少年たちの行動

ゴールディングがノーベル賞を受賞した小説「蠅の王」の中の、いくつかの間違いをハリスは指摘しています。その中でも最も重大な間違いは、少年たちが殺し合いをはじめたその経緯だと言います。間違っているのは殺し合いをはじめたという事実ではなく、その経緯なのです。少年たちには、ラルフとジャックという二人のリーダーがいました。ゴールディングの粗略な象徴化の下でラルフは法と秩序を、ジャックは凶暴性と無秩序を象徴していました。少年たちは一人ずつ説きふせられジャック陣営に迎え入れられていきます。残るはラルフ、ピギー、そして変わり者のサイモンだけになりました。そのうちサイモンが殺され、ピギーも殺されてしまいます。そして暴徒がまさにラルフを捕らえようとしたそのとき、間一髪、大人たちがやってきたのです。

この話の筋道に異論を唱えたのはハリスがはじめてではないそうです。反戦的で反本能的な考え方について言及したアシュレイ・モンタギューは、すでに1970年代に『蠅の王』が非現実的であることを、実際に起きた事件を引き合いに出して訴えました。その事件とはメラネシアの子どもたちが六、七名、ある島に数カ月間取り残され、それでもお陰様で仲よく暮らすことができたというものでした。モンタギュー版の『蠅の王』では、最後に大人たちがやってきて審判を下す際に放つ言葉は「君たちはイギリス人なのだろう?イギリス人子弟ならば、もっとまともに対処できたはずだ」ではなく、「お見事!よくやった!」となっていたことだろうとハリスは言います。

ところがそのモンタギューも間違っていたとハリスは指摘しています。メラネシアの子どもたちを引き合いに出したことは公平さに欠けていたというのです。彼らは幼なじみで、まるで大家族のきょうだいのようにつきあっていたのです。しかも人数はわずかに六、七名と少ないのです。それに引き換え、ゴールディングの架空の島には二十数名の少年たちがいて、しかもその多くはお互い面識がなかったのです。

ハリスは、こう問いかけています。「もしあなたが長いつきあいのある人々と面識のない人々と一緒に島に取り残された場合、あなたはすでにつきあいのある人と行動をともにすることになるでしょう。しかしゴールディングの小説ではすでに顔なじみであった少年たち―島に漂着する前までは、ジャ,クが率いた学校のコーラス部に所属していた少年たちは、まもなく四分五裂の状態となり、中にはラルフ側につく者さえいたのです。」

現実の世界ではそうはならなかったはずだとハリスは言います。ジャック率いるコーラス部のメンバーはジャックと団結し、残りがラルフの下に結集する。もしくは月謝の高い全寮制の学校出身者が地元の公立小学校出身者と別行動をとる。いずれにしても戦闘の必須条件である二つの集団が形成されたはずです。殴り合いの喧嘩や流血沙汰を引き起こすことはあっても、それは集団対個人ではなく、集団対集団となっていたはずだというのです。

ゴールディングはイギリスの哲学者トマス・ホッブズ同様、文明なき生活は私利私欲を追求する冷酷な社会、自分の身は自分で守る、人のことなどかまっていられない社会だと考えました。一方モンタギュ一はフランスの哲学者ジャン=ジャック・ルソーのように、文明なき生活はしかと運営されたヒッピーのようなものだと考えました。全員が仕事を分担して食料を分けあい、花の香りを楽しむ余裕のある生活を想像しました。ハリスは、この四人とも間違っているというのです。

少年たちの行動” への9件のコメント

  1. 知識など、もしくは自分の考えなど、殆どないことを思い知らされるような、そんな読後感を味わってしまいました。ゴールディング『蝿の王』を読めばきっと人間とはそういうものなのか、と感じていたと思いますし、モンタギュー版『蝿の王』にこうして触れればなるほど人間とはやはりこういうものだろう、とこの何分間かの間に二転も三転もする頭です。確固たる、または、信念、のようなものになるまでどれ程の時間を要するものか想像もつきませんが、読む、という行為が何かをもたらすだろうと、ただ好奇心に身を任せて読み進めていきたいと思います。

  2. 自分がそのような状況下に置かれた場合はどうするだろうと考えてみました。周りが全く面識のない人であったとしても、何かしらの共通項を見出し、集団に属すのではないかと思います。そのような極限状態においては集団に属している方が合理的ですし、明らかに生き延びる確率も高いからです。ただ、集団対集団の争いにはなるが、集団対個人というケースは現実ではありえないとありますが、ふと「いじめ」の場合はどうなのだろうと考えてしまいました。全くの見当違いかもしれませんが、いじめの場合、集団対個人というケースが多いように思えます。その場合とこの無人島でのケースは全く別物なのでしょうか。集団における人の心理というものがよく分からないというのが今の私の正直な気持ちです。

  3. 「われわれ」と「かれら」という関係、つまり「集団対集団」という関係、ホモ・サピエンスはそうして集団として牽制し合いながら、統廃合を繰り返しつつ、現在に至った種であろうと想像します。それにしても、今回のブログの最後、「ハリスは、この四人とも間違っているというのです。」おっとっと、そんな思いを抱きました。ゴールディングでもなければ、イギリスの哲学者トマス・ホッブズでもない。モンタギュ一でもなければ、フランスの哲学者ジャン=ジャック・ルソーでもない。じゃあ、何なんだ、と私は思いました。ハリス女史の結論がますます楽しみになってきます。顔見知りの間柄なら、お互いに助けようとする、と思うのですが、ヒトは何等かの原因によって極限状態を出来させると一体どうなるのでしょうか。人肉食いを小説にした、武田泰淳著「ひかりごけ」を思い出しました。太平洋戦争中もそうした行為に及んだ日本兵のことを耳にしたことがあります。本当なのか嘘なのかわかりませんが。

  4. よくマンガでもこの「蝿の王」に近い話があり、この話しがその元祖であったのかもしれないと思いながら読み進めていました。全く面識のない人と無人島にいきなり連れて来られる、そして、そこで繰り広げられる話しはいろんなパターンがあり、結構ハマってしまう分野の一つです。
    ハリス氏は四人とも間違っているということで、どのような見解であるのか興味がわきます。

  5. 人は、こういった状況下になれば、こう考え、こういう姿が見られるだろうという想像をゴールディングはしていたのだろうと考えられました。無人島に全く面識のないもの同士がであったと考えると、自分だったら最初は警戒するものの、少しずつ近づき、協力したりするようになるようにおもいました。そのなかで、もし、集団をリーダー同士が小集団をもつようになったのならば、なんらかわれわれとかれらという関係ができ、争うようになるかもしれません。しかし、これが個人対集団というような場面には、現代でいういじめといったことになるのでしょうが、このような状況下では、そのような考えになるのも、考えにくいとおもいました。

  6. ますます「蠅の王」というのを見たくなりますね。そんな状況下にいた時、人はどうなるのか。海外のドラマ、ロスト?を思い出します。それが子どもたちとなるとまた話は変わってくるのですかね。「少年たちが殺し合いをはじめたその経緯」に疑問があるとあるように、綴られた物語から「そもそも」をしっかりと見直すことをハリス氏はしっかりと見据えているのでしょうか。話は違うかもしれませんが、そのまま受け入れることも大事ですが、事実に対してそもそもこれはどういうことなのかという考えに至ることも物事を考える上で必要なことだなとハリス氏の話を読んでいて思うことです。

  7. ゴールディング、イギリスの哲学者トマス・ホッブズ、モンタギュ一、フランスの哲学者ジャン=ジャック・ルソー、それぞれが子どもに対する考えを発表し、理論を打ち出していますが、その4人とも間違っているというハリスの言葉に私は衝撃です。素人の私が一度は聞いた事があるほど有名な哲学者さえも否定するというのは、それだけ子ども対する思いが強く、実際の子どもの姿を理解しているのでしょう。実際に藤森先生の講演でも似たようなエピゾードをたくさん聞いています。時代によって確かに子どもを取り巻くく環境が違い、影響を与えているかもしれませんが、元はヒトという枠組みの中では元は同じです。時代が違っても共通しているものが真理だと思います。

  8. 人の集団をつくるプロセスを考えていくと矛盾してくる内容が見えてきますね。「もしあなたが長いつきあいのある人々と面識のない人々と一緒に島に取り残された場合、あなたはすでにつきあいのある人と行動をともにすることになるでしょう。」とありますが、自然の流れでこういった集団が形成されるだろうなと感じます。全く面識のない人間は信頼がおけるかというとそうではないですし、面識があればある程度予測がつきますから、人は安心してその距離感をとることができます。ゴールディング氏とモンタギュー氏の指摘はまさに「蠅の王」の話のように「法と秩序」と「凶暴性と無秩序」」の比較のように相反したものを表しているように感じます。これまでの進化の過程を見ていても、集団をつくることは人の特性としてあるのだと考えると、「喧嘩や流血沙汰を引き起こすことはあっても、それは集団対個人ではなく、集団対集団となっていたはずだというのです。」というのが自然なのだと感じます。その反面他のコメントを書かれているように「いじめ」というのはと考えると、なるほどそういった側面はどうなると考えさせられますね。まだなにか解明されていないものもありそうですね。

  9. ハリスの読み取りはおもしろいですね。小説ということでしたが、これは実話ではないのでしょうか?調べてみましたが、分かりませんでした。そのような小説からも子どもの特性を考えるという見方はとても大切なことなのかもしれません。それだけ、集団のことを考えていたのかもしれませんね。「殴り合いの喧嘩や流血沙汰を引き起こすことはあっても、それは集団対個人ではなく、集団対集団となっていたはずだというのです」とありました。確かに、集団に立ち向かっていく個人というのはあまり現実ではいないのかもしれません。ドラマや小説で出てくるヒーロー的な存在なら別ですが、現実ではやはり個人が大きな集団に立ち向かうというのはあまりないのかなと思ってしまいます。「ハリスは、この四人とも間違っているというのです」とありましたが、ハリスはどのように考えたのでしょうか。

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