遊び仲間

チベットの寺院で育てられたダジャ・メストンは自分自身を「チベット人の心が宿る白い肉体」と表現したそうです。この矛盾を解消できる外科医はいないとハリスは言います。ダジャは身長が高すぎる、肌の色が白すぎるといった理由で仲間たちから拒絶されていました。だからといって、彼が仲間たちのような男の子として自分をカテゴリー化することができなかったわけでもありません。チベット人として社会化を果たすことが妨げられたわけでもありません。同じようにジョアンやジェイムズのような子どもたちも、自分を拒絶する集団の一員として自らをカテゴリーすることはできるのです。自分がその一員であることを実感するために、同じ社会的カテゴリーに属するメンバーたちに好かれる必要はないとハリスは言います。また彼らを好きになる必要もまったくないと言うのです。

以前、ハリスが紹介した発達心理学者エレノア・マコビーは、二歳半から三歳までの初対面の子どもたちを二人ずつに分け、オモチャの散らばった実験室に入れたときの様子を観察したそうです。その後どうなったかは、その一組が男女の組なのか、それとも男同士、女同士の組なのかによって異なったそうです。男同士、女同士で組んだときには男の子も女の子も同じように友好的でしたが、女の子と男の子を組ませると、そのバランスは不穏にも崩れてしまったそうです。女の子は、同じ女の子と組むときのようにはパートナーとは遊ばず、傍観者に徹することが多かったそうです。マコビーの報告によると、「男の子と組ませた場合、女の子は端に立ち、男の子にオモチャを独占させてあげることも多いのです」と言っているそうです。まさに、三歳になるかならないかの幼い子どもたちがです。

他者と遊ぶには協調性が要求されます。協調性とは、時として他者が望むことを行なうことを意味するとハリスは言います。協調性への誘いは、提案や要求といった形をとることがあるとも言います。研究によると、幼い女の子たちでは、成長するに従って遊び仲間への提案が増えつづけ、その遊び仲間が女の子であれば、その提案を従順に受け入れてもらえる可能性はますます高まります。ところが、その同じ時期に男の子たちは、提案を受け入れることに対してますます従順ではなくなります。特に女の子たちからの提案であればなおさらだと言います。他の男の子たちにはまだ耳を貸すことがあるのは、おそらくそうしたコミュニケーションが丁寧な依頼という形ではなく、要求という形をとるからなのだろうとハリスは推測します。こうした現象は実際に起きていると言います。しかも平均的な男の子と女の子の間で、体格的にも体力的にもほとんど差のない年齢から起きているのです。

幼い女の子たちが幼い男の子たちを避けるようになるのも、こうした理由からかもしれないとハリスは考えています。自分の提案に耳を傾けようともしない人や、「貸して」とも言わずにオモチャを引ったくってしまうような子どもと遊んでもおもしろくないでしょう。ところが、まもなくすると男の子たちもまた、女の子を避けるようにもなります。おそらく人形のおむつを換えるようなつまらない遊びをする人よりも、オモチャのトラックをブルルルルといわせるようなおもしろい遊びを好む人たちと遊んだ方が楽しいのでしょう。もしくは、こうしてお互いに避けるようになるのは、〈女の子〉と〈男の子〉という二つの対照的なカテゴリーへの分類とそれにより誘発される〈われわれ〉対〈彼ら〉感情による結果なのかもしれないとハリスは言います。

ジェンダー意識

遺伝的には男性ですが医者の過ちの積み重ねにより、男性器官が損傷を受けてしまったある人の話では、子ども時代からずっと違和感を感じていたと言うのです。エストロゲンが投与されはじめて胸が膨らみを帯びるようになっても、彼は自分が女の子であるとは思えませんでした。反対に、正常な男性器官をもち、男の子として育てられた人の中には、自分が男の子だと思えない人もいます。著述家ジャン・モリス、生まれたときはジェイムズ・モリスだった彼は次のように語っているそうです。

「何かの間違いで男の子の身体に生まれてきてしまったが、自分はほんとうは女の子なのだと気がついたのは、三歳の時だった。もしかしたら、四歳だったかもしれない。とにかく、その時のことはよく覚えていて、私の最も古い記憶となっている。」(竹内泰之訳『苦悩』立風書房)

このような子どもたちは、女の子たちからも男の子たちからも拒絶されやすいのです。彼らは「変わり者」とみなされ、また彼ら自身もそうだと思っています。まるで打ちこまれない、もしくは打ちこんでくれる人も現われない杭のようなものだとハリスはたとえています。とりわけ女っぽい男の子は苦労するようです。幼稚園時代を過ぎれば、男の子たちは彼らをいじめ、女の子たちも仲間に入れたがりません。彼らはしばしば、友だちもなく孤立したまま成長します。それでも彼らは社会化を果たします。彼らは自分たち自身で社会化し、しかも性別による社会化を果たすのです。ジェイムズ・モリスは自分を女の子としてカテゴリー化し、その結果、他人からは男の子とみなされても、女の子として社会化を果たしたのです。成人したジャン・モリスは、ジョアンの意志に反して施された手術と同じ手術を受けることを自ら申し出たのです。それだけ女性である自分が男性の体を借りて暮らすことが苦痛だったのです。

《チャイルド・ディヴェロップメント》に掲載された記事では、ある研究者がジェレミーという幼い男の子に関する実話を詳述しているそうです。ジェレミーはある日、髪の毛にバレッタをつけて保育園に行くことにしたそうです。両親はそれをおかしいとはまったく思いませんでしたが、同級生たちの意見は違ったようでした。特に一人の男の子がジェレミーの髪型をからかいつづけ、ジェレミーを女の子と呼びました。自分が女の子ではないことを証明するために、彼はズボンを引きずり下ろしました。「その男の子は驚きもしなかった」と研究者は述べているそうです。「その子はたんに、『おちんちんは皆がもっている。バレッタをつけるのは女の子だけ』と言っただけだった」

ジェレミーの同級生は現実的には間違っていましたが、論理的には正しかったのです。ジェンダー意識、すなわち自分が男の子であるか、それとも女の子であるかという意識は、その人に備わった性器の種類によって決まるものではないとハリスは言います。ましてや親が与えようとして与えられるものではないのです。ふたたび男性に戻ったジョアンを面接した心理学者ミルトン・ダイアモンドは、それは自分と仲間たちとを比較することによって形成されるのではないかと考えているようです。彼は、こう言っています。「子どもたちは自分を知り合いの男の子や女の子たちと比較し、『一方と私(ボク)は同じだ、他方と私(ボク)は違う』と判断する。心の中でどのように思っているのか何に関心があり、どのように行動したいのかに基づき、彼らは自分がいずれのカテゴリーに属するのかを決める。そしてそのカテゴリーにおいてこそ、彼らは社会化を果たすのだ。」

自分の属するカテゴリー

〈男性〉というラベルのついた分類がないために、幼い男の子たちは男の子とラベルのついた分類に自分の身をおき、大人の男性の行動にではなく、男の子たちの行動に自分の行動を合わせるようになります。だからこそ、父親がおむつを換える姿を見ている男の子でも人形のおむつを換えることほどひどいことはないなどと口にしますし、医者の母親をもつ女の子でも、男の子だけが医者になれて女の子は看護師さんになるしかない、などと言ったりするのだとハリスは言うのです。

こうして子どもたちは〈女の子〉、〈男の子〉というカテゴリーのデータを集め、それぞれの違いを見いだすのです。人から教えられたり自ら判断したりして、自分がどのカテゴリーに属しているのかを彼らは知っているのです。ほとんどの場合子どもたちは、自分の属するカテゴリーのメンバーをもっとも好み、自分の属するカテゴリーのメンバーたち、すなわち同性の友だちと遊ぶことをもっとも楽しく思うと言うのです。なぜなら、やりたいことがそれぞれ同じである場合が多いからだと言うのです。5、6歳にもなると、託児所や幼稚園の子どもたちの過半数は、男女のいずれかしかいない小さな集団で遊ぶようになります。遊び相手を選べる状況にあり、しかも大人がそれを許可すれば、このように分裂するようになると言うのです。もちろん以前にもハリスが述べているとおり、他に選択肢がなければ、子どもたちは遊べる相手と遊ぶのです。

集団社会化にとって最も重要な時期は学童期、すなわち6歳から12歳までの間だと言います。この間中、私たちの社会、すなわち遊び仲間となりうる候補者が過剰なまでに供給されている社会では、子どもたちは、自由な時間の大半を同性の仲間たちとともに過ごします。子どもたちは子どもとしてだけでなく、女の子として、男の子として、お互いを社会化しあい、自らも社会化を果たすのです。こうした性別に基づく社会化は、たんに同性とばかり行動をともにし同性をひいきめで見たことの結果ではなく、自己カテゴリーの一員として、男の子は〈男の子〉というカテゴリーの一員として自らをカテゴリー化し、今までその社会的カテゴリーに関して収集してきた情報をもとに、自分にとってふさわしい行動を割り出すのだと言います。彼らは生まれた日からそのための情報収集に努めてきたのだと言うのです。このような見解、整理のしかたは少し理屈っぽい気がしますが、面白いですね。

しかし、ハリスが論拠としているのは例外的なケースなのです。男女の一卵性双生児のケースについて考えてもらいたいと提案します。彼は自分が女の子であると言われつづけてきましたが、自分ではそうとは思えなかったのです。女の子たちが夢中になっていることに関心すらもてなかったのです。彼は自分の子ども時代を次のように振り返っています。

「幼い頃からうすうすとは感じていたのだ。それから自分が、自分のあるべき姿とどのように違っているかがわかるようになった。ところが、それが何を意味しているのかはわからなかった。自分は変わり者だと思っていた。自分の姿を見てはこんな服装は嫌いだと言い、与えられたオモチャも好きではなかった。私は男の子たちと一緒に木登りみたいなことをするのが好きだった。」

これは、遺伝的には男性だが医者の過ちの積み重ねにより、男性器官が損傷を受けてしまった人の話です。

統計データ

人間は、たいへん幼い者までもが、統計データの収集を得意としており、また統計的な違いを検出する能力にも長けているとハリスは言います。人間の心はそのようにつくられているのだからです。赤い果物は概して、緑の果物よりも甘く、子どもが赤い果物を緑のものよりも好むようになるにはさほど時間はかかりません。私たちは頭の中で、物事の違いをもとにカテゴリー別に分類し、さらにその違いを裏づけるものを集めつづけるのです。心はこうした機能を効率よく、自動的に行ないます。しかも意識することなく行なわれている場合がほとんどだと言うのです。

社会心理学者ジャネット・スウィムは、アメリカ文化の中で、男性と女性がどうステレオタイプ化されるかを調査したそうです。彼女は大学生に対して、いくつかの性格特徴において、男性と女性の違いの程度を推定するように指示しました。たとえば集団においてリーダーシップを発揮する可能性を数学的適性検査の成績、他人のボディ・ランゲージや顔の表情を理解する能力などでした。その後彼女は、それらのステレオタイプと実際に性差を測定した研究結果とを比較しました。その結果、ステレオタイプは驚くほど正確で、どちらかといえば、大学生はそれらの違いを過大評価するよりも過小評価する傾向にあったそうです。

しかしステレオタイプは必ずしも正確ではありませんでした。しかも男性/女性といったおなじみの集団ではない集団がかかわっている場合はなおさらだったそうです。ところが本当の危険性は、その不確かな点にあるのではなく、柔軟性が欠如している点にあるとハリスは言います。男性をリーダー的な役割につきやすく、他人の気持ちを読みとるのは苦手だと見ることは間違っていませんが、男性すべてがそうだと思うのは間違いだと言うのです。私たちは、集団Xのメンバー間の平均と集団Yのメンバー間の平均といった平均値同士の違いについてはかなり予測することはできても、集団内のばらつきを予測することは不得手だと言うのです。カテゴリー化はある社会的カテゴリーに属するメンバーたちを実際以上に似た者同士だと思いこんでしまいます。そしてこの傾向は自分の属さないカテゴリーにおいてさらに顕著となると言うのです。

生まれてからの数年間、幼い女の子も男の子もさまざまな人間カテゴリーに関するデータ集めに走るとハリスは言います。〈大人〉と〈子ども〉、〈大人の女の人〉と〈大人の男の人〉、〈女の子〉と(男の子〉。公式なデータに基づいているわけではありませんが、幼い子どもたちが頭の中で、〈女性)、(男性〉というカテゴリーをもっているとは思えないと言います。女の子と大人の女性が両方とも含まれているカテゴリーや、男の子と大人の男性が含まれている別のカテゴリーをもっているとも思えないと言うのです。子どもたちにとって、大人と子どもはまったく別の種なのです。それはまるで牝牛とめんどりを、雄牛とおんどりをいっしょくたんに扱うようなものだと言うのです。子どもたちは、頭では、男の子もいずれは大人の男の人になる、女の子は大人の女の人になることを理解しているかもしれませんが、それは誰かに教えられるか、論理的に導き出すしかありません。彼らにとってその事実は、わかりきったことでもなく、自分に当てはまると思えることでもないと言います。どうにか信じられる程度だと言うのです。

ステレオタイプ

赤ちゃんは男性にも女性にもなれる可能性をもっており、男らしい行動や女らしい行動はすべて文化的に養われるものだという考え方を普及させたのは人類学者マーガレット・ミードです。色眼鏡を通して物事を見るという彼女の癖を物語るもう一つの例ともいえるものをハリスは紹介しています。

彼女はニューギニアのある部族、チャンブリ族を、男性は女性的に、女性は男性的に行動しているかのように著わしたそうです。従順で不安げな男性と、強く偉そうに振る舞う女性。人類学者ドナルド・ブラウンによると、ミードは誤った解釈をしていたと言います。実際にはチャンブリ族の間では、「一夫多妻制が当たり前で、女性は買われて男性の妻となり、男性は女性よりも強く、女性を殴ることも許され、男性が主導権を握ることは当然だと思われていた」と言っています。

私たちが知りうるあらゆる社会では、男性と女性とでは行動様式が異なります。その違いはアメリカよりも他のほとんどの社会の方が顕著だろうとハリスは言います。さらにその違いのパターンは万国共通だと言います。男性は権力を掌握し、影響力のある地位に就くことが多く、女性は他人の世話に従事することが多いと言います。男性は狩猟民であり、戦士です。女性は採集民であり、養育者です。男の子も女の子がいなければ、子守りを強いられますが、子守りは女の子の方が向いているという認識は万国共通です。女の子は競って赤ちゃんを抱きたがりますが、男の子はそこまで関心を示しません。あるイスラエル人の研究者は、調査対象の家庭では、多くの親が息子にも人形を与えていたと報告しています。ところが、男の子に与えられた人形はおむつを換えられることがなかったそうです。それどころか、その若き所有者たちが「人形を踏みつぶしたり、ハンマーのように家具に叩きつけていた」様子を、研究者たちは目撃しているそうです。

世界中の人々が、男性と女性に関する似たようなステレオタイプをいだいているのは偶然ではないだろうとハリスは言います。社会心理学者ジョン・ウィリアムズとデボラ・ベストは多種多様な25カ国の大学生に対して質問用紙を配り、それぞれの性別に関して使われることの多い形容詞に印をつけるよう依頼しました。その25カ国すべてにおいて、男性は攻撃的、活動的、無謀、強靭といった形容詞との関連性が高く、女性は愛情豊か、慎重、感受性豊か、さらには感情的といった形容詞との関連性が高かったそうです。

ステレオタイプという単語はよい意味では使われない場合が多いと言います。この語は偏見を連想させ、人をあまりに単純に、間違った論拠から判断してしまうことを指します。ところがウィリアムズとベストは、ステレオタイプについて「本質的には他の一般化と変わりはない」としています。彼らの見方では、「ステレオタイプとは、人の集合体に関する一般化にすぎず、それは必ずしも好ましくないものでもない」と言います。私たちは他の集団に関してだけでなく、自分の所属集団に関してもステレオタイプをもっており、自分の所属集団のステレオタイプには概して肯定的です。それは他集団よりも自分の所属集団を好意的に位置づける傾向の結果であるとハリスは以前に述べています。

性の決定

ハリスは、担当した教科書の初版で「一体それがどうしたというのだろうか」と述べています。幼い女の子でおてんばな子は珍しくはありません。それでもそのほとんどは自分が女の子であると自覚し、自分の性別についてはなんら疑いをもっていないのです。ハリスが、そう書いたとき自分の幼い頃を思い描いていたそうです。なぜなら、彼女もおてんばだったからです。性転換を受けた双子の一人のように、彼女も力があり余っていて、頑固だったそうです。性転換を受けた双子の一人と違っていたのは、私は髪の毛をいじられることが嫌いで、上品とは縁遠かったことだと言います。それでも男の子になりたいなどと思った記憶はないと言います。母親になりたくて、それまでの間、自分の母性をペットや人形に注いでいたそうです。人形のおむつを換えることなど、何の問題もなかったと言います。

「男女の一卵性双生児のケース」は第三版まで掲載されたのですが、その最後の版のときには、明らかにハリスは疑いをいだくようになっていたと言います。その頃には、「社会的影響や学習にも限界がある」と自分でも認めるようになっていたと言います。それでも「一貫して女の子であるように扱われれば、女の子になれる」という考え方をどうにか維持できていたと言います。

ハリスは、今ではその教科書で述べたことの多くを正しいとは思っていないと言います。その中の一つが、人々が女の子のように扱えば、その子は女の子になる、というくだりだと言います。そうなる場合もあるでしょうが、皆がそうなるわけはなく、おそらく、ほとんどの場合、そうなることはないだろうと考えています。この男女の一卵性双生児の場合も、結果として、彼は性の変化に順当には適応できなかったそうです。1997年の医学誌に掲載された記事がその真相を暴露したそうです。その子は結局、女の子として適合することはできず、女性であることが常に苦痛だったそうです。それでも親も医者も彼は女の子だと言いつづけました。その彼の怒りと苦しみが限界に達したのは、彼が14歳のときでした。彼は人生に絶望し、自殺を図ったのです。その時点でようやく両親も、隠されていた過去を、彼は男の子として生まれたのだということを彼に話しました。彼は、こんなことを言っています。

「突然、目の前が明るくなったような気がした。はじめて、あらゆることが納得できるようになり、自分が誰で何者であるかがわかったような気がした。」

女の子になることをやめ、ふたたび男の子となったのです。もとの性への転換は彼の高校の同級生には隠すことなく行なわれました。それまでの彼の女離れした行動がすでに嘲笑の対象になっていたため、それ以上彼のおかれている状況が悪化することはなかったからです。実際、状况は改善しました。彼の仲間たちは女性としての彼よりも、男性としての彼を認めてくれました。25歳で数歳年上の攵性と結婚し、養子縁組により、彼女の子どもたちの父親となりました。

ドミニカ共和国のある片田舎では、時折、遺伝的には男性ですが外見上女性として生まれてくる突然変異が現われます。思春期になるとテストステロンが急に分泌され、男性的な特徴が現われるのです。声が太くなり、肩幅が広くなります。さらに大きめのクリトリスだと思われていたものが小さなペニスへと発達します。研究者たちは女の子として育てられた18名について調査を行ないました。体が外見上男性化したとき、一人を除く全員が女性から男性へと性を転換し、女性的な名前と今まで養ってきたアイデンティティを放棄する決断をしました。彼らは女性と結婚し、男性的な職業に就きました。男女の一卵性双生児のケースがドミニカのケースと異なるのは、その原因が生まれによる異常ではないという点だとハリスは言います。彼の場合、過ちを犯したのは、幼い少女はペニスと精巣のない幼い少年のようなものだと思いこんでいた医者や心理学者だったのだと言います。

男女の判断

昨日紹介した実験は、赤ちゃんとは本来同質のものですが、デイナやデイヴィッドといった名前をつけられ、その後違った扱いを受けるために、男の子は男の子のように、女の子は女の子のように育つのだということを立証するはずでした。ところが、その16年後、別の研究者二人が多少違った実験を実施しました。一人ではなく、数人の赤ちゃんの様子をフィルムにおさめ、それを大学生に見せて登場するすべての赤ちゃんについて判断してもらったのです。フィルムには赤ちゃんの性別を示すような手がかりは何一つなく、名前もつけられていませんでした。そのような状況にもかかわらず、おしなべて女の赤ちゃんの方が、感受性が強く、男の赤ちゃんの方が元気がいいと判断されたのです。もし12名の健康な赤ちゃんを借りてきて、男女の見分けのつかない洋服を着せ、「ジェイミー」や「ディル」、さらには「ヤンツェン」などと呼び、道行く人にその赤ちゃんの性別を推測してもらったとしても、おそらく半数よりずっと多くの人が正しく言い当てることができるだろうと言います。

ハリスが担当して1984年に出版された児童発達に関する教科書の初版には、「男女の一卵性双生児のケース」が付録として掲載されていたそうです。それはジョンズ・ホプキンズ大学のジョン・マネーとアンケ・エーハルトによるレポートに基づいたものだそうです。マネーとエーハルトは、一卵性双生児の男の子をもつ親のカウンセリングを担当することになりました。その双子のうち一人は、残酷な不幸に見舞われていました。生後七カ月のときに受けた包茎手術の失敗が原因でペニスが損傷を受けてしまっていました。両親は田舎生まれで、小学校までの教育しか受けていませんでしたが、彼らには無傷な息子と、一点を除きあらゆる点でその子とそっくりな息子がもう一人いたのです。その一点とは、ペニスが欠損していることだったのです。

医者は両親にペニスを再生する方法はないと告げました。次善策は負傷した双子の一人を女の子として育てることだとも告げていたのです。その子の精巣を摘出し、男性ホルモンの分泌源を取り除くことを医者は勧めました。思春期にエストロゲンを投与すれば、女性的な体つきになれるはずだと言ったのです。

両親は数カ月思い悩んだ末、その子が生後17カ月のときに決断しました。男の子は精巣を除去され、外見的には女性の外性器と同じになるよう再生手術が施されました。女の子の名前がつけられ、それ以降、女の子の服装が着せられ、女の子として扱われました。

マネーとエーハルトの報告によると、両親は心からその子の新しい性を受け入れている様子だったそうです。心理学者はその後数年の間に母親から何度か話を聞いていましたが、彼女は常に双子のうち、一人は男の子で、もう一人は女の子であるとはっきり意識していました。ハリスの担当した参考書の付録には、その母親の言葉が引用されているそうです。

「彼女は(双子の兄よりも)上品なように思います。それは私がそうなるよう心がけたからかもしれませんが。…とにかく髪の毛を整えてもらうのが好きなのです。そのためには1日中ドライヤーを当てられていても平気なくらいです。」

子どもも親も変化に順当に適応しているようには見えましたが、マネーとエーハルトは、さほど重大ではないものの、いくつかの問題点を指摘していました。「その女の子はとてもおてんばだった。たとえば、力があり余っていたり、たいへん活発であったり、頑固でもあり、女の子集団の中でも支配的であることが多かった」と彼らは報告しています。

染色体に見る男女差

ヒトゲノムの46本の染色体のうち、45本までは性別に関係なく、男女両方に備わっているものだそうです。46本目がいわゆるY染色体であり、「Y」はその形状に由来しています。Y染色体は男性にしかありません。人間のもつ染色体のうち、最も小さい染色体の一つです。

ハリスは、自然は倹約家であると言います。別の目的で、若干の修正を加えつつ再利用できれば、はしめから作るより安上がりです。そのため生命体は、モーツァルト流に言えば、「サリエーリが繰り返しを多用して曲を書くように」組成されていくのだと言うのです。左右対称な生命体は左右それぞれのために異なる遺伝子が必要なわけではありません。反転させ、反対側でも同じ作用を引き起こすよう、指示すればいいのです。

男性と女性が45本もの染色体を共有するのは、複製するほうが変化を加えるよりも安上がりだからです。男女差はすべてその小さなY染色体上にコードされ、もしくはそれによって引き起こされているのです。他の部分の遺伝子には、男女ともに同じ指示が組みこまれています。男性の腎臓と女性の腎臓、男性の眼と女性の眼はともに同じはたらきをします。骨はすべて同じように結合し、ヘモグロビンは同じように調合されます。必要性もないのに、男性にも乳首があるのは、変化を加えるよりも複製するほうが楽だからだそうです。男性にエストロゲンを投与すれば胸が膨らむとハリスは言います。

自然は倹約家なので、重要な違いをもたらすもの、すなわち私たち人類が進化を遂げた環境にとって重要であったものだけがDNAにコードされます。私たち人類が進化を遂げた環境に重大な影響を及ぼしたその変化だけだと言われています。どのようなものであるかというと、男性にはあるが、女性にはないものであり、男性もしくはその近縁が生き残り、繁殖する可能性を高めるものです。もしくは女性にはあるが男性にはないもので、女性もしくはその近縁が生き残り、繁殖する可能性を高めるものです。

男の子と女の子では、相違点よりも類似点の方が多いのですが、異なる点もあるにはあるそうです。その中で明らかな違いがあるのは、産科医、もしくは超音波技師が昔ながらに「男の子ですよ」とか「女の子ですよ」などと宣言する前に確認する部分だと言います。さほど明確ではない違いもあるそうです。誕生時では一般的に男の子が女の子よりもわずかだそうですが、大きく、筋骨がしつかりしています。外からではまったく見えない違いもありますが、それはまだ赤ちゃんの頭の中に留まっているからです。

1970年代に二人の研究者が実施した有名な実験では、男女の見分けのつかない洋服を着て、同じく男女の見分けのつかないオモチャで遊んでいる生後九カ月の赤ちゃんの様子をおさめたフィルムを、大学生に見せました。学生のうち、何人かには赤ちゃんの名前はデイナだと告げ、残る学生には名はデイヴィッドだと告げました。その赤ちゃんを女の子だと思ったか、男の子と思ったかによって、そのフィルムを見た大学生たちは赤ちゃんについて違った判断をしたそうです。デイナだと思った学生たちは、赤ちゃんは感受性が強く臆病だという印象を、デイヴィッドだと思った学生たちは強くて大胆だという印象をそれぞれ得たそうです。もちろん同じ赤ちゃんに対する印象なのです。

性差別

次の歌はハリスの友人の6歳になる娘さんがサマーキャンプで覚えてきたものだそうです。

「男子は木星でますますバカになり、女子は大学でますます賢くなる。男子はビール飲んでふらふらになり、女子はペプシ飲んで色っぽくなる。あ~頭にきちゃう!男の子なんて大嫌い!」

このように性差別があからさまになると、普通は親や教師、もしくは文化全体の責任とされます。ところが、大人社会の方が子ども社会よりも性差別色が薄ければ、かかる影響は大人が及ぼしているものではないのではないかとハリスは考えます。そうです、かかる影響を及ぼしているのは大人ではないのです。子どもたち自身なのです。

しかし、このような主張は、当時の考え方に逆行ものだったのです。当時は、子育て神話の威力はあまりに絶大だったのです。ハリスに賛同する人は、心理学の専門家の中にも、レジの前で並んでいる人の中にもまずないだろうとハリスは言います。ところが、男らしさ、女らしさの発達のことになると、とたんに流れに逆らって泳いでいるのはハリス一人ではなくなると言います。男の子の男らしさも、女の子の女らしさも、親と共有する環境ではなく、それぞれが仲間たちと共有する環境によって形づくられるものだと言っても、それはなんら新しいことではないのです。ハリスがこのようなことを主張を述べる前に彼女と同じような結論に達した者がいたそうです。その中には心理学者もいたそうです。

彼らがそのような結論に達したのは、この分野の発達の責任を親に押しつけようとしたものの、ほとんど実を結ばなかったからなのだと言います。親は男の子と女の子では扱い方を変えるのでしょうか。アメリカでは、変えないと言います。少なくとも重要な部分では扱い方に差はないといいます。アメリカの親は男の子も女の子も同じだけ気にかけ、同じだけ励ましの言葉をかけます。すなわち男の子も女の子も同じようにしつけていると言います。どこにでも見られる唯一の違いは、子どもたちに課す日課や、買ってあげるオモチャや洋服なのです。さらに、こうした違いは子から親への影響と、考えられます。すなわち、息子と娘の違いの原困ではなく、その違いへの反応なのだとハリスは考えています。確かに親は息子にトラックを、娘には人形を買い与えますが、それは子どもたち自身が欲しがったものかもしれません。

男の子は父と、女の子は母親と自分を同一視することによって、自分がどう行動すべきかを漠然と頭に描くようになるとフロイトは考えました。ところが、残された証拠はフロイト説を裏付けるものではありませんでした。男の子の男らしさや女の子の女らしさは、同性の親のそれとはなんら関連性はなかったのです。父親のいない家庭で育った男の子は、そしてレズビアンたちが率いる家庭で育った女の子は、従来通りの男女一人ずつを両親としてもつ男の子や女の子に劣らず、男らしく、また女らしいのです。

子ども時代の中でも形成期にあたる時期においては、女の子は他の女の子に、男の子は他の男の子にますます似るようになります。乱暴だった女の子は乱暴さが影をひそめ、瞳病だった男の子は大胆になります。男女差はさらに拡がっていきます。重なるベル・カーブが引き離され、重複簡所が少なくなるのです。同一視する対象は親ではないのです。同一視する相手は他人の中でも自分と類似している者、他の子どもたちなのだとハリスは言うのです。

男女の刷り込み

子どもたちは何もないところからでも文化を築きあげることができますが、大概そうはしません。伝統的な社会では手っ取り早い代替策もなく、それを探す必要性もないことから、子ども文化は大人文化とそっくりになるとハリスは言います。こうした伝統的社会においてでさえ、子ども文化には大人文化にはない要素、たとえば、ニャンソンゴ族の子どもたちが使う卑猥な表現などが含まれます。子ども文化も大人文化と同じ理屈で存続していると言うのです。その集団に新たに加わったメンパーが先輩から学ぶのです。これは子どもの最大の強みである柔軟性と想像力とを最大限に活用した巧みな方法だと言います。大人文化が正常に稼働していると見れば、子どもたちはその中の気に入った部分を自分たち自身で取り人れるのです。ところがもしそれがやぼったく、古くさく、その役割を果たしていないと見れば、子どもたちはそれにこだわることなく、新たな文化を築くのです。

「こんなひでーこと、今までやったこともねえよ」とは七歳の男の子が研究者たちに発した言葉だそうです。彼は父親を殺したわけでも、母親と過ちを犯してしまったわけでもありません。赤ちゃんの弟を窓から放り投げたわけでも、家に放火したわけでもありません。ある実験でビデオカメラの前で役を演じていただけ、研究者たちの指示に従い、言われたとおりのことをやっていただけだったのです。それが人形のおむつを換えることだったのです。

研究者たちはまた、七歳の女の子にもオモチャのトラックで遊んでいる姿を撮らせてほしいと頼みましたが、彼女はさらに頑固でした。「ママはこれで遊んでほしいと思うだろうけど、私はイヤだわ」と答えたのです。

この子どもたちは一体どうしてしまったのでしょうか。親は自分の子どもに男女ともに使える名前をつけ、男女兼用の服を着せます。娘にはトラックの連転手にもなれると伝え、息子には人形で遊ぶのは間違ったことではないと伝えます。さらに私たち自身もよきお手本であろうと心がけています。北米やヨーロッパでは父親がおむつを換えることも、母親がマニュアル車を運転してギアを入れ換えるのもめずらしいことではないのです。

それにもかかわらず、私たちの息子や娘たちは、こうした古くさいこだわりをもちつづけているのです。大人たちの考え方は変わっても、子どもたちの考え方は依然変わりません。過去100年の間に、大人文化は常に人類平等主義へと傾倒しつづけましたが、子どもたちの間では依然として、これ以上ないほど性差別色が濃いのです。

ここでハリスはこう付け加えています。ハリスは、女の子と男の子は同じように生まれてきたとは思っていないそうです。両者は元来違うものなのだと思っていると言います。ところが、七歳の女の子と七歳の男の子との間で見られる違いは、生得的なものだけではないと言うのです。男の子は生まれつき人形のおむつ換えを嫌悪するわけではありません。また女の子は生まれつきトラックが嫌いなわけでもないのです。

性差は10歳になるまで拡大しつづけると言われています。男女間のあからさまな敵対心もまた然りです。男の子は「女子立人禁止」の札を立て、女の子もその団結心を隠そうとはしません。