戦い

1976年にアシュレイ・モンタギューが「戦争を仕掛ける本能などは存在しない」と言いました。当時、「戦争」という単語は悪評高き言葉とされていました。まるで二つが両立しえないものであるかのように、人々は代わりに愛の大切さを熱心に説いたのです。しかしモンタギューが本当に嫌っていたのは「本能」という単語だったとハリスは言います。長い間この言語は流行遅れだとされてきましたが、今日この単語には復興の兆しが見えるともハリスは言うのです。心理言語学者スティーヴン・ピンカーは彼の優れた著書である『言語を生みだす本能』のタイトルにさえこの単語を使っているそうです。ならば、今一度、人間には戦争を起こす本能があり、それは私たちの祖先である霊長類から受け継がれたものである、という仮説を再検証してみようとハリスは提案しています。

ジェーン・グドールはこの仮説を真剣に検討し、「本能」という単語を直接使わず「前適応」という単語を使ってはいますが、その仮説が道理にかなっていると彼女が考えていることは明らかだったとハリスは分析しています。彼女が指摘するところでは、チンパンジー社会は戦争が起きるのに必要な「前適応」した行動である、集団生活、なわばり意識、狩猟の技術、そしてよそものに対する嫌悪感などがすべて揃っているといいます。さらにオスのチンパンジーは集団間闘争をたいへん魅力的なものと感じているようだと彼女は言っています。彼らは「生得的に暴力行為に魅力を感じ、とりわけ近隣社会に向けられた攻撃には強い魅力を感じる」ようだと言うのです。グドールは、このような特性は人類がより複雑な戦闘行為を志向することの生物学的基盤を成しているのではないかと考えているようです。

学者の中には、殺し好きのサルである人間と社交好きな人間との大きなギャップを前に尻ごみしてしまう者もいると言います。チャールズ・ダーウインはそれに惑わされなかった一人だとハリスは言います。彼は、著書「人間に由来」(長谷川眞理子訳)の中でこう言っているそうです。

「ほとんどの人は、人間が社会的動物であることを認めるだろう。人間は孤独を嫌うし、家族の枠を越えて社会的なつきあいをしたいと望むことからも、それは明らかである。独房に閉じ込めることは、最も厳しい罰の一つである。…隣接する地域に住んでいる部族どうしはほとんど常に戦争状態にあると言っても、それは未開人たちが社会的動物であることの反証にはならない。なぜなら、社会的本能は、同種に属するすべての個体に拡張されることは決してないからだ。」

確かにある種に属するすべての個々人に社会的本能が向けられることはないと言います。同じ部隊、部族、共同体、国、民族に属するメンバーにだけ向けられるのです。シナイ山で授けられた戒め、「汝、人を殺すべからず」もヨシュアを止めることはできませんでした。ヨシュアはエリコ、アイ、マケダ、リブナ、ラキシュそしてエグロンの住民を無差別に虐殺したのです。神がそれを許さないとはヨシュアは考えもしなかったのです。

エリコやトロイそしてボスニア、ルワンダにいたるまで、歴史にはこうした戦争が数多く刻まれています。そして戦闘行為、敵を虐殺するといった行為に関しては、人類がその勝利を書き記すことを学ぶ前からその術に熟達していたことが考古学的に立証されています。進化生物学者ジャレド・ダイアモンドは、集団間闘争は「数百万年間にわたって、人類および先人類の遺産の一部であり続けました」と述べているそうです。

戦い” への4件のコメント

  1. 「戦争を仕掛ける本能」それをそのまま表出していた時代から、共生と貢献の社会へ向かう過程に現代があるということを知る思いがします。それはとても理性的な社会であり、思いやりのある社会です。子どもたちがケンカをしたり、取っ組み合って遊んだり、それはもしかしたら本能的な側面で生きることを体験しているのかもわかりません。それを経て共生と貢献に辿り着く。保育を知る上で人類の進化を辿る必要があるということは、このようなことを指すのだろうと思いました。

  2. 今回のブログの最後に紹介された、進化生物学者ジャレド・ダイアモンド氏の「集団間闘争」については、私もその通りだった、と思います。私たちが日本史や世界史を学ぶとき、どんな学び方をしてきたか、振り返るとあることに気づきます。それは、主として闘いの歴史を学んでいます。戦国時代や幕末維新、あるいは応仁の乱へ至る室町時代、源平合戦からの鎌倉時代、・・・。世界史も闘いや争いを軸とした政権交代という支配者の歴史を学んでいます、というか、何故かそうした学びが面白くなってしまうような条件付けをされてきた。残念ながら、協力する、共生する、貢献し合う、という事実をあまり学んでは来ていません。今回のブログを読み終え、このコメントを記述しながら、さらに気付いたことは、・・・とは言っても私たちホモサピエンスが今に至るまで生存するどころか「人新世」という一時代を気づき上げることができた背景には結局、協力、共感、共生、貢献がホモサピエンス社会にあったからだろうと思うのです。さもなければ、私たちは今いない。私たちの本能にはこれら社会脳形成のファクターがある。しかし、争いや残虐行為に向かう力も私たちの本能にはある。よって、私たちは自らの生存を可能とする選択を常にする練習をしなければならないのだと思うのです。道徳の授業はこうしたことを扱ってほしいと突然思いつきました。

  3. 争いの上に歴史は成り立つ、私たち人間は争いからは逃れることができないのでしょうか。ほんの些細なものから大きなものまで様々な争い、戦いが私たちの社会では日々繰り返されています。それは人としての本能であると言われれば仕方がないのかもしえませんが、それをそのまま受け入れてしまうのはあまりにもしのびなく感じてしまいます。戦いや争いを好む生得性がありつつも、人は社会的本能も持ち合わせています。その本能は全てのものに対して及ぶものではないかもしれませんが、それを拡張するための努力はきっと必要でしょうし、それに繋がるのが保育や教育であるように思えます。

  4. 「戦い」というタイトルを見て、自分は子どもたちがよくしている「戦いごっこ」を連想していました。このあそびもハリス氏の仮説に基づくなら、生得的なものということになるのでしょうか。〝歴史にはこうした戦争が数多く刻まれています〟たしかにそうですね。歴史年表の節目には必ずといっていいほど「戦い」が記されています。ですが、その裏には協力と貢献や共感といったものが存在しているはずです。社会的本能というのでしょう。その表裏一体な、矛盾しているのがヒトなんだと思いました。

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