大人に隠れて

秘密のものを別の子どもに見せることで、たった一人の反抗行為が集団性の表象として、われわれ子ども対大人へと変わり、楽しみがいっそう増します。子どもたちが「大人の支配を嘲弄し、かいくぐる」ための戦略は保育園文化の中でも特に尊重される部分なのだとコーサロは言っているそうです。大人の支配を嘲弄し、かいくぐる、という行為は子ども集団にはつきものだとハリスも言います。世代が代わるたびに独自の戦略を構築するため、子どもたちは年長の者からその戦略をおそわる必要もありません。ただし、慣例化しているものの中には、年長の子から年少の子へと伝えられるものもあり、それも子ども文化の一角を成すことになると言います。ウィリアム・コーサロが何カ月も、観察者として過ごしたイタリアの保育園には三歳から五歳までの子どもたちが在園していましたが、五歳児の中には三歳のときから在園していたという子もいました。何世代かが重なって存在する状呪を心理学者は「コーホート」と呼ぶそうです。コーホートにより、慣例化するものが生まれ、それが年少の子へと引き継がれます。コーサロは、この保育園の子どもたちには先生には知られていない慣例があることを発見したそうです。園庭の壁の外に清掃車がゴミの収集にまわってくると、子どもたちはジャングルジムの上によじ登り、壁越しに清掃車の運転手に手を振るのです。また運転手もそれに応えます。子どもたちはそれをとても楽しみにしていたのだそうです。

言語もまた同じようにして引き継がれるとハリスは言います。アフリカのニャンソンゴ族の子どもたちの間では、自分たちの間だけで通じる、体の特定箇所を指す卑猥な表現があるそうです。大人はそのような表現は使わず、また大人の前での使用は禁じられています。幼い子どもたちは年長の子どもたちからそれを教わり、ある時期に達すると自分よりさらに幼い子どもたちへと語り継いでいきます。これらの表現は子ども文化の一部であり、それは大人文化には存在しないものです。

ハリスは、さらに忘れてはならないのが、子どもたちの遊びだと言います。イギリス人研究家アイオナ・オーピー、ビーター・オーピー夫妻は、子どもたちの屋外での遊びと親や教師の目の届かないところでの遊びを一生涯研究しつづけました。「今日の学童が何世紀か前の世界へと漂着するようなことがあれば、その子は他のどんな社会的慣習よりも、遊びの中で安堵感を覚えることだろう」と夫妻は語っているそうです。彼らはイングランド、スコットランド、およびウェールズの学童たちが今日でもローマ時代から伝わる遊びに興していることを発見したのです。

「子どもたちが外で遊ぶときには…最も古くからあり、もっともおもしろい遊びに興じる。それらの遊びは数百年もの間それを遊び継いできた子どもたちによって試されて確立したものである。そこには活字も正式なルールも大人の承認もいっさい関与していない。」

大人に隠れて” への5件のコメント

  1. まずは「(子どもの)遊びを一生涯研究しつづけ」たイギリス人研究家夫妻の存在に驚きました。ブログで紹介される様々な研究に関してはこれまでも、へぇ~そんなことまで研究対象とするんだ、と思ってしまう事例がありましたが、今回もそうですね。そして「学童たちが今日でもローマ時代から伝わる遊びに興していることを発見した」とはこれも凄い。「ローマ時代から伝わる遊び」。2000年も伝えられてきた遊び。日本にもそうした遊びはあるのでしょうね。大人の支配をかいくぐり、しかも先輩たちからの伝承によって受け継がれてきたかもしれない遊び。言語もしかり。「子どもの存在を丸ごと信じる」とは子ども世界に対して、そのままの存在として私たち大人が了解すること、そんな思いが浮かび上がってきました。「そこには活字も正式なルールも大人の承認もいっさい関与していない」子どもたちの遊び。子どもの存在を信じながら、子ども集団の必然性にも思いを馳せたところです。

  2. 「清掃車の運転手に手を振る」それと同じような光景を散歩先で見ます。ある子はその方をコウジサンと呼びます。工事をしている場所の警備の方なのですが、コウジサンも子どもたちが可愛い様子で、塀越しに楽しそうに会話が交わされています。そう思うと「先生に知られていない慣例」は至る所にありそうで、子どもの頃を思い出すと確かにそういった楽しみがあり、それに先生は気付いていたかどうか、いや、気付かれないように楽しんでいたのだと思います。子どもの時にはいつもいた世界だったのに、こうして思い出さなければ忘れてしまうものなのですね。子どもの頃だけの世界があるということだと思います。

  3. 大人に隠れて行う悪戯の楽しさは今でも憶えています。そして子どもたちだけが理解できる言葉を生み出したり、時には秘密基地さえも嬉々として作っていました。あの楽しさの根底には自分たち、子どもたちだけに共有できる文化という意識があったからのように思えてきます。また子どもたちは大人の死角に隠れて遊ぶことも大好きです。隠れること、秘密にすることで子ども独自の文化を保つという意識が、子どもたちの中で無意識のうちに働いているようにさえ思ます。死角こそが子ども文化の真髄が息づく場所のような気がします。

  4. いつの時代も、大人に隠れて行う遊びというものがありますね。自分の幼少期にもおなじような経験があります。どちらかというとそういった環境で行うことは「いたずら」というよりも「実験」といった意味合いが大きかったように思います。しかし、その内容はきっと近くに大人がいたら許してはくれなかった、または眉をひそめられるものであったように思います。それだけ大人の介入がない子どもだけの世界で行われている遊びでありました。最近では子どもと大人の距離感が近くなり、過保護になりやすい環境です。むかし兄貴とやった木の棒をつかったチャンバラでもきっと危ないと言われ止めれるでしょうね。しかし、そこで痛みをまなんだようにも思います。ある程度の大人の死角は用意する必要があるかもしれませんし、そのために「子どもを信じる」といった見守る距離感は大切ですね。

  5. 〝子どもたちが「大人の支配を嘲弄し、かいくぐる」ための戦略は保育園文化の中でも特に尊重される部分なのだ〟という部分が印象に残りました。子どもの頃に先生に見つからないようにしながらしてきた数々のことを肯定しているのが新鮮でした。同時に、自分はいつの間にか大人対子どもの構図で考えていたことに気づきました。最近のブログの中でもありますが、子どもは大人の劣化版ではないことを再認識しています。そして、コソコソとしている、隠れてしている何かが子どもたちの独自の文化を育んでさえいるように感じます。大人からは見えない場所、行為も文化の伝承や発展をする時なんですね。
    子どもの頃に先生に見つからないようにしていたいろんなことが楽しかったことを思い出しました。

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