子ども文化は寄せ集め

数百年もの間子どもたちによって試されて確立した遊び継いできた遊びは、親から教わるものではなく、ティーンエイジのお兄さんお姉さんから教わるものでもありません。オーピー夫妻によると、

「子どもが思春期に達すると、奇妙なことだが、本当に彼は遊びへの関心を一気に失うのだ。成長の過程なのか、今まで彼の大部分を占めていた遊びの記憶を実際になくしてしまうのかもしれない。…1年前に誇らしげに教えてくれた遊びの情報に関してもっと詳しく聞きたいと思った14歳の子にばったり再会しても、その子はわれわれの問いをただぼんやりと聞いているだけだった。」

14歳の子どもが、それほど記憶力が悪いとはとても思えないとハリスは言います。かつて情報を提供してくれた者が口を閉ざしたのは、物忘れからではなく、気恥ずかしさからだと言います。ティーンエイジャーにとって、子ども集団の一員とみなされるのは、保育園に通う子どもが赤ちゃんと呼ばれるのと同じくらいばつが悪いのです。「オレは彼らとは違うぜ」とその14歳の少年はオービー夫妻に言ったそうです。「彼らが何をしてるかなんて、オレに聞かれても困る」と。自己カテゴリー化は今現在の自分に対して行なわれるため、ティーンエイジャーに自分も子どもだったときがあると認めさせるのは、彼もいつかは大人になると信じさせるのと同じくらい難しいことなのだと言うのです。

遊び、言葉、大人を欺く戦略、細かな慣習、子ども文化はまさに寄せ集めだと言います。子どもたちは好き勝手に、その集団に属する子どもたちの大半に認められたものであれば何でもかんでもその中に投げ入れます。大人文化からも取捨選択をして取り入れるため、集団ごとに文化の内容は異なります。ロバーズ・ケイヴの実験ではそれぞれ、ラトラーズは強靭で男らしくあることに、一方のイーグルズは相手よりも信心深くあることに専念しました。それらは少年たち全員が共有する文化の違った側面でした。14日という期間で、彼らは二つの対照的な文化を築き上げ、それぞれの文化に即した行動様式を取り人れたのです。

複数の文化に属する子どもたちは、それぞれの文化から取捨選択ができるので、選択の幅はいっそう広まります。アラスカの夏の長い夜、ユビックの村落の少女たちは、伝統的なイヌイットの遊びである「絵ものがたり」に興じます。鈍いナイフで泥に絵を描きながら、それに関する話をするという遊びであり、話が進展するに従い、描いた絵を手で消し、その上から新しい絵を描きます。以前はその話も少女たちの祖父母が話すユビック語で語られましたが、この村落の子どもたちはバイリンガルで、彼女たち同士では英語を使っていました。今では、泥に絵を描きながら、ユビックの少女たちが語る物語は英語で、その物語の中にはテレビで見る登場人物や内容からつくられるものもあったそうです。

文化はたったの一代で変えてしまうこともできれば、無から築きあげることもできるとハリスは言います。革新勢力となるのは、年配層より若年層で、彼らはまた斬新な発想を快く受け入れます。宮崎県幸島のニホンザルの群れに属する4歳のイモは、麦の粒と砂を選り分ける方法を発見しました。砂まじりの麦を海に投げ入れると、砂が沈んでゆき、麦だけが水面に浮かんで残るのです。イモの遊び仲聞がそれを真似ると、最長老のサルを除く群れ全体が水中に麦を投げ入れるようになりました。

子ども文化は寄せ集め” への10件のコメント

  1. 小学校高学年ともなると、それまで興じていた遊びをしなくなりました。中学に上がると、ウルトラマンごっこも仮面ライダーごっこもしなくなりました。缶蹴りや鬼ごっこもしなくなりました。「14歳の少年」の件は何とも頷ける内容で、確かに自分もそうだったとあの頃を思い出します。「複数の文化」ということでは、ラジオやテレビの登場は子ども文化の多様性に大いに貢献したのだろうと思うのです。そして今やインターネット、オンラインによって子どもたちの遊びはかつてと異なってきているようです。園では子どもたちの間でコマ回しが流行っていますが、そのコマ回しはベイブレードになって4,5歳から低学年児童の男子に浸透しています。カード遊びはトレカに代わっています。複数の子ども文化は多様性を帯びつつ、私のような大人にはよくわからないものとなっています。それが時代の変遷ということなのでしょう。これからはAIの登場によって子どもの遊びの内容、子どもが創造する文化内容も変わってくるのでしょう。よく分からないながらも楽しみではあります。

  2. 「かつて情報を提供してくれた者が口を閉ざしたのは、物忘れからではなく、気恥ずかしさから」その青さというのでしょうか、あまりにも若かりし青春時代と言い表せるようなあの頃の感覚が蘇るようで、息子たちがこの年齢になる時にどういう態度をとれる父親になりたいか、そんなことに思いを馳せてしまいました。大人でも子どもでもないその時代に確かに子どもの時の遊びを聞くのは、実はとても繊細な部分に触れている可能性が低くないようにも感じられ、だからこそでもあるのか、この時期のこういった研究にとても興味が湧きます。
    「子どもたちは好き勝手に、その集団に属する子どもたちの大半に認められたものであれば何でもかんでもその中に投げ入れます。」子ども文化が寄せ集めと称された理由のわかる文章です。好きなものが沢山集まっていて、かつ集団の統一感を得ながら一つの集まりとして成立するという点で、お子様ランチや全部の具材が乗ったラーメンを想像しました。作っている当事者たちは、それはワクワクしているわけですね。

  3. 「オレは彼らとは違うぜ」。まだまだ興味はあるし楽しいと思えるのに、それに興じることで子ども扱いはされたくないという時期はきっと私にもありました。14歳頃といえば思春期の真っ只中であり、大人っぽく見せようと少し背伸びをして強がったり、悪ぶってみたりしたくなる時期でもあります。それは子どもの文化から大人の文化へと関心が向くことがそういう態度をとらせるのでしょうか。そのころの自分を思い出すこと自体、気恥ずかしくなってしまいますが、思春期とは子どもの文化から無理にでも決別し、大人の文化への入り口に立つことのような感じがします。
    集団に属する子どもたちの大半に認められたものであれば何でもかんでもその中に投げ入れるとあります。時に子どもたちの遊びが無秩序でゴチャゴチャしたもののようになりますが、それも寄せ集められた文化の表れのような気がします。そのような遊びや子どもの文化をしっかりと受け入れられるような保育でありたいと思います。

  4. 子どもたちを見ていると大人は変化することになかなか慣れることができないことが多いですが、子どもたちのほうが至って柔軟に状況に対応することが多いです。また、思ってもみなかった動きや発想をすることも多くあります。それは「何も先入観がない」からとだけ思っていましたが、「遊び、言葉、大人を欺く戦略、細かな慣習、子ども文化はまさに寄せ集めだと言います。」とあるように、すべてのものやことに取り入れることができるからなのですね。大人は成長の段階の中で取り入れたことを切り捨て、効率や合理的なものを見つけ出します。それが先入観や既成概念となるのですが、やはり思考の方法は子どもと大人では大きく違いますね。

  5. 〝遊び、言葉、大人を欺く戦略、細かな慣習、子ども文化はまさに寄せ集めだ〟とあり、子ども文化は何にでも影響を受ける、吸収できる子ども独自のものであるんですね。そして、大人と違う部分として、大人は合理化などから今までのものを切り捨てたりすることがあるのでしょうが、子どもの場合は寄せ集める、ミックスするような感じになるということなんでしょうね。やはり、考え方、思考などは子どもと大人では差がありますね。その差を埋めるのに苦労するから、子どもから大人への中間点とでもいうべき思春期は大変なんでしょうか。

  6. 「情報を提供してくれた者が口を閉ざしたのは、物忘れからではなく、気恥ずかしさからだと言います」とありましたが、自分が関係した園児が小学校であった際に、少し微妙な感じも感じるのはこうしたことが理由でもあるのですね。確かに、どのクラスにおいても「オレは彼らとは違うぜ」というような意識は、その後の成長につながるような経験をさせてくれるものに感じます。そうした意味では、気恥ずかしさを感じるというのは大切な感情なのでしょうね。

  7. 「かつて情報を提供してくれた者が口を閉ざしたのは、物忘れからではなく、気恥ずかしさ」とあるように親戚の子であったり、卒園児といった子たちの姿が浮かびます。まるで別人のような振る舞いであり、自分の中にあるなにかが呼び起こされたようなそんな感覚ではないかと振り返ったりその子たちを見ると感じます。いずれ息子がそうなったときに受け入れ、筋の通った見守りをしていきたいと思います。そして文化についてですが、「文化はたったの一代で変えてしまうこともできれば、無から築きあげることもできる」とあり文化の伝承難しさと作る容易さが混合していることもよくわかりました。

  8. 遊び、言葉、大人を欺く戦略、細かな慣習、子ども文化はまさに寄せ集め”という言葉は、子どもがいかに大人の小さい版ではなく、子どもというカテゴリーであり、そのなかに一人一人、個性を持ち合わせ、それは、子ども社会のなかで、経験する大人と子どもがかれらとわれわれというようなカテゴリーのなかで生きていくことが重要だと気づき、必要なものだと思うのでしょうね。そして、子ども文化は継承されるものという決定的な理由はなく、”文化はたったの一代で変えてしまうこともできれば、無から築きあげることもできる”とハリス氏の言葉からも感じられました。

  9. 思春期というのでしょうか、今まで楽しくやっていた遊びが、急に興味がなくなり見向きもしなくなるのは。自分もそうだったのかと思うと懐かしいく感じると同時に、息子二人がいずれはそうなるのだろうと思うと楽しみでもあります。文化の寄せ集めというか、時代によって遊びが変わり、進化していることに驚きます。革新勢力となるのは、年配層より若年層で、彼らはまた斬新な発想を快く受け入れます。と書かれてありますが、遊びはもちろん、仕事でも言えると思います。先日、藤森先生が言われた言葉で「昔はこうだった、の昔とはいつなのか?」と言われました。若い職員がどんどん新しい発想を出すことで、より革新的になるのでしょう。

  10. 「子どもたちは好き勝手に、その集団に属する子どもたちの大半に認められたものであれば何でもかんでもその中に投げ入れます」とありました。このようなことを積み重ねていくことで、子どもたちは独自の文化を築いていくのですね。こういう文化を築くのだという理想が前提にある訳ではないというのがなんともいいなと思いました。「子どもが思春期に達すると、奇妙なことだが、本当に彼は遊びへの関心を一気に失うのだ」というのもおもしろいですね。それが気恥ずかしさからきているのではないかとありました。自分のことをよく覚えていないので、なんとも言えないのですが、そのような子どもから大人へと移行していく過程のようなものがまさに思春期である年齢の頃に起きているのですね。

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