子どもの数

狩猟採集民族の小さな集団では、男の子と女の子が別々の集団を形成できるほど子どもが多くない場合がほとんどであるため、エフェ族の男の子と女の子は一緒に遊びます。その結果、エフェ族の子どもたちの間で顕著な社会的カテゴリーは〈男の子〉と〈女の子〉ではなく、〈子ども〉と〈大人〉となるそうです。そのため男の子も女の子も行動はたいへん似たものとなるそうです。大人同士でもジェンダーの境界線は想像するよりも不明瞭だそうです。それとは対照的に、エフェ族と隣接してレセ族がいるそうですが、農業を営むために人口密度が高く、その社会では性別によって区別されている面が多く、レセ族の集落は大きく、女の子と男の子は別々の集団に分かれることが可能なのです。

さらに別の伝統的な狩猟採集民族に、アフリカのカラハリ砂漠に居住するクン族がいます。今日では農業と牧畜を営んでいますが、20年前まではクン族の中にはバンドを形成して遊牧生活を営む集団もいたそうです。それらの集団を調査した人類学者によると、遊牧生活を営むクン族の中では、女の子も男の子もともに遊び、性差は最小限だったそうです。しかし、定住し、食料を生産するようになったクン族の中には、女の子と男の子が別々の集団を形成できるぐらいに子どもの数が多い群もあり、そこでは彼らの行動様式に見られる性差はかなり目立っていたそうです。

別々の集団を形成するほど子どもの数が多くない地域において、女の子と男の子の行動様式が似ているのは、こうした地域では子どもたちは自分自身を〈子ども〉としてカテゴリー化するからです。彼らが似るのは、同じ仲間集団の中で、またその集団によって社会化を果たすからであると言います。今日の私たちの社会の子どもたちに見られる誇張された性による区別化は、まさに文化の産物なのかもしれないとハリスは言います。わずか一万年前の農業の発明という文化革新によって、子どもたちに多くの遊び仲間となりうる人たちを提供できるようになったのだと言うのです。

子どもを男性的でも女性的でもないように育てたいという親へのアドバイスは、遊枚する狩猟採集民族の一員となることです。もしくは子どもの人数が少なすぎて彼らが二つ以上の集団をつくれないような地域に転居することなのです。

エフェ族の子どもたちが小さな弓矢で遊んでいる様子の中で気づいたことはないだろうかとハリスは問います。男の子も女の子も一緒に遊んでいましたが、彼らは男の子の遊びに興じていたのです。アメリカでの近所同士の遊び集団ではどうでしょうか。そうした遊び集団に参加した女の子は自ら、自分はおてんばたったと言います。こうした男女が混在する集団では、保育園・幼稚園以降になると、人形のおむつ換えはまず見られないそうです。女の子は男の子と遊びたければ、男の子のルールに従って遊ばなければならないのです。

仲間たちに対する支配欲はわずか2歳半頃からヒト科のオスに見られるようになります。ヒト科だけでなく、哺乳類のほぼ全般でオスの方が、攻撃性が強いということはすでに立証されています。種馬は去勢された馬である騙馬よりも攻撃的ですが、それはたんに精巣のある、なしの問題ではないと言います。「男女の一卵性双生児」の場合、精巣は生後17カ月で除去されていたにもかかわらす、女の子として過ごしていた期間は「女の子の集団の中でも支配的な立場にいることが多かった」そうです。ホルモンの機能不全のために脳と生殖器の一部が男性化する先天性副腎皮質過形成という状態で生まれる女の子は、誕生後には医学的にホルモンの状態が矯正されるにもかかわらず、自己主張の強い子になる傾向があるそうです。

子どもの数” への10件のコメント

  1. 男の子らしさ、女の子らしさ、ということを子どもの頃意識したことがあっただろうか、振り返ってみました。今回のブログで示唆的だったのは「別々の集団を形成するほど子どもの数が多くない地域」という部分。地方の人口の少ない地域に生まれ育った私は生育環境がジェンダーフリー環境だったということに気づきました。そしてジェンダーを意識させるような大人もいなかった。というより、子どもたちの世界に大人が介入するほど大人たちは暇ではなかった。「今日の私たちの社会の子どもたちに見られる誇張された性による区別化は、まさに文化の産物なのかもしれない」というハリス女史の説に素直に頷けます。文化は先人である大人たちが継承して環境に落とし込んでいます。その中で成長する子どもたちはその文化色に染まるわけですが、「性による区別化」を文化色に持たない地域では子ども社会に性差を意識する関係性が構築されないのでしょう。思えば、ヨモギを潰してヨモギジュースを作って遊んだり、野山を探検したり、・・・男の子も女の子も一緒にいましたね。

  2. 「子どもを男性的でも女性的でもないように育てたいという親へのアドバイスは、遊枚する狩猟採集民族の一員となることです。もしくは子どもの人数が少なすぎて彼らが二つ以上の集団をつくれないような地域に転居することなのです。」保育や子育てという、ある人からすれば明確な答えなどないと言えてしまいそうなこうした営みについて、上記のような定義に行き着くということに小さな感動を覚えます。これまでの研究がこの定義を支える土台となって、読者を納得させてしまいます。紐解いていったものがまた紡ぎ合わされて新たな一枚の生地になるような、そんな感触と手応えを感じます。研究することの醍醐味はこういったことにあるのかもわからないと思いました。

  3. 私の幼少期は男の子の集団に飛び込んでいくことも女の子の集団に飛び込んでいくことも両方経験してました。そして、そのどちらでも支配的で傲慢だったような記憶があります。しかし自分の意思が通しやすかったのはどちらかと聞かれると男の子の集団だったようにおもいます。女の子の集団内では自らの意見を通そうとしても、女の子同士が結託しそれを阻止していました。男の子の集団だと、この結託、というものがなくより支配的で地位の高い者の意見が通っていたおぼえがあります。男女が混在する集団でも極端に男の子の数が少ないと男の子も女の子に従うしかなくなるのですね。

  4. 〝別々の集団を形成するほど子どもの数が多くない地域において、女の子と男の子の行動様式が似ている〟ということで、たまに過疎の村の小学生などをテレビで見た時の違和感はこれだったのか、と思いました。妙に自分たちの小学生の頃よりも男女の仲が良いというか、男女で協力して何かに取り組む姿とか、仲よさそうに話している姿に違和感を覚えていたのは、この子どもの数にその要因があるんですね。自分たちが小学生の頃には考えられないほど仲が良く見えているだけなのかな…と思っていたのですが。人数によっても自然とそのようになっていくのであることを知っておくと、女性の多い職場で働く自分たちにとっては何かに繋がりそうです。

  5. 子どもの人数がジェンダーの意識に関係するというのは実体験から理解できるところがあります。私の小学校時代は子どもの人数が少なかった為、グループを作るにしても男女を別にすることが難しく、常に男女混合での活動や行動、遊びが殆どでした。そういった面ではエフェ族の男の子と女の子に近い関係性にあったように思えます。互いに性差に対する意識はそこまで顕著ではなく、ある意味兄弟に近いよいうな感覚を持ってはいたのですが、そこにはジェンダーに対する意識が希薄であったことも関係しているように思えます。自園は子どもの人数が少なく、それに似た状況下で保育を行なっていますので、そういった点に注目して子ども同士の関わりを見ることで、また新たな気づきがありそうです。

  6. 子どもの数において、性差が現れるのですね。人が社会の中で生きていることとその社会に大きな影響を受けているということが伺えますね。子ども集団の大きさの違いがカテゴリー分けが促すのであれば、ドイツの保育における多様な12人ほどの集団はある意味でとてもカテゴリー分けが起きにくい環境なのかもしれないと感じました。性差や差別が自然に起きるということは何を意味しているのかなと考えてしまうのですが、何がそうさせているのか、よくわかりません。ただ、今のいじめや自殺の事件やニュースを見ていると、日本の場合はこのカテゴリー分けが起きやすい環境なのでしょうね。そして、それが今の社会に影響しているのであれば、やはり教育環境のそもそもは変えていかなければいけないということが分かります。

  7. 「子どもを男性的でも女性的でもないように育てたい…もしくは子どもの人数が少なすぎて彼らが二つ以上の集団をつくれないような地域に転居することなのです。」というところに前半部分が集約されているのですね。自分を男の子か女の子かにカテゴリー化するのはハリス氏の言うように文化の産物ということがよくわかります。今現在の保育環境を見たとき男の子女の子とのカテゴリー化は自然と行われますね。そこを踏まえた上での保育というのはどんなことが望ましいのか…そんなことを考えさせられます。

  8. 子ども集団のなかで、らしさが出てくることには、その集団のなかにある人的要因が強いことがわかりました。カテゴリーとして、男の子と女の子というカテゴリーに分けるのならば、その集団としての数が関係していますし、と、集団というものは、ある一定数を越えたときにそうした属するカテゴリーのなかでの変化があると考えられました。
    “。女の子は男の子と遊びたければ、男の子のルールに従って遊ばなければならない”とあったことは、その前にあり内容、男の子が保育園や幼稚園以降オムツ替えが見られないことを女の子は理解し、遊びのなかでの集団を子どもというカテゴリーとしては、女の子が合わせるといった形があるのでしょうか。なにより、子どもが状況によって、カテゴリーを柔軟に変えていく、環境へ対応していく力を感じました。

  9. 子ども集団の数によって性差が不明瞭になるというのは新しい視点です。そうなった時に女の子は男の子の遊びに加わり、結果的に「おてんば」だったと言うのは当然の結果なのでしょう。自分の幼児期の頃を思い出してみましたが、そこまで集団の数が少なかったので、キレイに男女で分かれて遊んでいたので、女の子が男の子と混じって一緒に遊ぶ光景は滅多になかった気がします。人類は社会を形成することで生き延びてきたと言うことから考えると集団を形成するのは自然なことで、そこで生まれる性差というのも自然なことで、ハリスのいう文化の産物というのは人類が進化してきた証でもあるような気がしました。

  10. 「別々の集団を形成するほど子どもの数が多くない地域において、女の子と男の子の行動様式が似ているのは、こうした地域では子どもたちは自分自身を〈子ども〉としてカテゴリー化するからです」という集団の規模によってカテゴリーの範囲が変わるというのはとても分かりやすかったです。離島や山間地域での人数の少ない学校での子どもたちの関係というのはこのようなことが背景にあるのかもしれませんね。そうなると集団の規模が大きくなったり、その集団内の多様性が増すと、集団内でのカテゴリー化はさらに複雑になっていくというようなことになるのでしょうか。どちらが良くて、どちらが悪いということではないと思うのですが、そのことを理解しておくだけでも向き合い方が違うのかなと思ったりしました。

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