殺戮

進化生物学者ジャレド・ダイアモンドは、集団間闘争は数百万年間にわたって、人類および先人類の遺産の一部であり続けたと述べました。霊長類学者リチャード・ランハムもその考えに同調した一人だそうです。彼は私たち人類の祖先は現生チンパンジーに容姿も行動も似ていて、現生チンパンジーと同じ祖先をもつ霊長類であると考えています。共通の祖先をもつからこそ、チンパンジーと人間はそれぞれの生活様式が似ているのだと説明しているそうです。人間もチンパンジーもその集団で生まれたオスの連帯に守られながら生活します。もしくは、生活していました。メスは出産が可能な年齢に達すると別の集団へ移ります。いずれの種においても、オスのアライアンスは領地を守るだけでなく、近隣社会への襲撃を誘発することにもなったのです。近隣社会への襲撃は、より広い領地を求めること、もしくはより多くのメスを求めることが当初の目的でしたが、一度闘争が始まると、当初の目的は簿れ、永遠につづく戦いが展開されます。闘争がはじまってしまえば、近隣の民を殺すための新しくて明確な動機が生まれます。殺される前に殺せ、だとハリスは推測します。

600万年もの進化の過程を経て、人類はチンパンジーに似た祖先とは別の生命体として生きるようになりました。しかもその600万年もの間、正確には最後のわずかな期間を除き、人類はチンパンジーと同じような生活を送ってきました。人類は男性の場合は血縁集団、もしくは女性の場合は配偶者の血縁集団で構成される小集団で生活し、同じ集団のメンパーたちに守られながら生活します。私たち人類は孤立して生活するようにはできていません。菜食中心の食生活もまもなく肉食中心へと変わっていったのですが、肉が手に入れば集団内で分け合いました。そしてその600万年もの間、私たちは近隣社会と戦いつづけてきました。勝利した集団は拡大し、それが分裂し、いずれまた分裂した社会同士で戦いが勃発します。一方の集団が追いこまれ、殲滅されることありました。ジャレド・ダイアモンドは、「私たち人間のあらゆる本性の中で、動物の先駆者からもっとも直接的に受け継いでいる本性が、集団殺戮=ジェノサイドなのです」と言っています。

とはいえ、私たち人類は単なる殺し好きなサルではないとハリスは言います。純良な人間でもあるのです。ダーウィンは「野蛮な人聞でも自分の命をかけて同じ集団のメンバーを守る」と言ったそうです。野蛮な人間が自分の命をかけた結果、命を落としてしまえば、その人間はたちまちダーウィンの言うところの「不適」な個体とみなされます。そして彼の行動が次のように説明されるのです。「自分の命をかけて所属する集団を守った人間はその行動によって、自分のもつ遺伝子のうち50パーセントを共有するきょうだいや子どもたちの生命を守ったことになる。適合度は個体が高齢まで生き延びられるか否かではなく、遺伝子が順調に増殖できるかどうかで測られる。だからこそ近縁関係にある個体に対して利他行動をとるという現象は十分理にかなっているのだ。」

「利己的な遺伝子」論とも呼ばれているこの考え方は、進化するものは利己的でなければならないとの印象を与えかねません。この考え方の普及に尽力した者でさえ、時としてそのような印象をいだいてしまうことがありました。

殺戮” への7件のコメント

  1. 20世紀は戦争の世紀、と呼ばれることがあります。20世紀に入って、第一次世界大戦、第二次世界大戦、そして東西冷戦、そしてベルリンの壁崩壊、ソ連の崩壊、を経て21世紀に突入しました。私は20世紀後半の日本に生まれ育ちました。高度経済成長を経て、日本がJapan as No.1と評される時代を経験しました。米国につぐ世界第二位の経済大国日本の中で大人になってきました。自然災害はあるものの、戦争等人災を経験してこなかったことはとても幸せなことだと思っています。ジェノサイド。ホモサピエンスは集団殺戮を実行してしまう種であることを歴史は証明しています。ホモサピエンスは、ジェノサイドを実現する手段を今保持しています。核兵器です。人類どころか地球上の生物を何回も殺戮することが可能な核兵器を国連の常任理事国、第二次世界大戦時の連合国各国が保有しています。遺伝子が利己的であるならば、核兵器は抑止力以外の何物でもないものとして扱ってほしいものです。このことを可能にする遺伝子をオンするには?

  2. 「とはいえ、私たち人類は単なる殺し好きなサルではない」自分の中に何か知らない自分がいるかのような不思議な感覚で読み進めていましたが、人間の純良な部分や良心というものもまた本能的に持っているものであると考えることもできるように思え、ホッとするような気持ちになりました。保育に携わる人たちや子どもたちに優しい眼差しを送る人を見る度に心が和むのは、持ち合わせている心のその部分が反応するからかもわかりません。それは逆を言えば集団殺戮のような、猟奇的な側面が感化されるような環境にいればその側面ばかりが強調され、自分というものはそういう人間なのだと思い込んでしまうものなのかもわかりません。

  3. 「集団殺戮=ジェノサイド」・・・非常に殺伐とした言葉です。しかし、私たち人にはその本能が刻まれているという事実を変えることはできません。その本能を受け入れた上で、どのように考え振る舞うかが重要なのだと思います。「私たち人類は単なる殺し好きなサルではない」確かにそうだと思いますし、そう信じたい部分です。そしてそれを証明するかのように争いのない社会というものを願う気持ちも存在しています。それを思うと、争いを無くしたいと思うのはある意味で本能に抗うことなのかもしれませんね。

  4. ヒトに集団殺戮の本性が存在しているということは、世界大戦などなどの数々の惨虐な行為はある意味でその本性に従っていたのだと解釈してもいいのでしょうか。
    ですが、自分たち人間はそのことを汚点として語り継いでいるし、恥ずかしいとか、ひどいとか二度と落とさないようにしようとか思っているのもまた本当のところなのだと思います。そのことは本性に乗っからないで抵抗しようという人間のある意味での本性なのかもしれません。
    本性と本性が内でぶつかり合うのが人間なのかもしれませんね。

  5. 争いはなぜ起きてしまうか、戦いはなんのためにあるのか、お互いがお互いにとってのメリットというものは、なんなのかと改めて考えてしまいます。そうすることが、領域の拡大、そして、新たな出会いだとするのならば、戦う
    のではなく、共存ではダメなのかと思う部分もありますが、互いに社会的文化が違えば、譲れないところがぶつかり合うのかなとも思います。自分にもこのような遺伝的な思いがあるのかなと思うと、少し、怖い気もしますが、進化の過程には、戦いがあることを強く感じました。

  6. 「自分の命をかけて所属する集団を守った人間はその行動によって、自分のもつ遺伝子のうち50パーセントを共有するきょうだいや子どもたちの生命を守ったことになる。」とあります。以前我が子の保育園であった話ですが、違う集団におもちゃを取られた我が子を見ていたお友達が違う集団に向かってやめろと言わんばかりに襲いかかるというか守りに行ったという話を伺ったことを思い出します。そうしたことを2歳クラスの子でも遺伝子的に行うことがあるのですね。

  7. 動物の先駆者からもっとも直接的に受け継いでいる本性が、集団殺戮=ジェノサイドなのですという言葉を聞いた瞬間、少し衝撃というか、自分の遺伝子にもそうした本性が眠っていると思うと怖さを感じます。しかし、その後の文章に自分の命をかけて集団のメンバーを守るとかてあるように、単なる殺戮が好きなサルではないのでしょう。実際にこうして遺伝子が残され、今まで繋いできたという結果があります。利己的な遺伝子論と書かれてありますが、当時の自分にとっての利益は遺伝子を残す事、それを達成するために利他的な行動をとる。自己を振り返る事もヒトとしての特徴のような気がします。

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