独自の文化

しかしハリスは、子ども時代と刑務所とでは重大な点において違っていることをつけ加えています。残念ながらすべてとはいえないのですが、子どもたちのほとんどは、囚人たちよりも快適で幸せな生活を送っています。さらに子どもたちは自分たちを見守ってくれている多くの人々を愛し、彼らもまた愛されています。それは、通常、感情は互いに与え合うものであるからです。そして子ども時代と刑務所の決定的な違いは、囚人たちは1年か2年すれば「娑婆」に戻り、自らが望めば刑務所で身につけた行動様式や態度を葬り去ることもできます。しかし、子ども時代は時間的にもはるかに長く、そこで学習されたものは永遠に消えることはないのです。

子ども時代は学び習う時期ですが、子どもたちを空の花瓶のように、彼らの生活にかかわりのある大人たちが意のままに注ぎこもうとするものをただ黙って受け入れるだけの存在としてとらえるのは間違いだとハリスは言います。大人社会の一員として一人前になることを目指して人知れず奮励努力する見習いとして彼らをとらえるのも間違いだとも言います。子どもたちは大人社会の落ちこぼれではありません。彼らは独自の基準と文化をもつ彼ら自身の社会に属する有能なメンバーなのだと言うのです。囚人文化や聾文化同様、子ども文化もまた支配的な大人文化の一角をなし、それゆえに漠然とではありますが、それに準拠しているのです。しかし支配的な大人文化に合わせるにしてもそれは自らの足場固めのためで、子ども文化には大人文化にはない要素も含まれていると言うのです。さらにすべての文化がそうであるように、子ども文化もまた合同作品であり、個々人の集合体がつくり出すものなのです。他の子どもたちなしでは、独自の言語はつくり出せないのです。独自の文化もまた然りだと言うのです。

そうした個々人の集合体が協議を開始する時期は早いと言います。伝統的な社会では幼い子どもたちの遊び集団の中で、私たちの社会では保育園や託児所で、その様子を見ることができるとハリスは言います。ここでハリスが言う「伝統的な社会」とはどういう社会なのでしょう。現代の社会の中では見られないのでしょうか。

社会学者ウィリアム・コーサロは子ども文化の研究を専門とし、イタリアとアメリカで保育園に通う三歳から五歳までの幼児の観察を数年間つづけているそうです。この年代の子どもたちが先生には気づかれない程度に、もしくは気づかないふりをする程度に規則を破り、先生をだますことにどれだけ意気揚々とするか、その様子をコーサロは詳述しているそうです。たとえば、どの保育園にも「オモチャやお菓子をもってきてはいけません」という規則があります。それに対して、子どもたちはどのような姿を見せたのでしょうか?

「アメリカやイタリアの保育園でも、子どもたちはポケットに小さな自分だけのものを忍ばせて、その規則をかいくぐろうと試みる。とりわけ人気があるのが、小さな動物のオモチャ、ミニカー、飴、そしてガム。彼らは遊んでいる最中に、遊び仲間とその「秘密の戦利品」を見せ合い、先生に見つからないようにそれを共有するのだ。もちろん先生もすべて承知しているが、些細な規則破りには目をつむることにしているだけなのだ。」

独自の文化” への10件のコメント

  1. 「些細な規則破り」子どもたちの行動一つ一つに意味があり、それを専門的な知見から理解していくこと、それをするということは即ち子どもたちのすること一つ一つを許していくことではないか、と思えてきました。許すの語源は緩む、許せない状態は緩んでいない状態と聞いたことがあり、体も心も固く緊張した状態で子どもと対峙することは確かにあまり良い状態とは言えません。リラックスした気持ちで子どもを見守る為にも、専門的な知見に触れることはとても大切なことだと改めて感じます。
    「伝統的な社会」現代の社会にも見られるような社会像で、子どもたちはいつの時代も大人を困らせたりしながら、育み続けていくのですね。それをわかって、目をつむりながら見守っているという大人像、保育者像は、とても温かく、寛大に見えます。

  2. 子どもが独自の基準と文化をもつ彼ら自身の社会に属する有能なメンバーだという事を忘れてはいけませんね。社会は大人だけでなく子どもの参画によって成り立っているとう事をつい忘れがちになってしまいます。そして大人がそんな子どもの姿から学ぶことも多々あります。それは子ども故の無邪気さから来るものではなく、彼らが確固たる文化や基準を持っているからなのではないでしょうか。だからこそ、子どもの姿から学び、時には忘れていた物事の本質の部分を思い出し共感するのだと思います。子どもの文化を認め、対等に接することが子どもたちの社会の一員であるという意識をより強める事にも繋がるのではないかと思いました。

  3. 大人と呼ばれる現在、自分が子どもと呼ばれていた頃を何となく思い出すことがあります。保育園や学校には先生と呼ばれる大人が存在していました。家に帰れば父母祖父母叔父叔母などの大人、そして近所の大人たち。そうした大人たちはそれとしながら、同級生や先輩後輩、あるいは兄弟でたくさんの時間を過ごしていたなと回顧できます。ブログの最後の段落に書かれていた事例と同じようなコンセプトで子ども同士のやり取りを展開していたことも思い出しました。「こども文化」これは確かに存在しますね。子どもには子どもの世界がある、でいいと思います。そのことを認めなければ私たちは本当の意味での「大人」になれない。わが子に対して私が親という大人になれるのは、子が食う寝る遊ぶそして学校に通う、を実現できている時だと思っています。そのために大人の私は稼ぐ。先生という大人は、子どもたちが発達を順当に遂げられるように、そして見て真似て学べるように、環境を設定することでしょう。条件付き子どもの世界を保障することでしょう。今回のブログを読みながら以上のことを考えました。

  4. 子どもは〝彼らは独自の基準と文化をもつ彼ら自身の社会に属する有能なメンバーなのだ〟とハリス氏は述べていますね。社会はおとなのてめのものでもなく、お金持ちのためでもなく、みんなのためのものであることを忘れないようにしなければならないですね。
    そのような目線で子どもたちをみていくと「些細な規則破り」がどのようなことを意味しているのかということを考え、立ち止まって一呼吸おいてから子どもと話すことができるのだと思います。子どもの行動一つ一つに意味があるということを改めて感じました。

  5. 「先生に見つからないようにそれを共有するのだ。もちろん先生もすべて承知しているが、些細な規則破りには目をつむることにしているだけなのだ。」こういったことは現場でもよく起こることですね。実際、自分の幼少期を考えてみても、こういったいたずらや大人の目をかいくぐる楽しみというものはありました。子どもたちの部屋にいって体を触られては逃げていくのもよくあることですし、確かに大人とは違った独自の文化を子どもたちは有しているのだと思います。そのため、つい大人の感性と子どもたちの感性は違うのでしょうし、求めすぎてもなかなか理解できないのでしょうか。2歳ごろに「なんで?」と聞くようになるのはこういったことが理解できるようになってくるからなのでしょうか。大人の作る環境と子ども同士の環境、そのバランスをもって保育をしていく必要があるのですね。そして、そのためには「子どもを知ること」「信じる」ことは重要になってきますね。

  6. 「子どもたちを空の花瓶のように、彼らの生活にかかわりのある大人たちが意のままに注ぎこもうとするものをただ黙って受け入れるだけの存在」と「子どもたちは大人社会の落ちこぼれではありません」というのが同じような表現をされているのが面白いですね。知らず知らずのうちに大人にしようとしてしまっている保育者の気持ちが表れているような感じがします。子どもたちの独自の文化にしっかりと向き合い、その文化も認めながら成長を考えていきたいと思います。

  7. 「子ども時代は時間的にもはるかに長く、そこで学習されたものは永遠に消えることはないのです。」とあり、いかに子ども時代の経験が将来の自分に影響するかがわかります。そして子どもたちの文化というのは独自に展開されているということを我々保育者は理解しておかなければなりませんね。大人の規則をどうにかかいくぐろうとする子どもたちを現場ではよく見ますが、そこにはある程度の見守りが必要であるような気もしますね。目に余るようなこと以外は目を瞑ることで子どもたちの文化というのも発展するのですかね。それにはまず知識と心の余裕が必要ですね。

  8. “子どもたちは大人社会の落ちこぼれではありません。彼らは独自の基準と文化をもつ彼ら自身の社会に属する有能なメンバーなのだと言うのです。”という考え方は、私たちは、いかに子どもが子ども集団のなかで、生まれた独自の文化に大人よがりな意見で入っていかないことが重要だと思いました。子ども集団のなかで生きるためには相手と共生をはかり、集団として必要な気質として、相手の感情に共感することが大切になってくると思います。そういった経験には、相手にあわせるとか、いたわるとかそういった部分が経験されるなかで、感情は互いに与え合うことが生まれてくるように思います。社会の文化というのは、様々な様々な子ども集団による独創的に生まれる文化やでされてきた文化など、多くの文化が入り交じり合いながら進んでいくものなのでしょうね。

  9. 子どもたちが持つ独自の文化は決して、大人の落ちこぼれでもなんでもなく、一つの社会を形成している立派な文化であるという大切なことは忘れてはいけませんね。我々、大人も子ども時代があり、色々な経験をしてきたはずです。それが今の自分を形成しているのは今までのブログを読んでいれば納得できます。その中での「些細な規則やぶり」も大切な子どもの文化の一つのような気がします。先生にバレないように「小さな戦利品」を見せ合うことでドキドキ感や優越感を仲間と共感します。今思うと、私も似たような経験をしていますが、先生からするとバレていたのかもしれませんね。ふと思い出したのが、学童を運営していた時のエピソードで「おもちゃ持ってき放題期間」を設けていたのを思い出しました。持ってきて良いものダメな物自分たちで決めていました。小学生にもなると小型ゲーム機などで遊ぶので持ってくるかと思いきや、結果的にゲーム機はダメになったそうです。隠れて持ってくる醍醐味もありますが、あえて認めて自由な時間を設けるのも大人の役割かもしれませんね。

  10. 「彼らは独自の基準と文化をもつ彼ら自身の社会に属する有能なメンバーなのだと言うのです」とありました。子ども集団の重要性を感じる言葉ですね。子ども集団を大人たちはもしかすると、ついつい大人の集団と比較してしまっている部分があるのかもしれません。しかし、このハリスの言葉からも分かるように、子ども集団がいかに子どもにとって重要なものであるかということを感じます。そこに属していることが何より大切で、決して未熟な集団であるという認識ではありませんね。また「この年代の子どもたちが先生には気づかれない程度に、もしくは気づかないふりをする程度に規則を破り、先生をだますことにどれだけ意気揚々とするか…」というのもおもしろいです。このようなことができるような集団を考えると、やはりある程度人数がいた方がいいのかなと思ってきます。少ないとどうしても大人の目は行き届いてしまいますね。しかし、逆に子どもの数が少ない場合は大人が意識して見ないような部分を作ることも大切だったりするのでしょうか。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です