集団性

社会心理学者へンリー・タジフェルは、こんな実験をしてみたそうです。お互いに面識のある14歳と15歳の生徒たちを二つのグループに分け、「視覚判断」テストをしました。その後、結果によって、二つに分けられたのですが、その振り分けは無作為に決められたものでした。ドット・テストの結果はなんら関係なかったのです。

このニセ情報を与えられた後が本当の実験でした。少年たちはそれぞれ独立した小部屋に座らされ、配布された「報酬表」を記人するよう指示されました。何人かのクラスメートに関して、本実験に参加した報酬としていくらが妥当かを判断するのです。クラスメートは番号と属するグループだけで表記されています。たとえば、自分は過大評価グループに属すると知らされた少年は、「61番、過大評価群」、「74番、過小評価群」にはそれぞれいくらが妥当か、複数の選択肢から選ぶことになります。そこで選択した数値は自分自身の報酬にはいっさい影響せず、そのことは手順の説明時にもはっきりと告げられていました。

少年たちには、どの同級生が自分と同じ群で、どの生徒が別の群なのかはわかりませんでした。自分が報酬金額を査定しようとしている相手が誰なのかわからないのです。それにもかかわらず、彼らは自分の属する群の他のメンバーの方により高い金額を指定したそうです。別の群のメンバーには低く見積もり、自分と同し群のメンバーには高く見積もる傾向が認められたそうです。

この実験はタジフェルの言う「集団性」がいかに簡単に生起するかを示しています。同じ集団のメンバーと以前から友好関係にある必要もなく、また別集団のメンバーと以前から葛藤関係にある必要もありませんでした。争奪しあう領地も必要ありません。容姿や行動に目に見えるような違いがある必要もありません。誰が自分と同じ集団に属しているのかを知る必要もありません。タジフェルは最後にこう締めくくっているそうです。「明らかに、差別的な行為を誘発するには、集団に分けるということだけで十分なのです」

研究者が介人する間もなく、人間は瞬時にいくつかのグループに分かれます。ラトラーズをロバーズ・ケイヴのキャンプ地に送迎するはずだったバスが、ある乗車地に遅れて到着しました。その乗車場所で30分近く待たされた4人は、バスが到着したときにはすでに集団性らしきものを養いつつあったそうです。バスの中でも隣同士に座り、キャン。フでも「俺たち南町チームは一緒でいいですか」と頼んできたそうです。南町チームと残りのメンパーたちは、ガラガラへビとの遭遇やテント設営に力を合わせなければならなかった経験を経て、ようやく数日後にまとまりを見せたそうです。

『蠅の王』で合唱団がはじめて登場した場面では、彼らはジャックを先頭に列を成して行進していましたが、皆「銀色のバジのついた四角い帽子」をかぶっていました。島に流れ着くことになった飛行機事故が発生するまで彼らが通っていたのはおそらく上流階級向けの全寮制の学校だったに違いありません。1950年代には、そのような学校に通うのはまさに鼻もちならない生徒ばかりでした。彼らは言葉の訛りや学校指定のネクタイや帽子などでお互いを認識し、地元の公立小学校に通う少年たちを見下していました。ところがゴールディングの架空の島では、階級別に少年たちが分かれることはありませんでした。同じ学校に通う者同士でさえ行動をともにしませんでした。島に漂着する以前の生活の痕跡はきれいに消え去り、同じ合唱団のメンバーも二度と声を合わせることはなかったのです。

集団性” への9件のコメント

  1. 「明らかに、差別的な行為を誘発するには、集団に分けるということだけで十分なのです」こう客観的に情報を得て、その当事者になった時にはこのようなことをしたくない、このようなことにならないといいというような気持ちが沸くのですが、面白いことに、こと熱中しているものにその題材があったりすると、それに興味のない人やそれとは反対の思想をもっている人と、無意識下で明からな線引きをしていることに気付かされます。相手の思想を認めながら、共感できるところを探し合いながら、より良い進歩が互いの集団にあれるようこういった学びを活かしていかなくてはと思います。

  2. 集団、グループは、属する人々にとっては、快適であり、善であり、正義です。属さない人々にとっては、不快であり、悪であり、不正義です。やはり、今日も「われわれ」と「かれら」という構図を思い浮かべるのです。身内は何が何でも守る、はそうでない者はその守備範囲にはない、ということに繋がります。私たちは一人では生きられない。どこかの集団に属してしか生きられない、と私たちは無意識のうちに思っている。しかし、属すべき集団は恒常ではない。変わっていきますね。これまで幾度となくこのことを経験しました。子どもたちの世界もそうでしょう。さまざまに忖度する私たち大人とは違い、結構シビアに「われわれ」と「かれら」という関係を意識するのではないか、そんなふうに思われます。だから、いじめの構図が出来上がる。子どもの世界だけではありません。大人たちの世界は、ある意味で、もっと辛辣な形で差別区別を互いにしてしまうのかもしれません。複数の集団が存在するならば、そこには差別・区別は必然なことなのでしょうか。差別・区別がなくなる時、それは集団で暮らすホモ・サピエンスの終焉の時?なかなか難しい問題です。

  3. 集団を形成する理由や定義というものは、実は非常に単純なものであるということを感じました。それだけ人は集団性に長けており、また依存しあうことを求めているのでしょう。この世の中は、様々な集団が存在し、それらが複雑に絡み合って社会というものが形成されているということであり、それはある意味で奇跡的なことにも思えてしまうます。一つの集団であっても、それを細分化すれば色々な集団がひしめき合っているということなのですから、多くの人が集り一枚岩となって行動すること、統率をとるということの難しさをひしひしと感じてしまいます。

  4. 人間は集団を形成し、その中で生きていき、属していないものを排除しようと努めますが、その集団の定義やなぜ形成されたのかという理由は単純なものであるということなんですね。例えば、なぜ人間は空気を吸わないと生きられないのか、水を飲まなければ死んでしまうのか、などを考える前にその行為を行って生きていますが、それと同じくらいに人間にとって集団というのは必要なことであるということを感じました。
    ですが、それゆえのもろさというか〝明らかに、差別的な行為を誘発するには、集団に分けるということだけで十分なのです〟とあり、人間同士の争いの引き金ともなり得ることを自分たちは知っておいて、考えていかなければならないのだと思いました。

  5. この実験が進んでいくにつれて見えてきているものに「集団性」があり、そして、人は同じ境遇にいる人、であった人、共になにかをする人に対して親近感、つまり、”われわれ”と”かれら”という認識がでるような状況になることが、人の持つ敵対感情がうまれるということであり、そのなかで、”「明らかに、差別的な行為を誘発するには、集団に分けるということだけで十分なのです」”という分ける、別になるということで集団が二つになることに、人の心が動くことがわかります。考えると、これは、生存競争においてはなくてはならない感情なのかなともおもいました。

  6. 「差別的な行為を誘発するには、集団に分けるということだけで十分なのです」この言葉はある意味、ショックを受けました。実験結果から見ても納得できる言葉ですが、ただ集団を作り出すだけで、自然と差別を誘発してしまう。小学校の時を思い出して見ましたが、同じ学年でクラス対抗で何かをすると競争心が生まれ、相手の穴を見つけたり、何かとケチをつけたり、結果的に差別的な行為を誘発していたような気がします。だからこそ互いを違いを知る、多様性を理解するというのは本当に大切な事のような気がします。子どもたちが日々、遊びを選択し好きな事をやるという裏には、子ども達自身も相手の好きな事を知れるという事もあるような気がします。そこから共感が生まれ、他を知る事で違いを理解し、合わせたり、合わせてもらったり、そんな経験を子どもたちはしているのかもしれませんね。

  7. 「明らかに、差別的な行為を誘発するには、集団に分けるということだけで十分なのです」というところが印象として残りますね。高校生になったときに隣の男の子と話す機会が多くなると無意識的に他の知らない人よりも仲間意識というのは出ていたかもしれません。ただ、高校生でも時間が経てば近くにいた人よりも気の合う子が自然と集まって集団を形成した気がします。話が逸れてしまいました。最後にある架空の島では階級も元合唱団でも声を合わせることがなくなったというのはなぜでしょう。限られた人になるとまた違った作用が生まれるということでしょうか。

  8. 「明らかに、差別的な行為を誘発するには、集団に分けるということだけで十分なのです」とあります。このことを受けて、一番最初に思い浮かんだのが、東日本大震災での風評被害です。原発の影響などで、引っ越してきた人に対して、冷たい目線があるということが一時期ニュースになっていました。特に日本人の場合はこの手の集団心理は強いように感じますが、これも県という集団に分かれたことで起きたことのようにも思います。様々な差別問題において集団というものがその入り口にあるということはあるのだろうと思います。「上位目標」ということがこれまでのブログに出ていましたが、これらの様々な問題は今の時代では社会問題として取り上げることが「上位目標」としてあることで認識が変わっているように思います。しかし、それにしても人の集団心理と刷り込まれた先入観は拭うのは難しいということを感じます。

  9. 人は自然と「まとまりたくなる」ものなのかなということを感じました。集団になるために、共通項を探し出しているようです。それは本当に些細なことでもかまわないのですね。私たちはすぐに集団になりたがる、群れたがるというのは、集団にならないと、群れないと安心して過ごせない、生きていけないということを感じるからなのかもしれませんね。あまり面識のない人と会話をしていてもそうですが、どこかお互いに共通な部分を探すような会話を行なっているように思います。「明らかに、差別的な行為を誘発するには、集団に分けるということだけで十分なのです」ともありました。別集団というのは自分たちとは違うくくりになるわけですから、一つの集団になろうという意識にはなりにくいのかもしれませんね。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です