学校とは

ハリスは、子ども集団の存在する学校をどのように分析するのでしょうか?学校に通う子どもたちにとって、教室内で最も重要な人とは他の子どもたちだとハリスは言います。彼らのほとんどにとって、最も重大なこととは仲間内での自分の地位です。それによって、学校はなんとか耐えられる場所にも、地獄にもなりうると言います。教師の権限のほとんどは、うまく個々の子どもたちに脚光を浴びせ、仲間たちの注目の的となるように導くためにあると言うのです。教師の意図次第で、子どもは公衆の嘲笑の的にも、羨望の的にもなりえます。

しかし、教師の力はそれだけではありません。ハリスは、彼女の主張において、彼女が親からその権力と責任を多く奪い去っているという印象を持ったとしても、教師に対しても同じ罪を犯しているとは責められないだろうと言います。教師が権力と責任を保持しているのは、教師が子どもたち全体を支配下におさめているからだと言います。教師たちは子どもたち全体の態度と行動に影響を与えます。さらにその影響力は長期的な作用を及ぼすと考えられている場所でふるわれていると言うのです。家庭とは別の世界、子どもたちにとって大人になってから生活の場となる世界でです。

子どもたちは大きくなるにつれ、現代社会が人々に与える複雑に入り組んだ社会的アイデンティティをうまく操縦できるようになると言います。席から離れなくても、筋肉一つ動かさなくても、7,8歳の子どもは幾多の自己カテゴリー間を行き来することができます。あるときは自分を3年生の女子、別のときは3年生、そしてまた別のときにはマーティン・ルーサー・キング小学校の生徒だと自覚します。彼女は自分を最も優秀な読書班の一員、もしくはクラスの中も優秀な生徙の一人だと思うことがきます。こうした社会的カテゴリーに名称は必要ありません。彼女はまた〈私〉と〈われわれ〉との間を行き来することもできます。ある集団の一員だと思うときもあれば、自分個人の地位がより重要になる場合もあります。

学校という環境下では社会的カテゴリー化が常に作動していると言います。あまりに多くの子どもたちが一堂に会するので、あらゆるサブカテゴリーが形成される可能性があります。大集団は一致団結するなんらかの理由がないかぎり、小集団へと分裂する傾向にあると言います。

併存する集団間では対比効果が見られます。前に、ハリスはそうした対比である男子集団対女子集団の結果にいて言及していました。子どもたちが自分自身を〈女の子〉もしくは〈男の子〉とカテゴリー化し、これらのカテゴリーが顕著な場合、異性間の違いが拡大すると言いました。このケースでは元から違いがありますが、仮にはじめに違いがなくても、対極関係にある二つの社会的カテゴリーが存在するだけで、差異は生じます。以前紹介したラトラーズとイーグルズはそれを証明しています。

能力別集団形成、もしくは能力別クラス編成が実際私たちが目にしているような作用をもたらすのはそういう理由からだとハリスは言います。教師が子どもたちを読書の得意な子と苦手な子とに分けると、得意な子の読解力はますます向上し、苦手な子の読解力はますます低下します。それが集団対比効果です。二つの集団ではそれぞれ異なる規範がつくり出されるため、異なる行動、異なる態度が要求されるようになるのです。

学校とは” への10件のコメント

  1. 物心つく頃には「保育所」「学校」という場が家庭とは別に確かに存在していました。「家庭とは別の世界、子どもたちにとって大人になってから生活の場となる世界」。学校で自分自身が育って来たことは私の場合紛れもない事実です。今まで生きてきた中で学校という場は家庭を別にすると私が多くの時間を費やしたところと言えるでしょう。学校で知り合った人々は出会う機会こそさほどありませんが、SNSでのやりとりは今なお活発です。年齢を重ねてくるとかつての同級生たちが妙に懐かしくなります。殊に、東日本大震災以降はそうですね。「学校という環境下では社会的カテゴリー化が常に作動している」このことにも納得がいきます。小学校、中学校、高校、大学と課程は異なれど、様々な「社会的カテゴリー」は存在していましたね。一つでは収まらないカテゴリー間を右往左往しながら自己内多様性が出来上がってきたような気がします。就学前の子どもたちも様々なカテゴリー間を行き来しては自分の可能性の領域を広げていることでしょう。

  2. 教師の期待とこどもの成長は大きな関係があるという話は有名で、何事も褒め続けた子供と何事も貶し続けた子供では能力の差は圧倒的にひらくと言います。前者に属された子供は後者の子供に対しての大きな優越感と選ばれたことによる自己肯定感を集団の特徴として持ちのびのびと育ち、後者はその態度がカテゴライズされた集団のなかで当たり前だといわんばかりに大きな劣等感に潰されながら育っていくのでしょう。子供の前に立ち大きな影響力をもつ大人としての責任感と、端から見たらその程度のことではっきりとカテゴライズしてしまう子供の純粋さを忘れないようにしないといけません。

  3. 「最も重大なこととは仲間内での自分の地位」社会に出た今も様々なカテゴリーの中に所属していて、その基礎となるような経験を子ども時代に積んでいたこと、それは思い出せなくてもそれらの経験が今を作っているという事実があり、そういった理解の元で展開される保育が子どもたちを育てるならば、これからの日本は生まれ変わっていけるような、そんな気がしてきます。そしてそれは初めての試みでなく、人類がそうして営んできたということを回顧しよう、という点が多分にあることに、期待と希望を感じます。クラス、グループ、ジェンダー、遊び、好きなフロアー、住んでいる場所、他にも沢山あるカテゴリーの中を子どもたちは行き来しながら社会というものを学んでいる、そう思うと、明日また子どもたちを見守ろうとする心持ちがまた違って感じられるのではないかと思えてきます。

  4. 〝学校に通う子どもたちにとって、教室内で最も重要な人とは他の子どもたちだ〟とありました。現在では子どもが多く集まる場所というのは限られているので、学校が子どもたちの勉学だけを教える場所ではないということになるはずです。最も重要なのは教師ではないということを覚えておくことが自分たち大人は知っておくべきことだと思います。その上で、最も重要な子どもたち同士、ジェンダーなどのいろいろなカテゴリーを行き来することでの学びから社会というものを子どもたちが知る、試すなどのことをしていくことで、将来の社会を担う人が育まれていく、そんな気がしました。

  5. 「併存する集団間では対比効果が見られます。」とあります。よくあるスクールカーストというのもこのことなのでしょう。確かに子ども集団の中では様々なカテゴリー分けがなされており、自己カテゴリーを様々な部分で行き来しているのというのですね。また、「教師が子どもたちを読書の得意な子と苦手な子とに分けると、得意な子の読解力はますます向上し、苦手な子の読解力はますます低下します。」とあるように教師の意識付けによってカテゴリーが出来上がってしまい。子どもたちにおける能力においても変わってくるというのは危険であり、気を付けなければいけないことですね。大人が子どもたちにレッテルを貼ることの危険はこれまでもありましたが、なるほど集団においても起こるのですね。やはり多様な子ども理解ができる環境や子ども自身を信じることや認めること、子どもたちのありのままを認めることは大切なことになってくるのですね

  6. 教室内で最も重要な人とは他の子どもたちであり、子どもたちにとって、最も重大なこととは仲間内での自分の地位であるということは非常によく分かります。だからこそ、それに悩み苦しむ子は必ずいますし、私自身もそういった経験があります。今で言う所のスクールカーストと呼ばれるものがまさにそれを表しているのではないでしょうか。学校という社会集団において、一度その地位が定められてしまうとそこから脱することは簡単なことではありません。だからこそ、様々なカテゴリーを行き来する力が重要な気がしています。学校に限らす社会的な集団においては、自分に応じたカテゴリーを行き来し、自分にあった居場所を見つけるという柔軟な態度や思考が必要なように思えます。

  7. 「教師の権限のほとんどは、うまく個々の子どもたちに脚光を浴びせ、仲間たちの注目の的となるように導くためにあると言うのです」というところだけ抜き取ると教師の難しさを感じます。おそらく均等にふるだけでも違うのかなとも感じますがどうなのでしょうね。学校というのは「自分の地位次第で耐えられる場所でも地獄もなりうる」というのは少しわかる気がしします。子どもたちはその大海原を様々な刺激を受けならがらカテゴリーに属していることがわかります。集団対比効果というのも集団ならではありいかにどこに属するかの重要性も感じます。

  8. 私たちが生活するなかには、数多くのカテゴリーが存在し、生きているなかでも、無意識的にちかいなかで、それを相手に合わせ、利用しています。私は、保育園、小学校、その時にもカテゴリーをうまく使い、その場にあったカテゴリーを選択し、使っていたように思いました。
    そして、それは、なぜ行うのか?考えていると、”学校に通う子どもたちにとって、教室内で最も重要な人とは他の子どもたちだと”あったことのように、私たちは、子ども同士での関係を意識することが、重要であって、案外、大人の存在というものは、カテゴリー化する際には、大人からの権限たるものを浴びせなければ、目立つものではないと思いました。子どもが自分のカテゴリーをいったり来たりするなかで、うまく使い分け、関係を築き、保つていくのですね。

  9. 学校での最も重要なのは仲間内での自分の地位と書いてありますが、確かにその通りかもしれません。仲間内で高い地位にいることで一番はイジメの対象にはなりにくいはずです。その地位もカテゴリニーによって大きく変わってきます。それも先生によって大きく影響するというのも理解できます。ブログを読んで思い出したのは、小学校6年生の時ですが、それまであまり目だ立たなかっった男の子が先生の一言で一気に注目され、そのカテゴリー内での地位が高くなったという場面です。その後も彼はクラス内でも注目され続けていたのを思い出しました。また数年前に年長さんで読書がとても大好きで、部屋にあるありとあらゆる本を読破した男の子がいました。その能力を当時の担任が引き出したおかげで、彼は周囲の友達からも認められるようになりました。子ども集団がある場というのは、いかに大人の立ち振る舞いが子供達に大きな影響を当たるのか、ちゃんと理解しないといけませんね。

  10. 「大集団は一致団結するなんらかの理由がないかぎり、小集団へと分裂する傾向にあると言います」ということはなんとなくイメージできるような気がします。その小集団というのはその集団を構成するメンバーがそれぞれに影響しあって、いい意味でお互いを理解し、多少のドラブルがあっても解決できる範囲なのかもしれませんね。となると、それ以上の大きな集団をまとめていくためには理念のようなものが重要になってくるのでしょうか?そういう意味でも「共生と貢献」がもたらすメッセージの大きさを感じます。「能力別集団形成、もしくは能力別クラス編成が実際私たちが目にしているような作用をもたらすのはそういう理由からだとハリスは言います」とありました。このあたりは、難しいところですね。集団をうまく維持していくためにこのような能力主義のようなものがどこまで効果的なのでしょうか?きになるところでもあります。

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