チベットの寺院で育てられたダジャ・メストンは自分自身を「チベット人の心が宿る白い肉体」と表現したそうです。この矛盾を解消できる外科医はいないとハリスは言います。ダジャは身長が高すぎる、肌の色が白すぎるといった理由で仲間たちから拒絶されていました。だからといって、彼が仲間たちのような男の子として自分をカテゴリー化することができなかったわけでもありません。チベット人として社会化を果たすことが妨げられたわけでもありません。同じようにジョアンやジェイムズのような子どもたちも、自分を拒絶する集団の一員として自らをカテゴリーすることはできるのです。自分がその一員であることを実感するために、同じ社会的カテゴリーに属するメンバーたちに好かれる必要はないとハリスは言います。また彼らを好きになる必要もまったくないと言うのです。
以前、ハリスが紹介した発達心理学者エレノア・マコビーは、二歳半から三歳までの初対面の子どもたちを二人ずつに分け、オモチャの散らばった実験室に入れたときの様子を観察したそうです。その後どうなったかは、その一組が男女の組なのか、それとも男同士、女同士の組なのかによって異なったそうです。男同士、女同士で組んだときには男の子も女の子も同じように友好的でしたが、女の子と男の子を組ませると、そのバランスは不穏にも崩れてしまったそうです。女の子は、同じ女の子と組むときのようにはパートナーとは遊ばず、傍観者に徹することが多かったそうです。マコビーの報告によると、「男の子と組ませた場合、女の子は端に立ち、男の子にオモチャを独占させてあげることも多いのです」と言っているそうです。まさに、三歳になるかならないかの幼い子どもたちがです。
他者と遊ぶには協調性が要求されます。協調性とは、時として他者が望むことを行なうことを意味するとハリスは言います。協調性への誘いは、提案や要求といった形をとることがあるとも言います。研究によると、幼い女の子たちでは、成長するに従って遊び仲間への提案が増えつづけ、その遊び仲間が女の子であれば、その提案を従順に受け入れてもらえる可能性はますます高まります。ところが、その同じ時期に男の子たちは、提案を受け入れることに対してますます従順ではなくなります。特に女の子たちからの提案であればなおさらだと言います。他の男の子たちにはまだ耳を貸すことがあるのは、おそらくそうしたコミュニケーションが丁寧な依頼という形ではなく、要求という形をとるからなのだろうとハリスは推測します。こうした現象は実際に起きていると言います。しかも平均的な男の子と女の子の間で、体格的にも体力的にもほとんど差のない年齢から起きているのです。
幼い女の子たちが幼い男の子たちを避けるようになるのも、こうした理由からかもしれないとハリスは考えています。自分の提案に耳を傾けようともしない人や、「貸して」とも言わずにオモチャを引ったくってしまうような子どもと遊んでもおもしろくないでしょう。ところが、まもなくすると男の子たちもまた、女の子を避けるようにもなります。おそらく人形のおむつを換えるようなつまらない遊びをする人よりも、オモチャのトラックをブルルルルといわせるようなおもしろい遊びを好む人たちと遊んだ方が楽しいのでしょう。もしくは、こうしてお互いに避けるようになるのは、〈女の子〉と〈男の子〉という二つの対照的なカテゴリーへの分類とそれにより誘発される〈われわれ〉対〈彼ら〉感情による結果なのかもしれないとハリスは言います。