生まれる感情

こんな実験をしてみたそうです。以前の面識はない22名の少年たちを二つのグループに分け、それぞれ別々に、キャンプへと送られました。少年たちは自分たちで名づけた「ラトラーズ」と「イーグルズ」の二つのグループの存在をお互いに知らされていませんでした。一週間が経ったところで、それぞれの存在を知らせて競争心をあおり、その結果を観察することになっていました。ところが、少年たちは研究者のはるか先を進んでいたのです。なんと、両集団がお互いに直接遭遇する前から両者は敵対心を露わにしたのです。はじめてラトラーズが、イーグルズが遠くで遊んでいる声を耳にしたとき、彼らは「あいつらを打ち負かしてやりたい」と思いました。そして少年たちはしきりに直接対決を望みました。大人たちの介人なしに少年たち自身に生まれた感情です。研究者たちはスケジュールどおりに事を進めることに必死で、介入する暇もなかったのです。「第一段階」は集団内行動についての調査になるはずで、集団間竸争は「第二段階」で調査する予定だったのです。

第二段階で用意されていたのはサマーキャンプではよくある行事ばかりでした。両グループ対抗で野球、綱引き、宝探しなどを行ない、賞品を競います。指導員たちはまさに本物の指導員のように振る舞いました。ただし、できるだけ目立たぬよう、必要なときにだけ介入するよう心がけました。事態はまもなく一気に進行します。両グループがはじめて野球大会で公式に顔をあわせたときから、ラトラーズとイーグルズの間で中傷合戦が繰り広げられたそうです。ゲーム開始前にラトラーズが自分たちの旗を野球場に掲げました。野球場全体が「われわれのもの」であることを主張したかったのです。試合後、負けたイーグルズはその旗を引きずり降ろし、燃やしてしまったのです。ラトラーズは憤激し、まもなく指導員たちが止めに入ったそうです。

事態はさらに悪化していきます。ィーグルズが綱引きに勝ったその夜、ラトラーズが彼らのキャビンを襲撃したのです。べッドをひっくり返し、蚊帳を破り、さまざまなものを盗みましたが、その中にあった一本のジーンズが彼らの新しい旗となったのです。一方ィーグルズは思い切って昼間に襲撃し、彼らのキャビンを荒らして仕返しをしました。その時間帯にラトラーズはキャビンにいないはずでしたが、万が一のためにと棒や野球のパットを持参しました。自分たちのキャビンに戻るとさらなる奇襲に備えるため防衛手段を整えました。靴下に石をつめたり、投げつけるための小石をバケツいっぱいに集めました。子どもたちは単なる戦争ごっこに興していたのではありませんでした。短期間のうちに中傷合戦から殴り合い、石の投げ合いへと発展していったのです。

第二段階が終わり、第三段階に進めるようになったとき、研究者たちがどんなにほっとしたか容易に想像がつくとハリスは言います。その第三段階では敵対意識をなくし、いがみ合う両グループを一つの平和な集団にまとめる試みが予定されていました。ところが人々を分裂させる方が一つにまとのめるよりもはるかに簡単でした。はじめに研究者たちが試みた、彼らを非競争的な状況で一緒にさせるという方法では、彼らの敵対心は全く解消されませんでした。ラトラーズとイーグルズが一緒に食事をとると残飯の投げ合いがはじまり、食堂は戦場と化したのです。残された道はただ一つ、両者が協力しなければ克服できない共通の敵を、「上位目標」として設定するしかありませんでした。

生まれる感情” への9件のコメント

  1. 人間の本能的側面がこうも露わになるとは、ダーウィンの主張の奥深さを知る思いです。その中に、例えば心優しいあの人やあの人が、と思いつく人格者の方々がそのような実験対象となった際に同じような行動に出てしまうかもしれないという可能性が0ではないことを思うと、人間というものが共生と貢献の社会を築く為には、理性や自制心といった心が育まれていることがとても重要であることを理解できるように思いました。

  2. 直接遭遇したわけでもなく、相手集団がどのような集団なのかを知りもしないのに、「打ち負かしたい」という気持ちが生まれるということに正直驚いています。しかしながら、私自身にも別集団に対してそのような感情を抱くことはありました。その敵対心を抱いた集団というのは小、中学校の時の他校の生徒にたいしてです。特に修学旅行などで一緒の宿になった他校の生徒との間では、何が原因かも分からずに互いをなじって中傷しあうようなことをしてので、程度は異なりますが研究対象であったこの2つの集団と同じような感情を自然と抱いていたのでしょう。それを踏まえた上でサッカーや野球といった集団で行うスポーツに目を向けてみると、なぜあれだけの盛り上がりや興奮を見せるのかも分かるような気がします。

  3. 第二段階の集団間競争はまさに「われわれ」と「かれら」関係。敵愾心丸出しの競争が繰り広げられることは容易に予想がつきます。そして案の定「中傷合戦」から「旗を引きずり降ろし、燃やしてしまった」あるいは「短期間のうちに中傷合戦から殴り合い、石の投げ合いへと発展」。こうなってくると、もう手が付けられなくなりますね。いやぁ、なんとも凄まじい。戦争とはこれらのことの延長線上にあるのでしょう。そして、第三段階。おそらく集団間協力ということになるのでしょう。「人々を分裂させる方が一つにまとのめるよりもはるかに簡単」そして「一緒に食事をとると残飯の投げ合いがはじまり、食堂は戦場と化したのです。」あ~あ、という感じですね。この状況を収束に向かわせ、目的通り、二集団を導いていく方法、それが「両者が協力しなければ克服できない共通の敵を、「上位目標」として設定」すること。個人であれ、集団であれ、そうしたものが設定されると「われわれ」は一つにまとまる性を持っているようです。

  4. 〝両集団がお互いに直接遭遇する前から両者は敵対心を露わにした〟というのが研究者たちの想像を超えていたことだったのですね。面識もないのに嫌うというのは、食べたことないのに嫌う食わず嫌いと同じなのでしょうか。食べたことない未知のものへの恐怖がそうさせると思っていましたが、この場合はどうなんでしょうか。とはいっても、学生の頃は隣の学校の学生といろいろもめていたのを思い出すと、会ったこともないのに何がそんな憎かったのか謎ですね。そんな場合は協力しなければならない「上位目標」を設定することだとありました。これを読んだ時にこの方法はいろんな場面で使われているような気がしました。これを知っていれば、ある意味操作も可能になるのだと、人間の集団を操ることで戦争を起こすことも可能になる気がして、少し怖くなりました。

  5. この話を読んでいて、感じるのは、集団で相手の集団の存在を知ると、相手という存在意識からうまれる、どんなやつだろうとか、どんなことをしているんだろたうといった相手への興味が湧き立つときには、競争心から敵対心へと相手いるという存在だけでも、十分に変化があるのには人の持つ本能的意識を感じました。また、”ところが人々を分裂させる方が一つにまとのめるよりもはるかに簡単でした。”とあることから、集団としていきていくには、案外複雑なものがあり、秩序や掟、法的なもの、罰などの社会規範となるルールがあることによってうまくつながりをもてているように感じました。

  6. なるほど、既に意識は「かれら」に向かっていたわけですね。もうその時点でこの競争悪化させることが目に見えていきますね。それが人の本能といいますか、集団の本能であるようです。そこで寂しいことは和解するためには「残された道はただ一つ、両者が協力しなければ克服できない共通の敵を、「上位目標」として設定するしかありませんでした。」というこですね。別の敵を作らなければならないことですね。しかし人類を振り返るとそれが進化であったことがわかます。だからこそ共生と貢献が必要なのですね。

  7. なるほど・・・こういう展開になったのですね。違うグループの存在を知った瞬間に敵対心を露わにしたのは、大人からすると驚きでしょうね。やはり大人の価値観で行くと、まずは警戒心から、やがて敵対心へと変化するとおもっていたのが、簡単に飛び越えてしまい、そして競争の勝敗によって互いに報復行動に出て、それこそ戦争まがいな行動に移ってしまう・・・これを読んで、なぜか納得してしまう自分がいるのが、少しおかしいのでしょうか。

  8. 「人々を分裂させる方が一つにまとのめるよりもはるかに簡単でした。」確かにこういったことはよくあります。一度鼻についた人の印象はなかなか拭えないことはよくあることです。仲直りしたとしてもモヤモヤが残ることも。お互いの信頼関係を何もなかったころに戻すのは容易ではないのかもしれません。なぜ、そういったメカニズムがヒトの中に必要だったのか、自分の種を残すためなら味方は多いほうがいいのではないか。ダンバー数のように味方の数は把握できる数で納めるために大きくなった集団には所属していたくないのか。など、いろいろと考えてしまいますが、きっとなにかしらの理由があるのでしょうね。ただ、そんな中で「共通の敵を、上位目標と設定する」ということで、今までうまくいっていなかったものがまとまることもあります。不思議なことですが、やはり危機的状況になったときにその敵に合わせて、協力体制をヒトは作るように集団をつくるのでしょうか。

  9. 想像以上に過激な内容でした。そこまで激しい敵意を見せ、実際に行動に移してしまったのですね。「両集団がお互いに直接遭遇する前から両者は敵対心を露わにしたのです」とありました。姿は見ていなくとも、、声などから想像し、敵とみなしていたのでしょうか。分けることで、互いに敵対心を持つようになるということなのですね。両グループを対抗させるようなゲームをするというのは、なんとも争いを加速させてしまいそうなのがぷんぷんしてきます。学生時代の運動会や体育祭がそうですが、色別にチームを分け、競わすことで、学生たちのエネルギーが過熱したのを自分も含めて感じました。別の存在を作る、敵を作るということで生まれるエネルギーを利用しているのがもしかすると今のこの国でもあるのかもしれませんね。。。「ところが人々を分裂させる方が一つにまとのめるよりもはるかに簡単でした」とありましたが。まとめるというのは難しいことなのですね。

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