言語の役割

言語が担う役割の一つに、他人の頭の中につながる直通電話線の役割があると言われています。とはいえ、心の理論は電話線からはじまるのではありません。心の奥底を映し出す窓である目からはじまるのだとハリスは言います。人が何を考えているのかを察知する能力は生まれて間もない頃にはじめて親と目を合わせたときから育まれることがわかっています。赤ちゃんは生後六週間くらいで親と目を合わせるようになるのです。正常な赤ちゃんであれば生まれて間もない頃から見られていることに気づくので、その能力は生得的なものだと考えられています。赤ちゃんは母親と目が合うと微笑み返しますが、あまり長い時間母親に見つめられると、顔を背けてしまいます。目を合わせる時間が長くなると赤ちゃんは落ち着かなくなるのです。

はじめての誕生日を迎える頃には、相手が自分以外を見ているときにその人が何を見ているかを察することができるようになると言われています。未知のものを見る母親の表情を観察することによって、赤ちゃんはその物体に手を伸ばしていいのか、それとも避けるべきかを判断します。もし母親が心配そうな表情を見せれば、その物体を避けるようになるのです。見知らぬ人と話す母親の表情を見ることによって、その人が敵か味方かを判断するのです。もし判断がつかないうちに見知らぬ人に長く見つめられると、おそらく赤ちゃんは顔を背けるでしょう。その段階で見知らぬ人が赤ちゃんを抱き上げようとすれば、赤ちゃんは抵抗し、恐怖で泣き叫ぶことになります。このことは、私は以前講演でよく話しました。社会的参照ともいえるもので、自分自らの体験が少ない赤ちゃんにとって、そのものへの判断は、信頼している人の視線、表情から判断するのです。これは、子どもの食の好き嫌いに関してもいえます。子どもにとって、そのものがおいしいのかまずいのか、というよりも安全な食べのものか、危険な食べものかを、信頼する人が食べた時の表情を見て判断していると言われています。たしかに、それは、他人との会話かもしれません。

一歳半ともなると、母親がある単語を発するときに何を見ているかを幼児は観察するようになります。母親の発した単語が母親の見ているものを意味しているのだろうと幼児は推測するのです。自分が何かを指さしたときに、母親がそれを見たかどうかを確認するようにもなります。あるものに相手の注意を向けようとしてそのものを指さす習性は人間に特有のものだということは、再三ブログでも紹介しました。サルの環境で育てられたチンパンジーにはこのような習性は見られません。人間の環境で育てられたチンパンジーにさえ、この習性はほとんど見られないそうです。幼いチンパンジーに手話を教え、それによる意思疎通が可能かどうかを調べた心理学者ハーバート・テラスは次のように述べています。

「ある物体に対する幼い赤ちゃんザルの反応で明らかに欠けていたのは、人間の乳児がある物体を熟視し、それを知覚的に親と共有したときに見せる至福の表情である。赤ちゃんザルが別のサルや親の代わりを務める人間に対してある物体を認識したということだけを伝える習性がサルにも存在することを示唆する証拠は何一つない。」

言語の役割” への4件のコメント

  1. 「心の理論は電話線からはじまるのではありません。心の奥底を映し出す窓である目からはじまるのだとハリスは言います。」目の重要性に改めて気づかされます。0歳児クラスを担当した時も、仰向けでいる子にハイハイで近付く子が何気なく目を触ろうとする姿を何度も見ました。お互いに目を合わせて見つめ合ったり微笑みかけたり、そして笑いあったりとしていく様子を見て、言葉ではない会話、対話が行われているのだろうと感じたことを思い出しました。

  2. 言葉を発することのできない赤ちゃんはまさに目を使って意思疎通や会話を行なっているということを、1歳になったばかりの我が子の姿からも感じることができます。よく言われる相手の目を見れば何を考えているのかがわかるというのは、目が心の奥底を映し出す窓であるからこそですね。赤ちゃんの目を見つめる、または逆に見つめられて心がほっこり暖かくなるのは、赤ちゃんの無垢で純真な心に触れているからなのでしょうね。ただし、目を合わせる時間が長くなると赤ちゃんは落ち着かなくなるのですともありました。それは心の中を見透かされると思うからからなのでしょうか。だとしたら、私が人と目を合わせるのが苦手なのも説明がつきそうです(笑)

  3. 確かに、赤ちゃんをじっと見ていると、目が合った途端、赤ちゃんが私から顔をそむけるか、ぎゃぁと大泣きします。大泣きされると、流石に、ごめん、ごめんと思い、私はその場を立ち去ります。なんとも迷惑な大人ですね、私は。「目は口ほどにものを言う」と言われます。当ブログでもこのことに関連する内容がいくつかありました。赤ちゃんの世界はまさにこれなのでしょう。私たち大人世界でもこのことは言えます。「信頼する人が食べた時の表情を見て判断している」のは何も赤ちゃんだけではないでしょう。赤ちゃんではないヒトにも仲のいい友達がおいしそうに食べていれば、食べみるということはあります。逆に、まずそうな表情、苦虫を嚙み潰したような表情をされると、その食べ物に手を伸ばしていいものやら・・・となります。私たちは事あるごとに共通理解を求めたくなります。このことの源は「自分が何かを指さしたときに、母親がそれを見たかどうかを確認する」、この辺から始まっているのかもしれません。

  4. 赤ちゃんが持つ心の理論から視線や見つめるということにつながり、今回の題名である「言語の役割」にどのようにつながっていくのか、と思いながら読み進めていましたが、社会的参照である「信頼している人のことを見て学ぶ」ということから会話へとつながることに「なるほどな」と感心してしまいました。
    言葉が話せなくとも、自らが持っている能力を最大限に駆使してする会話、対話は生きていく術でもあることを感じさせます。と同時に懸命に生きている赤ちゃんに尊いものを感じました。

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