全く異なる文化や行動規範を有する集団の中に入ったとしても、子どもはそれを受け入れ十分な対応ができるということをジョゼフたちの例が示しています。慣れ親しんだ環境や集団から離れることに対して不安をいだくことは多くの人にとって当然です。しかし、いざそうなってみて感じることはなんとかなるということです。文化や行動規範を維持するという面においては複雑に思えますが、それに固執しすぎないことが別の集団や環境の中で上手くやって行くためのコツなのではなういかと思います。

  5. 「少し違ったシナリオ」を読むと非常にわかりやすいですね。半分半分の割合だとそのグループの対比は大きくなることが想像できます。そこに「学校の位置をラ・パス寄りに変え、通ってくる生徒のほとんどはラ・パス村の子どもたちです」となるだけでその子の影響というのは以前のブログの子どもと同じになるわけですね。内容が違えどこの対比効果というのは同じなのですね。そしていずれも子ども同士の関わりから生まれることからその影響力の大きさをより感じさせてくれます。

  6. 今回の学校の話を見ていると、地元の中学校のことを思い出しました。中学校になるとこれまでいた小学校のグループだけではなく、他の小学校の生徒も一緒に生活するようになります。考えてみると小学校によって友だちの性質というのは違っていたのかもしれません。よく自分のいた小学校出身の子どもは地元密着の家庭が多いので、どこかでのんびりしていると言われていました。一方隣の小学校は都市開発が起き、新しい家庭が入ってきたこともあり、わんぱくな子どもが多いとも言われていました。校区や中学校によっても、あの校区は荒れているといった話をよく聞きます。土地柄や地域柄というものが子どもたちに作用しているというのもあるでしょうし、他の地域と混ざることで子どもの性質が変わるということもあるように思います。子どもを育てる環境というのはこれまでのブログを読んでいるととても考えさせられます。自分が働いている幼稚園においても、このような影響が出ているのでしょうね。

  7. “対比効果により両集団の違いが増大する”とあり、確かにメキシコにある二つの村の話を聞いているなかでも、特徴が違う同士の集団が集まったなら、その対集団に対する偏見やレッテルにより、その特徴がおかしいものや自分たちとは違うというような形で増大していくことが想像できます。私たちは、社会生活のなかで、所属する集団以外と接触するときに対比効果により、違いによって、敵対心をもっているようにも考えることができました。

  8. 子どもの柔軟性には常に感心します。私自身が人見知りというか、新しい環境の中に入ると溶け込むのに苦労しますが、以前から話しているように、息子は知らない子どもとも気づくと遊んでいる姿を見ます。集団社会化説から学校にいる間と学校から外にでた時、さらに言えば家での姿と3つの文化を持ち合わせているということになります。藤森先生の講演の中でも子どもは園と家庭での姿を使い分けているという話をされたとのを思い出しましたが、まさに同じことですね。こうした文化の違いを子ども達が感じ取り、柔軟に対応していると思うと、能力の高さに驚きます。

  9. 属する集団が変われば、その属した集団の文化に沿って行動するようになるのですね。このことは自分に当てはめてみても、周りの人を当てはめてみても、本当にそうだなと思わされます。そう思うと、人はいくつかの集団に属していることがほとんどですし、その集団によって顔が違ったりしますが、ある意味ではそれが自然なことで、それでいいのですね。このあたりは、人と関わる力にも繋がっていそうです。集団の文化を察知し、自分がその集団でどう振る舞うか考えて行動するというのはまさに、人と関わる力でもあり、集団の調和を保っていくためには必要な力なのかもしれませんね。

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