囚人と看守

ハリスは、仲間と共有する世界こそが子どもの行動を決定づけ、生得的な特徴に変化を加え、それゆえに彼らがどのような大人になるのかを決定づけるのだと主張します。そして、その証拠は目の前にあるのに、心理学者も人類学者も長年それを無視しつづけきたと言います。それは、おそらく彼らは子ども時代の目標というものを誤って解釈していたのだろうと推測しています。囚人の目標が立派な看守になることではないように、子どもの目標は立派な大人になることではないと言うのです。子どもが目標としているのは立派な子どもになることなのだというのです。この見方は初めてですが、確かにと思います。

さらに、ハリスはこじつけにならない程度に子ども時代と刑務所の類似点についてもう少し深く掘り下げています。刑務所内は〈囚人〉と〈看守〉という二つの社会的カテゴリーに分かれています。支配的地位にいるのは看守です。たとえば、看守が自らの裁量で唐突にある囚人を別の刑務所に移すことができるとします。ハリスは幼い頃、彼女の意志に反してある土地から別の土地へと引っ越しを余儀なくされたのと同じであると言うのです。囚人たちは看守の管轄下におかれているため、看守とは良好な関係を保とうとします。しかし、彼らにとって本当に重要なのは囚人たちの間で自分がどのように思われているかだというのです。

囚人たちはおそらく自分もいずれは看守のように自由な人間になれると認識していますが、それは漠然とした先の話です。現実には囚人として一日一日を過ごさなければならない。過去の自分、将来の自分がどうであれ、今彼らが自らを分類し、そして他人から分類されるのは囚人というカテゴリーなのです。

囚人たちも、他の集団同様、自身の文化をもっています。その文化はたとえ個々人の入れ替わりが激しくても時間を超えて引き継がれていきます。彼らにしか通じないスラングもあれば、独自の道徳規準もあります。看守に盾突く者や囚人仲間を裏切る者はひどく軽蔑されます。看守の指示にしたがうか、でなければ反抗して苦汁をなめるかですが、それでも完全に尻に敷かれるのはおもしろくない、わずかでも自治権を固守したいのです。だからこそ看守を騙したり、つかまらない程度にいたずらをはたらき、楽しむのです。これは囚人文化の一部であり、看守を騙すのに成功した者は、その手柄を誇らしけに囚人仲間に語ったりするのだとハリスは言うのです。

囚人はどのようにして囚人らしく行動するようになるのでしょうか。刑務所ごとで異なるであろうその文化や行動規範はどうやって身につけるのでしょうか。その方法の一つは間違いを犯すことであるとハリスは言うのです。看守の定めたルールに違反すれば、看守に罰せられます。囚人社会のルールに反すれば、他の囚人たちから茶化され、無視され、もしくは攻撃されます。ただし、傍観者に徹し、常に注意を怠らずにいれば、痛い思いをすることなく、「立派な」囚人になることができます。他人を観察することで学習するのだと言います。囚人の出入りは激しいですが、新入りは自分以前に入所した者を模範とします。囚人は看守のように行動することは許されていないため、看守の真似をしても正しい行動様式を学習することにはなりませんが、他の囚人たちを観察すれば、それを学習できます。

囚人と看守” への10件のコメント

  1. 囚人と看守、何ともわかりやすい比喩表現で、看守という字も「看る」と「守る」、不思議な繋がりを感じてしまいます。
    「囚人の目標が立派な看守になることではないように、子どもの目標は立派な大人になることではない」「子どもが目標としているのは立派な子どもになること」子どもたちがどういう視点で保育者のことを、大人のことを捉えているのかよくわかりました。それを踏まえての子どもたちとの今日一日がありましたが、今までに子どもたちに感じていた疑問の幾つかが、どうして保育者のように振る舞えないのだろう、ということに行き着くことに気付きました。そして、そうならないことの理由がわかり、とてもすっきりした気持ちを味わいました。
    そして、このことは、子ども社会だけでなくどうやら大人社会、人間の織り成す社会というものはそういう構図を持っているのではないか、と思い至りました。「囚人の目標が立派な看守になることではない」ですが、看守の人格に触れ、感化されてまともな人間になろうと向上心を持つことはあると思います。どの仕事に就くにしても、そこで人格を磨いていくということはとても大切なことのように思えます。

  2. 子どもが目標としているのは立派な子どもになること。目標としていること、見据えている先が異なれば歪みが生まれるのは当然のことであり、実際にその見解の違いが保育や子育てにおいて影響を与えている部分はありそうです。子どもが何を目標とし、目指しているのかを理解することが、子ども社会の理解にも繋がるように思えます。
    囚人社会と子ども社会に共通点があるとは思いもしませんでした。そして両方の社会で重要なポイントが同じ社会集団のメンバーを観察し真似ることであり、看守や大人といった管理する側を真似ることではないということです。子どもはあくまでも自分の属する身近な存在を目標として成長をしていくのですから、保育において保育者は子どもの目標として存在するのではなく、子ども集団の形成、活動を保障する存在であることが大切なことだと感じました。

  3. 「子どもの目標は立派な大人になることではないと言うのです。子どもが目標としているのは立派な子どもになることなのだというのです。」なるほど、そこに適した子どもになるということですね。囚人と看守を子どもと大人、刑務所を地域やあるいは園として見てみると、似ている部分があるのはとても興味深いです。囚人もそこで刑期を無事に終えるためには模範的な囚人でなければいけないですし、それは他の囚人を模範とすることから始まる。そのプロセスは子どもと似ています。このことを受けると最近、自由な刑務所ができたといういのも、乳幼児施設の方向性と似てるようにも見えてきました。それとともに大人にしても、子どもにしても同じような環境が必要であるのかもしれませんね。そもそも、人が物事を学ぶことが模倣から始まるのであれば、大人にも置き換えられるのだろうと思います。

  4. 子どもと大人との関係を囚人と看守の関係に譬えています。わかりやすいですね。子どもは立派な大人になろうと思うはずがなく、なっても「立派な子ども」というのも頷けます。早く大人になりたいと思う子どもも存在するのかもしれませんが、どちらかというとずっと子どものままでいたいと思う子どもが多いのかもしれません。子どもは子どもたちの世界の住人です。私は大人たちの世界の住人です。私が大人であるのは、子どもがいるからに違いありません。看守が看守であり得るのは、囚人がいるからです。そして看守の役割は何か。それは、囚人たちが脱走等の余計なトラブルに巻き込まれないようにすることでしょう。脱走して刑罰が重くなるのは囚人です。看守も訓告戒告時に免職。いずれにせよ、良いことはありません。囚人の世界を囚人の世界たらしめるために看守が存在するように、子どもの世界を子どもの世界たらしめるために、私たち大人が存在するのでしょう。「大人」とはそうした存在なのだと気づきました。

  5. 〝子どもの目標は立派な大人になることではないと言うのです。子どもが目標としているのは立派な子どもになることなのだ〟という部分でハッと気づかされました。囚人と看守の例えから子どもたちは大人でなく立派な子どもになろうとするということがよく理解できました。
    そして、大部分の大人たちはそこの大前提の部分というのを勘違いしているのではないかということに気づきます。大人たちは立派な大人に育て上げようと頑張っていたのでないかということに。例えでいうなら囚人を立派な看守にしようとしてもできませんね。囚人には囚人の、子どもには子どもの、大人には大人のそれぞれの世界があり、それぞれの世界の中での「立派なもの」になろうとしているのですね。しかも、そこは自らがそうなろうとしていて、異世界の住人はいたずらに首を突っ込むべきではないということを思いました。

  6. 「子どもの目標は立派な大人になることではない」「子どもが目標としているのは立派な子どもになること」というのは、とても面白い見解ですね。その例として、囚人の例が挙げられているのは、我々が普段知らない世界だからこそ、先入観がなく、とてもわかりやすく感じました。囚人と子どもを比べてはいけないのでしょうが、子どもの世界にもルールを学ぶときには同じような感覚がある気がします。失敗から学ぶというのはどの時期においても大切なことですね。

  7. 題名にある囚人と看守とあり、なぜだと思っていましたが読むと納得のいく内容となっていました。まさか囚人と看守に例えるとはと思いましたが、確かに「子どもが目標としているのは立派な子どもになることなのだ」というこですね。大人がモデルになることはあるにしてもはやり、少し自分よりも憧れの持てるような人に惹かれていくことがよくわかります。そしてその集団の中でどのように振る舞うかはその集団にいる一人一人を見なければなりませんね。そうすることで自分の属している社会を学んでいくこともわかります。

  8. “子どもの目標は立派な大人になることではないと言うのです。子どもが目標としているのは立派な子どもになることなのだ”という言葉が最初にあり、私たちが保育という現場のなかで、気を付けなければならない内容だと思いました。大人になるために、様々な経験をし、そして、多くの遊びから学ぶのではなく、子どもという時代のなかで、子どもらしい、生き方、子ども集団のなかでうまく生きるということが、のちに、大人になったときにそれが決定的な理由になることをしっかり頭に入れておかなければならないと思いました。

  9. 子どもは立派な大人になることが目標ではなく、立派な子どもになることが目標である、とても印象強い言葉です。確かに子どもの時に立派な大人になろうとは思ってはいなかった気がします。将来の夢は思っていても、それが立派な大人とは結びつかないでしょう。囚人の例もとても分かりやすいですね。いくら看守を観察し真似したところで、看守と囚人では立場も違いますし、生活する場のルールも違います。そして刑務所の中でのルールがあったとしても、もっと細かいルールがあるのは囚人同士であるでしょうし、それこそ傍観者となって観察すれば「立派な囚人」になれるでしょう。だからこそ異年齢であったり、子ども同士の関わりが子どもにとっていかに重要かが伺える例ですね。

  10. 囚人というカテゴリーだとあまり馴染みがないので、異質なものであるというイメージが強いですが、囚人集団でのふるまい方などを知ると人が属する集団には共通する部分がたくさんあるのだなということを感じます。その中で「子どもが目標としているのは立派な子どもになることなのだというのです」とありました。この部分はまさに子どもたちは今をよりよく生きる存在であるべきという考えと共通するように思います。「過去の自分、将来の自分がどうであれ、今彼らが自らを分類し、そして他人から分類されるのは囚人というカテゴリーなのです」ともありましたが、なんだか共通しているようですね。また、どこか、生きる上で大切なことも教えてくれているような気さへしてきます。常にあるのは今の積み重ねなんだということを言われているような気がしました。

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